暗闇の中の人々
「……最も忌むべきものは、それ(物怪)を招き入れる人の業だ…」
吉兼は、阿修羅の王シャンバラの言葉を思い出していた。
“招き入れる”つまりそれは魔界からあの怪物を召喚した人間が居ると言うことを示唆している。
吉兼の美しき妻サキの話によれば、この国では古来より魔物を式神として召喚する風習が存在すると言う。
民間信仰と結びつき頻繁に行われたのが
《丑の刻参り》である。
吉兼は、再び夜が来る前に、
その召喚の儀式を行った人物を特定し、やめさせる必要があると考えた。
そこで屋敷の近所で、《丑の刻参り》に使えそうな御神木に目星を付け白頭巾手代たちを忍ばせた。
サキの部屋には陰陽道から世界各国神話に纏わる書籍が豊富にあった。
吉兼はシャンバラの話を頼りに、
マダが古代インド神話に登場する怪物であることを突き止めた。
マダは《酩酊》を意味する。
「酷く酒に酔うことを罪と感じる者、酒に酔う者への憎悪……」
吉兼が書籍を枕に寝そべりながら、そんなことを呟いて居ると、黙々と《護符》を記していたサキの手が止まった。
「誰でしたか、酒乱の父親によく打たれたと……わたくしに申した者がありました、伊助、伊助です」
とサキは吉兼の顔を見た。
「我が父が、出家を夢見て、お経にばかり興じておった頃、わたくしがよくボヤいておったのです、すると伊助が“日がな1日酒に溺れ家族へ暴力を奮う父よりマシだ”と、申すので、家族にそう言う者がおったのか尋ねると、“我が父がそうでした”と答えたのです」
サキと吉兼は見つめあったまま、暫し固まった。
「伊助に父があったと言う話は聞かん、
あやつの家は、確か江戸表で薬種問屋を営んでおった、しかし資金繰りがうまく行かず廃業し、その時、父も体を壊し亡くなったと聞く……その当時伊助はまだ二歳かそこらの赤児だった、父が酒乱だったとしても、恨みを持つに足る相手は、もうこの世には居らん、しかしお咲さん、家内の者を疑うのは如何なものか……、だいいち伊助は、大番頭の骸を見つけ、魔物の出現をまっさきに知らせに来たのであろう……」
吉兼は、本の枕から上体を起こした。
「待てよ、大番頭と言えば、魔物出現の折、真っ先に殺されたのは大番頭のみ……、魔物を召喚した者の恨みは大番頭に向けられていたと考えるのが自然か……」
吉兼は再びサキと見つめあって、サキの膝枕を強請ったが、敢えなく拒否された。
「伊助を疑うのは、わたくしも心苦しいですが、伊助が魔物を召喚させたとすれば、未熟な術によって式神を暴走させてしまい、我らへ助けを求めて来たと考えられませんか」
と、サキは、しきりに手を握ろうとする吉兼をかわしながら言った。
「それならば、伊助に限らず誰にでも言える事じゃ……お手を……」
吉兼が出した手を、サキは遂に叩いて声を荒げた。
「本日、旦那様は、午前でお仕事が終わり、まだ丑の刻までは大分長うございます、少し外へ出ていらっしゃい……、そうそう、大番頭もご健在ゆえ直接お話を伺うとよろしい、」
吉兼は、
「はい」と立ち上がり、薬種問屋へと向かった。
吉兼が去った部屋の床には、本が数冊出しっぱなしになっていた。
サキは「やれやれ」と本を拾い集め抱え上げると、書棚へと1冊ずつ並べていった。。
その中の1冊を手にとった時である。
彼女の指先に静電気のようなものが走った。
サキは思わず本を床へ落としてしまった。
その本は何も書かれていない革製の重厚な表紙の古文書であった。
サキは再びその本を拾い上げると、ページをめくってみた。
「グリモア……」英字で印刷された洋書である。
西洋魔術における《悪魔召喚》について基本的な所作が書かれてある。
薬種問屋の者が長崎に行った際に知り合ったオランダ人から手に入れた物である。
サキは、《魔法陣》と書かれた項目で手を止めた。
ページが一枚破り取られた痕跡があった。
前後の脈絡から、どうも魔力の強い悪魔を呼び出す方法が書かれたページであるらしいことは容易に察しがついた。
“誰かが部屋へ忍び込みページを盗み取ったのか”とサキは障子を開け廊下を見遣った。
“とすればいつ?”
隣りの部屋の襖を開けると、サナがゴロンと倒れ込んで来た。
サキは「ヒャッ……」と悲鳴を上げそうになったが、「もう、人騒がせな……」
サナは、鼻ちょうちんを出して居眠りしているだけだった。
サキは例外なくサナの懐や袖を探った。
考えてみれば字もろくに読めぬサナが、蘭語訳の洋書を読み解けるはずもなかった。
「奥方様、くすぐってぇだ……」と間もなくサナが目を覚ました。
「サナ、この本の頁が破られておるのだ」
サキはサナへ本を開いて見せた。
「この様な星形の紋様をい何処かで見はしなかったか」
「星?……」サナは首を傾げた。
澤田家本邸から少し離れた薬種問屋店内では、吉兼が店先で古株女中のおたねへ聴き取りを行っていた。
「大番頭は……、」
と吉兼。
「今、出てはりますが、少ししたら戻ると言ってはりました」とおたね。
「伊助は?」
吉兼がまた尋ねると、おたねは少し驚いたように、
「……伊助さんでっか、伊助さんも一緒です、大番頭さんと一緒に出てはります」と答えた。
「最近何か、変わったことはないか、例えば、伊助と大番頭が2人でおる時に人払いをするとか、」
いつになく、店のことについてぐいぐい詰め寄ってくる吉兼に、おたねは少々訝しげな表情を浮かべながら苦言を呈した。
「旦那さん何でそんな事、聴かはるんですか、気になるんやったら、もっと店に出て来はったらよろしい……」
吉兼は恐縮しながら、
「少々事情があってな……面目ない」
吉兼の殊勝な態度に、おたねは少々機嫌をよくしたのか、饒舌に語り始めた。
「大番頭さんのお人払いなんか、しょっちゅうですわ……2人でこそこそ、いっつも奥に引っ込んではって出て来はらへん……、そう言う仲なんちゃうかって……店の者みんな噂してまっせ」
「2人一緒かそう言う仲……」
と吉兼は眉を顰めた。
店の奥では白頭巾の手代たちが、相変わらず不気味に作業していた。
御神木見張りのために数名配置したにもかかわらず、店内にいる手代の人数が変わっていないのも、不気味さに更に拍車をかけた。
吉兼は、作業場の隅で椅子へ腰掛けている1人へ話し掛けた。
「大番頭が奥へ来た時は、だいたい何処におる」
その手代は、虚空を眺めたまま、何も答えない。
「それは、助っ人でございます、今日来たばかりで、何も知りません……、昔ここで働いていたようなのですが何分年をとって病が進行し今では口をきくこともままなりません……」
作業台で作業をしていた手代の1人が、見兼ねて口を挟んだ。
「なぜ、そのような者を……」と吉兼。
「サキ様のご方針にございます、癩の老人であろうと動けるうちは何度でも職場へ復帰させます、我々としても使えないので……ご遠慮願いたいと申し上げたのですが、サキ様は“気長に接しなさい”と仰るばかりで……」
その手代は少し苛立っているように言った。
吉兼は、感心したように物言わぬ白頭巾の老人を見つめた。
「さようか……、さようであったか、これは失礼した、ゆっくりで良いゆえ、励んで下され」
吉兼が老人の手を取ると、老人はゆっくりと吉兼の顔を見返して、その手を握り返した。
手代たちの話によると、
大番頭と伊助はよく地下倉庫へ入って行き、しばらくは出て来ないらしい。
「大番頭たちに勘付かれたくないのだ、私が地下へ入ったことは他言せぬように」
と吉兼は、その場で言い残し地下へと入って行った。
モルタルで打たれた階段を下りて行くと、当然のように明かりは全く、視界は失われていった。
吉兼は燭台や火打石を探したが、
見つけられない。
暗闇の中から、カビ臭さに混ざり死臭が漂って来た。
吉兼は、幽体の時に彷徨った彼岸の暗闇を思い出し、多少狼狽えた。
そのとき、背中に触れる手があった。
吉兼がビクッと飛び上がると、白頭巾の手代が立っていた。
「驚かれましたか、見えませんよね、火を点けましょう」
と手代は笑っているのか肩を震わせながら、すぐ近場から燭台を出して来て、燐寸で火を点けた。
「どうぞ、これで壁の燭台へ火を点けると、より明るく……」
と手代は、吉兼へ燭台を手渡すとそそくさと戻って行った。
吉兼は少し後悔した。
マダに一度打ち勝ち、気が大きくなっていたとは言え少々勇み過ぎた。
天井からぶら下げられた肉塊は、牛や猪ではない紛れもない人間の物だ。
腑の中には、発酵させているものもあり、それらが何とも言いあらわせぬ異臭を放っていた。
吉兼の脳裏に店の者たちの顔が浮かんだ。
「このような穢らわしき商売の上に、あの老人や手代たちの生活が保たれている、あれらに此処以外居場所などない、
世の不条理を受け入れなければ……」
吉兼はそう自分に言い聞かせるように、
倉庫の中を進んだ。
倉庫内は一筋の廊下に面して幾つかの壁で仕切られた部屋になっていた。
肉塊が安置されている部屋も有れば、何もないような部屋もあった。
吉兼は恐怖に耐えながら、各所探し回ったが、手がかりになりそうな物は一向に見つからなかった。
廊下はやがて突き当たり、吉兼が振り返ると、暗闇の中に白い女の顔が浮かんでいた。
「あわわわ……」
と吉兼はガタガタ震えながら、腰もとの《獅子王》を抜こうとしたが、全く抜けなかった。
「錆ついたか《獅子王》」
と吉兼が狼狽えていると、
「《獅子王》は邪悪な者を斬る太刀、邪悪でない者の前では中々抜くことは出来ません」
闇に浮かぶ女の声が倉庫内に反響した。
しかしその声は、吉兼を返って落ち着かせた。
闇に浮かぶ顔は、見紛う事なくサキであった。
「お咲さん、驚かせんでくれ」
「旦那様が勝手に驚かれたのでしょう……」
とサキは笑った。
「それにしてもお咲さん、なぜ此処に……、こんなところで、逢いびきせずとも……、まあ、その夫婦と言えども雰囲気作りは肝心じゃ、気分が変わって良いかのう……おぬしがこのような場所の方が燃えると申すなら、私に異存はない……」
袴の帯紐を緩める吉兼を、軽く押しのけて、サキは、その背後の壁を探った。
「……、此処に隠し部屋があるのです」
何処をどう動かしたのか、
壁がガラガラと音を立てて開いた。
サキは先んじて隠し部屋へ入って行った。
吉兼は彼女の後ろに貼りつくようについて行った。
「やはり、そうか……」
サキが燭台で床を照らすと、
床には一面、《魔法陣》が描かれてあった。
「こ、これは……、」
吉兼が呆気に取られている間に、
サキは床の様子や、周囲の壁の様子を燭台で照らしながら探った。
「これは《魔法陣》と申す、西欧の召喚術です……この星形の中央に肉などを置き、呪文を唱え、魔物を召喚するのですが……」
サキは険しい顔をして、今一度床を照らした。
「お咲さん、如何した……」
と、吉兼。
「もう、魔物は召喚されて久しい、幾たびかこの《魔法陣》は使用された形跡が御座います」
サキはそう言って吉兼の顔を見た。
つづく