表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

おさな の握り飯


澤田朔左衛門(さわださくさえもん)家の屋敷は代を追うごとに大きくなっていた。敷地が広がっていったばかりでなく、建物の間取りも複雑化して行った。


家督を継いだ当主の吉兼でさえ、その全貌を把握できるものではなかった。

特に彼が足を踏み入れ難く、その必要性もあまりない場所があった。

往来を挟んで、本邸の向かい側にまで進出した薬種問屋である。


婿に入った当時、店の者に中を案内された事があるが、目を覆うばかりの光景が吉兼の脳裏に焼きついた。

店先までは、まだ良かった。

気の良い女中たちが店番をしており、奉公人、番頭連中も真面目な働きものばかりだ。吉兼のことは誰もが事前に聞いており、一歩店へ足を踏み入れると、

店頭にいるほぼ全員が次々頭を下げて、出迎えてくれた。実に清々しいと吉兼は思った。

しかし、それも束の間、奥へ奥へ足を踏み入れると、日もろくに射さぬ座敷牢のようなところで、陰気な白衣姿の手代どもが頭から頭巾をすっぽり被り、薬の調合を行っているのだ。

作業台の上には、刑場から運び込まれた罪人の肉塊から腑分けされた、脳ミソだの胆嚢だのの臓器が、無造作に並べられていた。

それらが更に斬り刻まれ、中庭で天日に干されていたりする。


「澤田丸」と呼ばれる、それら妙薬は、滋養強壮、腹下しなど万病に効くなどと江戸市中でも評判だが、元を正せば全て罪人の内臓から製造されている、夥しい犠牲の下にのみ存在しうる、おどろおどろしい薬なのであった。


吉兼も話には聞いていたが、実際に目の当たりにすると、刺激が強く、肉塊が安置されていると言う地下室まで行く前に音をあげてしまった。

店を出る頃には、奉公人たちが明朗快活に、店先で客の相手をする姿や、誇らしげに行商へバンバン薬を卸している姿も、ただ単純に清々しい風景としては見られなくなっていた。


店はすこぶる繁盛していた。

しかし、この薬種問屋が澤田家の屋台骨と言う訳ではない。

更に金を産むのは、刀剣の《御試し斬り》行為にある、御公儀の御試し切りは穢れ事として澤田家が一手に担っているが、

大名、旗本など幕臣の中には、実際に人体を使って居合斬りなどの稽古せねば気が済まぬという輩が多く居た。

罪人の(むくろ)の始末までも自由に行えた澤田家では、そのような幕臣たちに骸を売却していたのだ。


それらの商売が成り立つのも、

澤田朔左衛門と言う名跡の威光あったればこその事だった。

この家の家督を継いだと言う事は、

この膨大な死体利権の一切を引き継ぐと言う事でもあったのだ。


そのことを吉兼が自覚した時、もちろん養父吉定へ迷わず離縁を申し出た。


吉定は、吉兼へ家督を相続し、早々に隠居どころか出家する気でいたため、出家の準備で大忙しであった。

受け入れ先の寺の塔頭(たっちゅう)も下見に行き、入居を今か今かと心待ちにしていたところでの吉兼の申し出に、それはもう憤慨した。「なにおー!」

だが、すぐ思い直した。

吉兼の心中を一番理解出来るのは吉定だけであった。よくよく思い返して見れば、同じく養子の吉定にも同じような時期があった。

そんな時、先代に言われた言葉を、

そのまま、吉兼に言って聞かせた。


「ワシも、方々跡取りを探してな、そなたほど適任の者は居ないと、そう思った、然るに是非ともサキの婿にと熱望したのじゃ……剣術を更に磨き、刀剣への見識を深めること、そして、罪人の辞世の声に耳を傾け心安らかに旅立たせてやることじゃ、魂の抜けた骸を解体せしむることにまで、今は気を揉む必要はない、そなたは、飽くまで《御様御用》のお役目に邁進するのみじゃ」


吉兼は何度か離縁を申し出たが、その都度のらりくらり、念仏の如く同じようなことを繰り返し言われた。


そのうち、吉兼は罪人を斬ることを恐るるは己の心が、未だ未熟であるからなのだ。

と思うようになった。



「やはり、無理だ」

吉兼が、青ざめた顔で見つめる先で、


奉行所の同心が、五分銭を払って、

罪人の胴体をまるでクジラかマグロでも解体するように、何度も叩き切っていた。

「また、五分か……」と、不服そうな同心に、

「もう、斬ったでしょう、二振り目なんだから、もう五分でしょうよ」

そう、説明しながら、

弟子の忠兵衛が、手を出した。

同心は、渋々あと五分払った。

そして、刃こぼれも気にせず、骸から剥き出しになった肋骨目掛けて刀を振り下ろした。

「やはり、この刀はダメじゃな、骨のところで止まる」

と同心が言い放つと、

「それは、奈良刀でござる」

吉兼は吐き気を抑えながら言った。

「何を申すか、長船ものと聞き及んでおるぞ、この見事な波紋を見よ」

同心は、吉兼の目の前に血みどろの切っ先を差し向けた。

「忠兵衛、水を……」

と、吉兼が青い顔で言うと、忠兵衛は柄杓(ひしゃく)に取った水を、吉兼の顔の前へ出した。

「拙者でのぅて、刀にかけよと申すに」

そう吉兼が言うと、忠兵衛は同心の差し出した刀へ、柄杓の水をかけた。

刀の血が洗い流され、波紋が浮き出た。

「……やはり、相違ござらん、何度か焼き付けし、波紋を作っておる……奈良刀でござるな」

吉兼が、そう言うと、同心は悔しそうに、刀を地面へ叩きつけた。

「あの刀剣商、ふん縛ってやる」

同心は、荒い鼻息で刑場から出て行った。

「あ~、やっと帰った」

と言って、忠兵衛は地面の刀を片付けた。

他の弟子たちは、同心がズタズタにした

(むくろ)をわざわざ吉兼の目の前へ運んできた。

「先生、腑分けに回しますか、」


「……もう良い、使えんだろう、さっさと片付けよ、もう日が暮れるぞ」


嗚咽を抑えながら吉兼がそう言うと弟子たちは、すごすごと肉塊を添え木から外し、刑場の奥へ片付けた。


刑場近くの堀端(ほりばた)に、高さ4尺、幅2〜3間の獄門台が組まれ、

獄門刑に処された罪人の首が五つばかり晒されていた。

傍には捨て札が立てられ「右の者〜」と罪状が記されてあった。

吉兼一行は、一応、首の様子も確認しに寄った。

獄門台の前では、

刑場の役人たちが丁度、3名の非人たちへの申し送りが終わり帰るところであった。


吉兼の視線に気づき、役人の1人が駆け寄って来た。

「これは、澤田様、……、」


「何かあったのですか、」

と、吉兼が尋ねると、役人は少々困り顔で苦笑いを浮かべた。


「何、大した事ではございませぬ、いつも来ておった者が、急に来ぬようになりまして、他の者の話では、夜の河原で辻斬りにやらたのではないかと……新しい者に、手順を一から説明せねば相成りませぬ故、少々手を焼いておりました」


そう言う役人越しに、吉兼は獄門台の横の地べたに座している非人どもに目をやった。

非人たちは吉兼を直視せず、一様に頭を垂れた。

「これ、これ……申し送ったばかりではないか、立っておれと申すに」

その役人は、非人たちを怒鳴りつけ、また獄門台の方へ戻って行った。


高さ4尺ほどの獄門台に晒された首は、夜のあいだ、野犬に喰われたり、盗まれるのを防ぐため、ひとつずつ桶を被せ、非人たちが2~3名で寝ずの番をするのが常であった。


「辻斬りとは、非人どもも不憫じゃのう」

と呟く吉兼の脳裏に、昨夜の河原での光景がよぎった。

川面を漂っていたあの骸がそうであろうか……、

非人を斬った辻斬りとは“あの男”の事であろうか……。


「非人に生まれついたのが、悪いのじゃ」

と忠兵衛が大声を出し、鼻で笑うのを、吉兼は咎めた。


「これ忠兵衛、非人とは申せ、御公儀のため働く者どもじゃ、礼を尽くさぬか」


吉兼は非人たちへ一礼し、帰途へついた。


「やはり、別人じゃ」

との、非人たちの囁き声が、背後から聴こえて来た。

「どちらにせよ人殺しじゃ…」


「人殺し……人殺し……」


非人どもの声が、吉兼の頭の中でこだました。


《首切り坂》を下り、

屋敷へ着いた頃には、既に日がとっぷりと暮れていた。


吉兼の妻サキが、女中のサナと連れ立って、玄関先で三つ指をついて出迎えた。

軒先に盛り塩があったが、サキは(かめ)を携え軒先まで出て、吉兼や供の者の召物に塩を振りかけた。


母屋の屋敷内は死臭が一切しなかった。

これは代々の当主が心がけて来た事であった。

屋敷へ入る前に離れの風呂へ浸かり、返り血など、骸の臭気の一切を洗い流し、体中洗い浄めるのである。

「家内には仕事を持ち込まぬこと」との家訓は、家族への気遣いから言われ始めた事であるが、

澤田家が代々、男子を授からなかったのは、家に取り憑いた悪霊のせいであると、家内の誰もが信じていたためでもあった。


たまに、吉兼が厳重にお浄めを施しても、

「まだ……」と、

サキが厳しい顔で頻りに塩を巻く時がある。サキが多くを語らないので、最初のうちは風呂へ浸かり直したり、着物を着替えたりしたが、吉兼は、そのうち何となく勘付いてしまった。

それは、妻のサキにはどうやら特別な能力があるということだ……。

サキには、この世の者ではない異形の者が見えるらしかった。

吉兼は、恐ろしいのでその事について詳しく聞いた事はなかったが、

自分に何か取り憑いていると言われるのが怖くて、サキに近づかないようにしているうちに、サキという人自体が何となく恐ろしく感じられるようになっていた。

故に、

サキと吉兼は夫婦(めおと)として一年あまり共に暮らしていながら、床も共にせず、まして互いの部屋を往き来することも滅多になかった。

言葉も必要以上には交わさなかったので、それ程親しくはなかった。


サキに用事がある時は、サキが妹のように可愛いがっている、女中のサナを通した。


数え年で14歳になるサナは、奥州の寒村で生まれ育ったが、家族を飢饉で相次いで亡くし、男手ひとつで育ててくれた父親とも数年前に死別し天涯孤独の身の上だった。知り合いを頼って江戸へ出て来たが、お国訛りが酷く、女郎ぐらいしか勤き口が無いというところで、ひょんな事からサキに拾われて澤田家へやって来た。


それが、丁度、吉兼が澤田家へ婿入りした頃で、同じような境遇から吉兼には親近感を抱いて、数少ない良き理解者となっていた。

吉兼も、不遇の身の上ながら、聡明で天真爛漫なサナには好意を抱いていた。

屋敷内では誰よりも信頼していた。


「旦那さんさ言われだ通り、昼と夕さ二度、蔵さ握り飯ば持って行きやした」

と、夕餉(ゆうげ)の善を運んで来たサナが、吉兼へ耳打ちした。


「うん、大義であった……、誰にも気づかれておらぬな」

と、吉兼がサナへ鋭い視線を送ると、


「うん、気づかれてねぇです」

と、サナも鋭い視線を送り返した。


「サキの様子はどうだ、何か勘付いているようであったか……」

と、吉兼が更に尋ねると、


「うんにゃ、なんも……気づいてねぇと思うけんど、奥方様の事だから……オラ、正直わかんねぇ」

とサナが苦笑いすると、

その顔につられて、

「そうか……」と吉兼も思わず笑ってしまった。



しばらくして、家内が寝静まったのを見計らって吉兼は部屋を出た。

サキの部屋の方へ目を遣ると、サナが障子を少し開け、手で小さく丸を作り出していた。

吉兼はそれを見るや「うん」と頷き、中庭を突っ切り、蔵へと入っていった。


吉兼が蔵の扉を開けると、サナが持って来た握り飯がまだ手付かずで置かれてあった。

そのまま蔵の二階へ上がると、納戸の奥で、昨夜の辻斬り男が刀を抱いて胡座をかいていた。


「握り飯を喰わなかったのか……」

と、吉兼が男へ尋ねると

「ここの窓から見ておったが、あの女中は信用できん……、そなたの奥方か、分からんが良い着物を着た女が、廊下からじっと此方を眺めておった……俺はいつまで、ここに居れば良いのだ」


男の目に、憂患(ゆうかん)の相が見て取れた。


「公方様が日光への途中、刑場へお立ち寄りになられるのが3日後、明日から早速入れ替わってみるのはどうじゃ」


と吉兼は、男の目の前へサナが握った握り飯を差し出した。

男は無言で顔を背けた。


吉兼はひとつ自分でも食べてみて、

もうひとつを男へ差し出した。


「サナは表裏のない聡明な娘だ、あれを信用せねばこの試みは成就せぬ」


吉兼がそう言うと、

男は無言で彼の手から握り飯をかすめ取り口へ運んだ。




つづく







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ