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メグリアイ

作者: 柴咲遥

「ダメだった・・・なんで?あれほど勉強したのに・・・模試だって完璧だったじゃない・・・それなのに・・・どうして?」

そう心が繰り返すが、現実はかわらない。

「うちは浪人なんかさせられんからな、それは 涼子もわかっているはずだろ?」

「でもお父さん・・・涼子・・・あんなに」

「いや、ダメだ・・・約束だから」

母の言葉を遮る父の少し荒げた声が、2階の部屋まで響いてくる。

「わかってるわよ・・・」

私はベッドの上で小さくそう呟いた。

私は、この春最初で最後の大学受験のチャンスに失敗した。

今までの模試で合格確立80%を下回ったことがなかった志望校に、高校の進学指導の先生にも太鼓判を押されていたのに。

父には浪人はしないって約束で、志望校1本に絞って3年間勉強してきた。

私の家は小さな工務店を営んでいる、長引く不況と大手住宅メーカーとの競争で我が家は決して楽ではないことは私も理解しているつもりだった。

「やっぱり、これ以上 家には甘えられない・・・よね」

<どうだった?結果>

孝太郎からメールが着ていた。

<ダメだった、落ちちゃったよ 志望校・・・笑えるでしょ?>

私は孝太郎にそう返信する。

孝太郎が私のことを好きなのは知っている、でも私たちは小学校からのただの友達。

「こんな人と結婚したら、きっと幸せになるんだろうな・・・」

中学3年の修学旅行の夜、友達5人とクラスのお男子で誰と結婚したいかって話で盛り上がった時、私は孝太郎の顔が真っ先に浮かんでいた。

その時のことを急に思い出して・・・メールじゃなくて、孝太郎の声が聞きたくなった。

(私は本当に身勝手な女だ、こんな時だけ孝太郎にこと・・・)

私は心の中でそう呟いた。

孝太郎とは小学校5年の時私が転校してきてからずっと一緒で、高校3年になった春、私たちは2年ぶりに同じクラスになった。

日焼けした丸い顔で、透き通ったまん丸な瞳に、坊主頭に近いスポーツ刈り、確か小学生の頃から始めたサッカーで、ゴールキーパーをやっていた。

11月 高校生 最後のゲームを観に行った。

「その時は確か・・・ベスト4で敗退したんだっけ・・・」 

初めて孝太郎の号泣する姿を見てドキッとしたのを覚えている。

「3年間で孝太郎に彼女が出来たって・・・聞いたことなかったな、噂で2年の時にバトン部の美樹ってショートカットのカワイイ子に告白されたって、でもなぜか?断ったって・・・ぁあ~なんで今そんなこと思い出すのよ」

私はベッドに仰向けになって、薄汚れた天井を見ながらそんなことを思い出していた。

クラスで特に仲の良いグループは私を含めて、女子3人と男子5人、私たちはいつも一緒だった。

<浪人・・・するの?涼子だったら、来年は絶対 大丈夫だよ!ごめん、同情されるの嫌いだったよね>

孝太郎から慰めメールが届く。

私は大学に行くよりも東京に行きたかった、この街を早く出たかった。

この街が嫌いな訳じゃない、もちろん家族が嫌な訳じゃない、でもこの街じゃない・・・この街を出て東京で一度暮らしてみたかった。

<ごめん、そんなつもりじゃなかったのに・・・>

孝太郎は私がいつも苦しい時、悩んで立ち止まってしまった時にそばに居てくれた、そしていつも励まして、優しく背中を押してくれた。

私は今誰かに、思い切り抱きしめて欲しかった、でもそれは孝太郎じゃない・・・そう思った。

<うん、ありがとね、孝太郎・・・私もう1年がんばってみることにする、お父さんには反対されると思うけど>

来月私たち8人は卒業する、そして皆、それぞれの道を歩き出す。

「みんな、東京だね・・・あっ丈ちゃんは仙台か、でもみんな行っちゃうんだね」

由佳は東京の女子大へ、奈菜は美大への進学が決まっていた。

「私だけか、この街へ残るのは・・・」

そう思うと涙がボロボロ零れてきた。

「涼子は、来年もう一度チャレンジ・・・するんでしょ?」

「うん、親にはまだ反対してるけど・・・バイトしながら頑張ってみる」

「そぉ・・・」

「涼子なら、心配ないよ、私たちの中で一番偏差値も高かったんだから」

(涼子なら・・・心配ないよ・・・か)

「東京、たまには遊びいくからそん時はよろしくね!」

私は皆に心配かけない様に出来るだけ明るく振舞う。

「明日からのバイトも決まっていないのに・・・」

当然、予備校に通うことさえも父に許してもらっていなかった。

4月20日、街の外れにある河川敷の桜並木は満開で、優しい春の日差しが降り注いで私を慰めてくれているかの様だった。

「これで、なん往復目?」

何度往復しても何も変わらない現実・・・今朝、父とまた喧嘩した。

「涼子、いつまでそうやってるつもりなんだ?仕事探すとか、なにかないのか?」

「・・・だから・・・」

「だから?」

「だから、私・・・来年もう一度受験するから・・・」

「予備校なんて、やれないからな」

「わかってるわよ・・・そんなこと、ご馳走さま・・・」

そう言って逃げるようにして家を飛び出す。

行く当てもなく、いつの間にか子供の頃よく父と歩いた河川敷の桜並木に向かっていた。

桜を見たい訳じゃない、今の私には居場所がないだけ。

「あっ、メール・・・孝太郎から」

<涼子・・・そっちはどうですか?こっちは人が多すぎて、毎日、目が回ります。桜、満開かな?東京はもう葉桜です。まだ1ヶ月も経ってないのに何もかもが懐かしいです>

<なに言ってんのよ!私なんて>

そう打って、途中でメールを削除する。

<なに言ってるのよ!これからじゃない東京の生活、勉強もがんばんないと、私も来年の受験に向けてがんばるから!>

「いつも孝太郎に愚痴聞いてもらってたから、たまには私の方から励ましてあげないとね」

そう独り言を言いながらメールを返す。

桜並木を後にして行く当てもなく駅前の本屋に向かう。

「ふぅ~」

大きく深呼吸をすると春の匂いが鼻をくすぐる、大きくクシャミをすると鼻水が垂れてきた。

「やばっ、ティッュもハンカチも持ってこなかった」

仕方なく手の甲で鼻水を拭う。

「あぁ~もう、私って何やってんだろ~」

鼻水を啜りながら駅前の本屋に入る。

「ぃいらっしゃ~ぃ」

少なくとも私が中学生の頃からカウンターに座っている、お婆さんが私の方をチラ見してすぐに視線を落とした。

私は薄暗いお店の奥にある参考書コーナーへゆっくりと歩き出した。

小説が並んでいる棚の隅に初老の男性が立ち読みをしている以外お客はいなかった。

参考書の並んだ棚の前に立つ。

見た覚えのある参考書、1冊手に取ってすぐに棚に戻すと、女性雑誌のコーナーへ移動する。

TVで観たことのあるモデルが表紙の雑誌を手に取ってページをめくる。

東京のお洒落なカフェの特集が目に飛び込んでくる。

「ぁあ~私も今頃は」

バイトも決まっていない私にはその雑誌を買う余裕もなく、足早にお店の出口に向かう。

「えっ?バイト・・・」

カウンタ‐脇の張り紙に目が留まる。

時給630円・・・9時から19時まで お昼付き?途中休憩有り?

「あのぉ~すみません」

「はい?」

カウンターに座っていたお婆さんが眼鏡越しに私の顔を覗き込むようにして見つめた。

「この張り紙・・・バイト・・・まだ募集してるんですか?」

そう言って恐る恐る訊いてみる。

「あぁ~これね、私、最近腰の具合よくなくてね・・・」

「はぁ~」

「本とか、重いもの持てなくてね」

「ぁあ~そうなんですか、それで、バイトを?」

「涼子ちゃん、やってくれるの?」

「えっ?なんで私の名前を?」

「むぅふふぅふ、涼子ちゃんが中学校の頃から知ってるわよ、確か『嵐』の桜井君のファンだったかしら?」

お婆さんが笑ったの初めて見た。(ちょっとキモイ笑い声・・・)

「げっ何で?そんな昔のことまで・・・」

今でも部屋にポスターが貼ってあることは言えなかった。

少し困った私の顔を見てお婆さんは微笑んだ。

「で?明日からでも来れるの?」

「え?明日からって・・・」

「じゃあ・・・来週からでいいわね?」

「ぁ・・・はい」

そう言って私はお店の外に飛び出した。

「なによ?あのお婆さん・・・なんで私のこと?」

「でも、バイト・・・時給はちょっと安いけど、お昼付きだし」

何より父と顔を合わせなく済むのが今の自分には何より有り難かったし、受験勉強をするのに参考書がタダ?で読めること、お客も滅多に来ないみたいだし・・・暇そうなのが魅力的だった。

週末、本屋でバイトをしながら来年の受験を目指すことに父とのバトルがあって、結局いつもの様に母が間に入って何とか父を宥めて月曜日の朝を迎えた。

「あっそう言えば、お母さん、あの駅前の本屋さんに知り合いとかいるの?」

「ん?知り合いなんていないけど?どうして?」

「ん~ン何だか 私のこと知ってるみたいなの・・・あのお婆さん」

「そぉ~小さな街だから・・・じゃない」

駅前の本屋までは歩いて15分、自転車を飛ばせば5分で着く、私は高校の時から愛用している真っ赤なフレームの自転車で本屋へ急ぐ。

「あぁ~いい天気、気持ちいい~」

先週とは打って変わって気持ちが充実している、本屋でのバイト、そんな小さな仕事でも目的があるって、人間って何か小さな目的でもないとダメになっちゃうんだ・・・そんなことを思いながら春風に髪を靡かせペダルを漕ぐ。

「おはよう・・・ございます」

「ぁあ~涼子ちゃん、来てくれたの?ありがとね」

「ぁはい、今日からよろしくお願いします」

「じゃあ、まず、そこに積んである本を棚に上げてくれるかしら」

「あっ、はい、これですね~」

いきなりの重労働、山積みになった本をジャンルごとの棚に入れて行く。

「終わったら、店番お願いねぇ」

そう言ってお婆さんは奥へと引っ込んだ。

「意外と人使い荒いのね・・・」

2時間ほどで山積みだった本の山を片付けて、カウンターに座る。

お客は一人もこない、並び終えた本棚をボ~ッと眺める。

「ふぅ~」

溜息混じりに息を吐く、時計を見ると11時46分を指していた。

「ぁっいらっしゃいませ・・・」

突然、スーツ姿のサラリーマン風の男性が店に入って来て、こちらをチラッっと見て奥の雑誌コーナーへと消えていく。

「もぅ~びっくりした・・・」

お昼過ぎ、小さな女の子を連れたお母さんが入ってきた。

「あの~絵本はどの辺ですか?」

「ぁっはい・・・絵本ですね、少しお待ちください」

(やばっ、どこだっけ?絵本・・・絵本)

「こちら・・・ですね」

何とか絵本コーナーに案内して事なきを得る。

結局午前中に来たお客はこの2人だけ。

「涼子ちゃん、お昼出来たわよ~温かいうちに食べて、店番変わるから」

「ぁはい、すみません」

「いつの間にか自然に涼子ちゃんって・・・まいっか」

「お邪魔します・・・」

店の奥の引き戸を開けると奥が茶の間になっていて、丸いテーブルの上に食事が用意されていた。

被せてあった白い布きんを取る。

「えっ、なにこれ?」

半熟の卵がトロトロにのってる親子丼と野沢菜がおいてあった。

「おいしそう、いただきます~」

「あぁなんてやさしい味、なんだろう・・・ぅう~美味しい」

夢中で食べてあっという間に平らげた、時計を見ると食べ始めて10分も経ってない。

「お婆さんすごい、こんな美味しい親子丼初めて」

「涼子ちゃん、その~お婆さんっていうの、やめてくれないかね?」

「ぇえっあっ、ごめんなさい・・・」

「サチ・・・」

「えっ?」

「サチでいいよ」

「ぁはい、じゃあサチ・・・さん、ご馳走さまでした。すごく、すごく美味しかったです」

そう言うとサチさんは嬉しそうに微笑んだ。

「親子丼、孫の大好物でね」

どんぶりを流し台に置いてカウンターへ戻る。

お腹いっぱいになって睡魔に何度となく襲われている最中、突然お店の戸が開く音がした。

「ぃいらっしゃいませ」

バイトも2週間目になって少しづつ慣れてきた、それより私はサチさんの毎日作ってくれるお昼ご飯に感動していた。

チキンカツ、じゃがいもとイカの甘辛バター炒め、マグロの竜田揚げ、根菜とひき肉のしぐれ煮・・・

私はいつしかサチさんのお昼ご飯を楽しみに、バイトに通っていた。

「あっ、またあの人だ・・・」

バイトを始めて10日ほど経った頃から気づいていた、いつも同じ時間11時45分くらいに30歳くらいのスーツ姿のその男性はやってくる。

いつもスポーツ雑誌のコーナーに向かってサッカーの専門雑誌を10分くらい立ち読みした後カウンターの私を見て軽く会釈をして出て行った。

今日もまたあの人が入って来た、10分ほど立ち読みしてカウンターの前を通りがかった時だった。

「ぁあの~これ・・・」

そう言って何かを差し出した。

「えっなに?あっ」

その男性はそのまま逃げるように、店を出て行った。

「なによ?」

渡された紙を見るとその男性のメールアドレスらしきものが書かれていた。

「なに?私に?ヤダ・・・キモイ」

その紙をゴミ箱に捨てようと思った時、メールの着信音が鳴る、由佳からだった。

<涼子 元気?この前みんなで久しぶりに会おうってことになって奈菜と賢一と昌4人で、横浜へ食事に行きました~今度 涼子もこっち出てきたら行こうね~待ってるから>

メールに楽しそうな写真が添付されていた。

そして私は、現実に引き戻される。

「私ってば、何やってんだろ?」

そう言ってアドレスの書かれた紙を破って捨ててゴミ箱に投げ入れた。

急に寂しくなって、誰かに逢いたくなって、不安に押し潰されそうになる。

あっという間にゴールデンウィークが過ぎて 梅雨、そして夏休み・・・その間私は家と本屋の往復で、家に戻っても参考書を開くことも少なくなっていった。

季節だけは高校時代の倍の速さで過ぎ去っていく様だった。

そんな暑い夏の日、お昼少し前、またあの人がやってきた。

「ぁっいぃらっしゃいませ・・・」

4月私にメールアドレスを渡した男性、その後はお店に来なくなって3ヶ月顔は日に焼けて真っ黒で、そしていつもの様にサッカー雑誌を立ち読みしていた。

10分ほどして男性は持っていたサッカー雑誌を手に持ってカウンターへやってきた。

「ぇっと790円になります、千円お預かりしますね」

「210円のおつりです、ありがとうございました」

おつりを受け取った男性はその場を動かず、すっと下を向いていた。

「ぁあの~来週の花火、一緒に行きませんか?」

「ぇえ?私?」

「ダメ、ですか?」

「えっ?いや・・・」

「じゃあ、お店に、土曜日の7時、迎えに来ます」

そう言うなりその男性は小走りでお店を出て行った。

「えっちょっ、ちょっと~」

私はハッキリ断ることが出来なかった、これ以上ひとりでいることに耐えられなかったのかも知れない。

「涼子ちゃん、お昼出来たわよ」

「は、はい」

カウンターに来たサチさんにさっきのことを相談する。

「あの人ね、本町の銀行で働いているのよ、真面目でいい人よ・・・」

「サチさんって何でも知ってるんですね・・・」

「デート、してきたら・・・」

「やだぁ~サチさんそんなんじゃあ~私これでも、受験生なんですから」

「少しは息抜きも必要だからね、冷めちゃうから早く食べてきて」

「はい、頂きます・・・」

いつもの様に丸いテーブルに白い布きんが被せてあった。

「美味しそう、今日は鶏の唐揚げ丼ね」

一口食べると梅の風味が口いっぱいに広がる。

「ぅう~んサッパリしていて美味しい~」

夏休みになって学生のお客さんが多くなっていた。

「涼子先輩~」

高校時代、と言っても5ヶ月前だけど、テニス部の後輩がカウンターで参考書を持って話しかけてきた。

「こんにちは~」

「先輩、バイト?ですか?」

「うんまぁね・・・」

「がんばってください・・・」

「あなたも、受験勉強 がんばって」

最初は嫌だったそんな会話にも慣れてきた。

そして8月第1週の土曜日、朝から気温が30度を超えて、今日も猛暑日テニス部だった頃の真っ黒に日焼けした肌は今は真っ白で、今年は海にも、プールさえ行っていない。

「受験生なんだから当たり前よ・・・そう言えば、今日、だった?よね」

携帯のスケジュール表を見てそう呟いた。

時計を見ると3時半を過ぎていた。

「突然、すぎんのよ、あのサラリーマン・・・受験生を何だと思ってんのよ浪人生か・・・」

「なにブツブツ言ってんの?」

「あっサチさん、すみません」

「まぁお客もいないし、いいけどね、ちょっと、こっち来てくれる」

そう言ってサチさんは奥に入って行った。

「はい・・・なんだろ?」

居間に入ると紺色の浴衣が掛けてあった。

「これちょっと袖通してみて」

「私が?」

「そぉよ、だって今日花火大会、行くんでしょ?」

「まだ行くって・・・」

「昔 あつらえたものだから、鹿の子絞りっていうの・・・ものはいいのよ」

紺色に遠くから見るとチェック柄の様な、その浴衣を羽織ってみる。

「うん、いいわね、涼子ちゃん大きいから、何センチ身長?」

「168くらい・・・かな」

「今夜、これ着て行っておいで、下駄も用意しているから」

「どうして?」

「昔、昔、娘にね・・・この浴衣、せっかくあつらえたのにね・・・事故で逝っちゃったのよ。だから、なんだか涼子ちゃん見てるとね」

「うん、今夜これ着て花火大会・・・行ってくるから、サチさん着付けお願いします」

「ありがとう、涼子ちゃん」

サチさんはそう言って少し涙ぐんでいた。

「どぉ?サチさん、似合ってる?」

「うん、とってもキレイ、キレイよ」

白地に水色の線が入った帯、黒地に赤い鼻緒の下駄を履いてカウンターの前に立つ。

「なんだか、恥ずかしいな・・・」

「楽しんどいで~」

「じゃあ行ってきます・・・」

そう言って外に出ると、店の脇に私を誘ったサラリーマンが立っていた。

「こ、こんばんは・・・」

その男性は口を大きく開けてボォ~っと私の方を見つめていた。

「あの~私、藤木、涼子っていいます」

「あっ、ごめん、僕、森田、森田颯太っていいます」

そう言って名刺を差し出した。

(太陽銀行・・・)

「今日は、ありがとう、来てくれて」

本屋で見るスーツ姿とは違って、白地のTシャツにジーンズ姿、いつもよりだいぶ若く見える。

ショート目の髪は前髪がすこしアシンメトリーになっていて、柑橘系の匂いが微かに漂っていた。

「じゃあ、行こうか」

そう言って二人は並んで歩き始めた、履きなれない下駄のせいで歩き方がなんとなくぎこちない。

「ゆっくりでいいから、浴衣で来てくれるなんて思わなかったから・・・」

「ぃいえ、これサチさんが・・・あっ、お店の方がどうしてもって」

「そぉ、でもすごく似合ってる」

そう言ってその・・・森田さんは笑った。

「ぁありがとう・・・」

その言葉に少しドキっとして横を見ると人懐っこい笑顔がそこにあった。

(背、高いんだ・・・)

身長は私より20cm 以上高くて、ラグビーでもやってたかのようなガッチリとした体格だった。

15分ほど歩くと花火大会の夜店の光の列が見えてくる。

辺りは花火の見物客で賑わっていた。

(私たちもカップルって思われてるのよね・・・)

手をつないだ浴衣姿のカップルを見た時、何となくそう思うと、顔が紅潮するのを感じた。

(初めてのデートなのに・・・デート?私、浪人生でしょ?こんなことしていていいの?)

もうひとりの自分が語りかけてくる。

「お腹、空いてない?」

「え?はい・・・少し」

「じゃあ、たこ焼きでも?僕買ってくるからちょっと待ってて」

そう言うと彼はあっという間に駆け出して人ごみに消えて行った。

「ふぅ~ぅ」

溜息に似た息を吐き出した瞬間、ドォ~ンという大きな音と共に一発目の花火が上がって、皆一斉に夜空を見上げる。

「キレイ・・・」

「お待たせ、はい、これも、お茶で良かった?」

「ぁはい、ありがとうございます」

「始まったね」

河川敷にある公園のベンチに座って、たこ焼きを頬張る。

「美味しい、このたこ焼き」

「そぉ、良かった、んぅホント美味しい」

そう言って森田さんが立て続けて2個たこ焼きを頬張って、笑った。

そんな会話は本当のカップルの様だった。

「あぁ~スターマイン」

花火が連続して打ちあがり…辺り一面が花火の光に照らされる。

「あのぉ~森田さん・・・」

颯太そうたでいいよ」

「じゃあ、颯太さんはどうして?」

「どうしてって?なんで誘ったかって?こと」

「だって私、浪人生ですよ・・・」

「迷惑・・・だった?」

「・・・」

大きな花火の閃光がふたりを照らし出す。

「実は、一目ぼれ・・・なんだ」

「えっ?」

「あの本屋で、初めて逢った時から」

「・・・」

「勉強の、勉強の邪魔はしないから・・・そのぉ」

「・・・」

「僕と、付き合ってほしい」

連続して打ち上げられる花火の音の中で、その言葉は私の心にしっかり届いていた。

「・・・」

そして、私は小さく頷いた。

「ありがとう・・・」

最後のスターマインが終わって、私たちは自然に手をつなぎ人波をゆっくりと歩き出す。

夏休み終わり、と言っても私みたいな浪人生には夏休みも関係ないが、8月下旬の模試は最悪の結果だった。

「合格確立、60%か・・・高校の時より20%も落ちている・・・し」

「どこか気晴らしにでも行こうか?」

「どこか?じゃあ・・・海、海に行きたい」

「よし、じゃあ今度の週末、海行こう、せっかくだから、遠出しよう、湘南とか」

「うん、いつも日本海だから・・・太平洋が見てみたい」

「よし、決まり・・・」

そう言って颯太は残っていた私の残っていたハンバーグを頬張った。

週末、颯太が前日から借りたレンタカーで迎えに来た。

家には東京の友達の家に泊まるかもって・・・嘘をついた。

「お気に入りのCD持ってきたんだぁ」

オーディオの中にCDが吸い込まれる。

BILLY JOELのHONESTY・・・ピアノの音が車内に流れる。

「へぇ~ビリージョエルかぁ~渋いねぇ」

そう言って颯太はハンドルを握ったままチラッっと私の方を見て微笑んだ。

「変でしょ?19歳なのに・・・父の、父の部屋にいっぱいCDあって、その影響かな?」

「そうなんだ・・・」

車は順調に高速を走る、関越道のパーキングエリアで休憩を取って、江ノ島まであと10kmくらいで・・・渋滞にハマる。

「お腹、どぉ?」

「うん、結構空いてる・・・かも」

「だよね・・・」

「でも、海、キレイ・・・渋滞のおかげでずっと海、見ていられるし」

そう言って私はカップホルダーにあるジンジャエールを飲み干した。

「颯太こそ、運転大丈夫?ごめんね、代わってあげられなくて・・・」

「平気、平気、受験生に運転なんてさせられないよ・・・」

そう言って颯太が笑った。

「もぉ~今日は受験のこと忘れるんだから~」

「そうだった、ごめん ゴメン・・・」

ふたりはそう言ってまた笑った。

時計は2時を回っていた国道134号線、左手に江ノ電が走って行く。

「ぁあ~電車・・・江ノ電?」

「そぉ、江ノ電、鎌倉から藤沢まで行ってるんだ、じゃあ~お昼にしよう」

そう言って車は道路脇の駐車場に入っていった。

「ここから少し歩くけど・・・」

「うん・・・大丈夫」

刺すような日差しが顔に照りつける、江ノ電の線路を横切って石と土で作った細い小道の階段を上がって行く。

「颯太、ホントにこんなところに?」

草木の生い茂る細い階段を少し不安になって颯太の後についていく。

「ぁ~着いたぁ~ここ、ここ」

突然、白い壁のレストランが現れた。

「アマルフィ・・・デラ・・・セイラ」

お店の前のベンチに数人が待っていた。

「申し訳ございません・・・ここにお名前をお書き頂きお待ち下さい」

そう言ってウェイトレスは奥に入って行った。

颯太は名前を書いて私の隣に座る。

「30分くらいだって、ここ・・・メチャクチャ景色良くてさ、イタリアみたいに・・・涼子と行ってみたかったんだぁ」

「えぇ?わざわざ 調べて来たの ここ?」

「そぉ、ちょっと予定の時間 遅れたけどね」

「ありがと・・・ね」

「なに?」

「私なんかのために」

「なに言ってんの、俺はいつでも涼子を応援してっからさ・・・」

私は涙が出るのを堪えて、颯太の顔を見て微笑んだ。

「森田さまぁ~おふたり様ですね、こちらへどうぞ」

日よけの真っ赤なパラソルと真っ青な空と海。

「ホント、イタリアみたい」

「行ったことあるの?」

「ある訳ないじゃん・・・」

「だよね・・・」

そう言って二人は笑いながら席に歩き出す。

強烈な日差しの出来るだけ当たらない海側の席を勧められて、丸い銀色のテーブルにふたり向き合って座る、目の前に江ノ島が見える。

「ご注文は?」

サラダとピッツア デラセーラを注文する、飲みものは颯太がノンアルコールビール、私はアイスティ。

海風と微かに聴こえる波の音、ふたりは海風の吹く方向を向いて肘を付いて黙ったままピザの来るのを待っていた。

何だか今まで味わったことのない心地いい時間が流れていく。

「お待たせしました~」

ウェイトレスが前菜のサラダと飲みものを運んできた。

「じゃあ~乾杯・・・」

「なにに?」

私は少し意地悪っぽく颯太に訊いた。

「ぅう~ん、涼子のこれからに・・・」

「これからに?うん、ありがとう颯太、乾杯」

サラダを一口食べると、ピザも運ばれてきた。

カッターで切り分けて手掴みで熱々のピザにかぶりつく。

「旨い~」

「ホント、美味しい~」

薄めの生地にフレッシュトマトとチーズがたっぷりのっていて、あっという間にふたりで平らげる。

「あっという間に食べちゃったね」

「よし、じゃあ江ノ島行ってみようか」

「うん」

国道はまだ渋滞していて目の前に見える江ノ島にはなかなか着かないでいた。

「あぁ~また渋滞か~帰り、遅くなっちゃうなぁ」

「・・・」

「どうした?トイレ?」

「私、泊まるって・・・友達の家に」

「ん?そ・・・そぉなんだ」

颯太はそう言って海岸に目をやった。

アマルフィから1時間近く掛かって、江ノ島に着いた、コインパーキングに車を止めて浜辺に下りる。

きっと夏休み繁盛していた海の家が重機を使って解体されている、その脇を通って浜辺を歩いて行く。

自然に手をつなぐふたりはしばらく歩くと浜辺に腰を下ろした。

少しずつ西に傾いていく太陽がふたりを照らしていく。

このまま時間が止まっちゃえばいいのに・・・私はそんな馬鹿げたことを考えていた。

「ひとりじゃ何も出来ないのにね・・・」

「えっ?」

「ぅうん何でもない・・・」

「飲み物でも買って来ようか?タバコも吸いたいし」

「うん、私ここで待ってるから」

お尻に付いた砂を掃いながら交差点脇のコンビニに向かって颯太は歩き出した。

「あっちの方が鎌倉かな?」

颯太を待ちながら私は裸足になって海に向かってゆっくり歩き出す。

「えっ?誰?」

確かに涼子って叫ぶ声が解体している海の家の方から聴こえてきた。

その声は段々と大きくなっていく。

「涼子?涼子だよな?ハァァハァ・・・」

「孝太郎?なの?ホント孝太郎、なんで?」

真っ黒に日焼けした顔、あの丸かった顔が引き締まって最初は孝太郎ってぜんぜん気づかなかった。

坊主頭が、少しウェーブのかかった黒い髪が耳を覆っていた。

(孝太郎って天パだったんだ)

「バイト、海の家の解体工事で、涼子こそどうして?」

「うん、友達とね・・・日帰りで、浪人生だって気分転換は必要でしょ?」

嘘をついた。

「そっかぁ連絡してくれたら、あっ、俺もう行かなくちゃ、じゃあまた、来月には帰るから」

それだけ言うと孝太郎は重機のある解体現場目指して走って行った。

私は急いで砂を掃って、サンダルを履いて颯太の向かったコンビニに走って行った。

颯太といるところを孝太郎に見られたくない・・・なぜそう思ったのか?その時の私には理解出来なかった。

「はぁ・・・はぁ・・・」

「あれっ?涼子、どうしたの?トイレ?」

「ぅうん」

「大丈夫?何かあった?」

「え?ちょ、ちょっと喉渇いちゃって」

また嘘をついて私は微笑んだ。

「ねっ、行こう、江ノ島・・・もういいから」

「えっ?うん、そぉ」

パーキングからレンタカーを出して鎌倉へ向かう。

「どうした?なんか変だぞ・・・」

「えっ?なんでもないよ、ちょっと疲れただけ・・・」

「そぉ?」

「今夜のホテル・・・予約しておいた」

「ぅうん」

レンタカーの後部座席に夕日が差し込んで車内がオレンジ色に包まれる。

鎌倉の街を散策して、鶴岡八幡宮に参拝して、颯太は合格祈願の御守りを買ってくれた。

「どうする?夕食とか・・・」

「あまりお腹空いてない・・・」

「じゃあ、コンビに寄って」

そう言ってハンドルを左に切ってコンビニの駐車場に入って行った。

オニギリとサンドイッチ、ビールとお茶、シュークリームも2個を買ってホテルの駐車場に入る。

「お泊りのお客様ですか?」

「はい、そうです」

係りの人にキーを渡してフロントに向かう。

私は1泊分の着替えやポーチの入ったトートバッグを持って、それを見た颯太がバッグを私の肩から外して自分の左肩に抱えた。

「ありがとう」

「颯太は?手ぶら?そっか・・・日帰りの予定だったもんね」

そんなところで颯太の誠実さが見えたような気がした。

「森田です、予約しています、電話で」

「はい、森田、そうた様ですね、お待ちしておりました」

銀縁のメガネをかけた50歳くらいの男性が宿泊者カードを颯太の前に差し出した。

私はチェックインしている颯太の背中をただ黙って見つめていた。

フロントからカードキーを貰ってエレベーターで5階へ上がる。

「501号室・・・オーシャンビューだって・・・」

エレベーターの中で颯太が呟いた。

私は無言で颯太の背中を見つめていた。

「後悔、なんてしていない」

私は自分にそう言い聞かせていた。

カードキーをかざして部屋に入る、ソファーと大きなベッドが2つ並んでいてセンスのいいイタリア製の家具がソファーの脇にあった。

窓のレースのカーテンを開けると目の前に相模湾が広がっていた、颯太が窓を少し開けると心地よい潮風が部屋に入ってくる。

「煙草、いい?」

「うん・・・」

そう言ってさっきコンビニで買った煙草に火をつけた。

「お腹、空いてる?何か食べる?シュークリームとか」

「うん平気・・・」

私はソファーに座って、スマートフォンを見ていた、颯太は煙草を灰皿に押し付けて私の横に座った。

「シャワー、入ってくるね」

そう言うと颯太はさっき買ったコンビニの袋から、下着を取り出してバスルームへ入って行った。

「下着、コンビニで」

私は部屋のライトを消して窓辺に立つ、真っ暗な海の上には大きな月が輝いて月光がまるでスポットライトの様に、私たちの部屋を照らしていた。

何だか自分がここにこうしていることが、未だに信じられなかった。

「涼子、お風呂?お湯入れようか?」

「ぅうんありがとう・・・」

バスローブに身を包んだ颯太がバスルームから出てくると同時に私が中に入る。

大理石調の壁と大きな鏡、バスタブにはお湯が半分くらい溜まっていた。

私は大きな鏡に映った自分の少し強張った顔を見て驚いた。

「これから受験会場に行くみたい」

バスタブに流れ落ちるお湯の音だけが響き渡る。

「バスソルト?」

バスタブにお湯が溜まって鏡の前に置いてあったオレンジラベンダーの香りのバスソルトを入れてお湯に浸かる。

「私・・・」

迷いと不安を吹っ切るかのように、髪を洗い身体の隅々までボディソープで洗い流す。

「バスローブ、こんなの、生まれて初めて・・・バスローブだけじゃない・・・か」

バスルームから出た私を颯太は優しい眼差しで抱きしめてくれた、真っ暗な部屋に優しい月光が二人を映し出していた。


「おはよ・・・よく眠れた?」

目を開けると颯太が私の顔を覗き込んでいた、私は颯太の手を握ったまま眠っていた様だった。

「ぅう~ん」

恥ずかしさを隠すために大きく背伸びをするふりをして手を離す。

「うん、よく眠れたよ・・・」

こうして私の短い夏休みは終わった。

「ただいまぁ~」

「お帰りぃ涼子~どぉ楽しかった?」

「ぅうん、久しぶりにみんなに逢えて・・・あっこれお土産」

私は母の目を見ることが出来ずに、鎌倉で買った鳩サブレを差し出した。

父は私に背を向けて黙ったまま、TVのニュースを観ていた。

「明日はアルバイト?」

「うん、じゃあ、おやすみ」

自分の部屋に入って、ベッドに横たわるいつも見ている天井、そこにあるシミもいつもと変わらないのに・・・でも、この2日間で私の人生は大きく変わったように思えた。

「勉強、勉強しなくちゃ・・・」

少し重い身体を起こして机に向かう、数学の問題集のページをめくる私の目には、幾何学模様にしか映らない。

「もう私は受験生じゃない?ってこと?なにやってんの?私・・・」

涙が溢れ出す、後悔している訳じゃない・・・けど、けど何かが、私の中で何かが消えようとしていた。

厳しい残暑も10月に入ってやっと秋らしい涼しさになって、私はいつもの様に書店のカウンターで店番をしていた。

「いらっしゃい、ま・・・え?孝太郎?」

「昨日帰って来たんだ・・・高速バスで、元気?」

江ノ島で逢った時より髪は伸びて、なんだか大人っぽくなった孝太郎に少したじろぐ。

「・・・まさかここでバイトしてるなんて」

「孝太郎は?元気そう・・・だね」

「うん、これ・・・」

「なに?」

「家、帰って開けてみて」

「ん?」

「じゃあ、俺…戻んなくちゃ単位やばいから・・・」

「え?もう帰っちゃうの?」

「ごめん、これ渡しにに来ただけだから」

そう言ってお店を出て行った。

「なによ、久しぶりに会ったのに・・・」

私は孝太郎から渡された封筒の端を手で破って逆さにして振り下ろした。

「え?なに?」

封筒からは5枚のチケットが入っていた、東京までの新幹線のチケットが2枚、それとBILLY JOELの11月東京ドーム公演のチケット、そしてホテルの宿泊チケットだった。

「どうして?」

私は店を飛び出して孝太郎を探す。

「孝太郎、こうたろ~」

自転車に乗った後姿を見つけて大声で叫ぶ、 近くを歩いていたお爺さんが驚いた顔で立ち止まる。

孝太郎の自転車がUターンして戻ってくるのが見えた。

「なに?」

「なに?ってこっちが訊きたいわよ、なによ?これ?」

そう言って私はチケットを孝太郎の目の前に差し出した。

「開けちゃったの?」

「どうしたの?これ」

「涼子にさ、どうしても、見せたくてBILLY JOEL 2枚あるから・・・誰かとさ」

「孝太郎、そのため・・・に?」

「・・・」

「私、孝太郎がいい・・・孝太郎と行きたい」

「えっ?」

「コンサート、孝太郎と・・・ダメ?」

「いいの?俺で?」

BILLY JOELだって私が好きなのを知って・・・孝太郎はCD買って私は大きく頷いた。

「ありがとうね、孝太郎」

入っていたBILLY JOELのチケットを孝太郎に手渡す、そのチケットを大事そうに財布に仕舞う。

「じゃあ・・・来月、待ってるから・・・」

そう言って微笑んで、自転車に跨った。

「うん」私は小さく頷いた。

11月、朝晩は冷え込み家ではストーブを焚く日も多くなった。

孝太郎から貰った新幹線のチケットで指定席を取って東京へ向かう。

お気に入りの真っ赤なスカートに黒のセーター、颯太には高校の友人のところへ行くと・・・嘘じゃないけど。

コンサートは19時から、孝太郎からメールで少し早い夕食を取って東京ドームへ行こうってメールが着ていた。

東京駅の丸の内中央改札口に16時に待ち合わせ、私は時間通りに改札を抜けた。

「涼子」

私の左手後ろから声がする、チノパンに紺色のジャケットを着た孝太郎が駆け寄ってきた。

「孝太郎・・・」

「平気?だった・・・新幹線」

「うん、大丈夫」

何だか孝太郎がすごく大人っぽく見えて頼もしかった。

「少し何か・・・食べてから行こうか?」

「うん」

私は孝太郎の後を少し離れて付いていく、微妙な距離感・・・並ぶわけでもなくでも離れて歩くわけじゃない。

エレベーターに乗って孝太郎は迷わず35階のボタンを押した、ドアが開くとイタリアンレストランの前で立ち止まった。

「パスタでいい?」

「うんいいよ」

お店に入ると、窓側の席に通される、夕暮れ時の高層ビル群が眼下にそびえている。

真っ白なテーブルクロスの上にピカピカに磨かれたグラス、そして座り心地の良さそうな椅子。

「何だか・・・高そう」

そう呟くと「大丈夫だよ」って孝太郎が笑って応えた。

パスタを注文する、今まで見たこともない不思議なパスタ、でもメチャクチャ美味しい。

「これも、ちょっと食べてみる?」

そう言って孝太郎が自分のお皿を差し出した。

キレイな緑色のパスタ。

「なに?このソース、美味しい」

濃厚なバジルソースが鼻に抜ける。

「孝太郎って東京でいつもこんなの、食べてんの?」

「え?まさか、俺も初めて丸の内、ここだって実は初めて来たんだ」

そう言って真ん丸の瞳が三日月になった笑顔は高校生の頃と何も変わっていなかった。

私はその顔をマジマジと見て、颯太といる時には感じたことのない何とも言えない安堵感を覚えた。

「そろそろ、行こっか」

孝太郎は伝票らしきものを持ってレジに向かった。

「いいの?」

「何が?」

「私も・・・」

「大丈夫、心配しないで、お金ならあるから」

孝太郎は小声でそう言うと財布から1万円を取り出してレジに置いた。

「ごちそうさま」

「じゃあ、丸の内線、こっちだね」

丸の内の地下街を抜けて地下鉄のホームへと降りるとすぐに銀色に赤いラインの入った車両がホームに滑り込んで来た。

ふたりはその車両に乗り込んで、並んで窓の外を眺めていた。

地下鉄が走り出すと真っ暗な窓にふたりの顔が映し出される、孝太郎はまっすぐ前を見ていた。

私はガラス越しに孝太郎のことを見つめていた。

20分ほどで後楽園に到着すると、今夜のコンサートを見る人の波が一斉に車両から降りて行く。

5万人、私たちの住んでいる街の人口に匹敵する人たちがにBILLY JOELに逢いに着ているのだから。

私は孝太郎と逸れない様にジャケットの裾をつかんで東京ドームへ歩き出す。

人波を掻き分けて、やっとのことで席にたどり着く。

「え?ここ、アリーナ席」

「ホント?ここ?でいいの?」

「そぉ、ここでいんだよな」

孝太郎はそう言ってチケットを凝視した。

「高かったんじゃない?」

「なにが?」

「チケット・・・」

「そんなこと?大丈夫、涼子は何も心配しなくていいから」

「うんでも・・・」

19時を少し回ったところで場内が暗くなりBILLY JOELが黒いジャケット姿でステージに現れる。

The Stranger、Angry、Young Man、MyLifeのヒット曲を3曲連続で歌った後、「ドーモ、アリガトウ。トーキョウ、コンバンワ、コンニチワ」と言ったBillyの第一声に私は痺れた。

Just The Way You Areを聴いていると、自然に涙があふれ出して・・・それも止め処なく。

「え?孝太郎?」

そんな私を見ていた孝太郎が突然私の手を握り締めた。

孝太郎の手はとても大きくて、温かくて、私はその手を握り締めたままBILLYの歌声と美しいサックスの音色に酔いしれていた。

そしていよいよ最後の曲、BILLYがピアノの前に座る、ピアノとハーモニカのイントロが流れてくる。

鳴り止まない拍手と喝采の中コンサートの幕は下りる、私たちは手を握り締めたまま会場を後にする。

あまりの人混みで少し気分が悪くなる。

「涼子?大丈夫?ホテルすぐそこだから」

孝太郎が心配そうに顔を覗き込んでから、人混みを掻き分けて行く。

予約してくれたのは東京ドームの隣にある真っ白な高層ホテルのチェックインカウンターに立つ。

私は孝太郎の後ろ姿をぼんやり見ていて、鎌倉でのことを思い出した。

「涼子、これカギ、30階の、7号室・・・」

そう言って孝太郎は私にキーを渡した。

「朝食も、付いてるから」

「俺、明日バイトだから、一人で、大丈夫だよな?」

幸太郎は、心配そうな顔で私の顔を覗き込んだ。

「ぅうん、ありがと」

「じゃあ・・・な」

そう言って孝太郎はエレベーターの方へ歩き出した。

私の目から大粒の涙が溢れ出していた。

「こ、こうたろう・・・」

エレベーターホールに立つ孝太郎に駆け寄って、私はその大きな背中に抱きついた。

「涼子?」

孝太郎の紺のジャケットが私の涙で濡れていた。


翌朝目覚めると・・・メモが置いてあった。

<涼子、ゴメン、バイトどうしても穴あけられなくてグッスリ眠ってたから起こさずに先に出ます。涼子の寝顔、写メ撮ったどぉ~>

「・・・バカ」

12月、模試の結果は最悪で合格率は30%以下まで落ちていた、その上、私は、俗に言う、二股を。

そんな時、颯太からメールが届く。

<今夜 ご飯でもどぉ?話もあるし>

「話?」

<うん、いいよ>

<じゃあ7時にお店の前で>

外は今年一番の冷え込みで霙交じりの雨が降っていた。

「あと、2ヶ月か・・・」

私は溜息をついて、鉛色の空を見上げた。

「涼子ちゃん、お昼、どうぞ」

「はぁ~い」

「わぁ~今日も美味しそう」

白い布きんを取ると良い色に揚がった『鯖の竜田揚げ、レンコンのきんぴら、ブロッコリーのピーナッツ和えとすまし汁』が添えてあった。

「いただきま~す」

「う~ん、今日も美味しい何だか最近食欲すごいし・・・」

そう言ってご飯をお代りする。

「サチさん、ご馳走さまでした」

「はい、お粗末様でした~」

相変わらずお客の数は疎らで、でも受験が近いせいで高校生が参考書や赤本を注文していく。

それを見るたび、赤本の注文書を書くたびに私は焦り、不安が広がっていった。

日が暮れて、霙交じりの雨は初雪になっていた、あたり一面真っ白になって、自転車と車のタイヤの跡がまるで今の私の気持ちの様に交差していた。

携帯を開く・・・19時10分、最後のお客さんが出たのを確認してお店のシャッターを下ろす。

お店の前には颯太の姿は見えなかった。

「どうしたんだろう?いつも遅れることないのに」

鉛色の空からは湿った雪が容赦なく落ちてくる。

颯太の携帯にかけてみる。「この電話は、電波の・・・」

「え?なんで出ないのよ 運転中?」

<遅いぞぉ~あとどのくらい?>

メールを送る。

身体がどんどん冷えてくる。

「もう、限界・・・」

私は慎重に自転車を走らせて、家に向かった。

「あぁ~こんな雪の中、冷えちゃったでしょ~お風呂先に入っておいで」

「うん」

私は玄関でコートの雪を払い落として、そのままお風呂場へ向かった。

「ぁあ~温まったぁ」

お風呂から出てドライヤーで髪を乾かしていると携帯が鳴った。

「颯太?」

「もしもし、藤木さんの携帯で間違いないですか?」

「は、はい・・・あのぉ」

「私、長岡東警察署の斉藤と申します」

「警察?」

「失礼ですが、森田さんの?」

「颯太が、颯太がどうかしたんですか?」

「先ほど、関越道で、大きな事故に巻き込まれまして」

「事故?颯太は?颯太は大丈夫なんですよね?」

その声は泣いているみたいに震えていた。

「夕方からの雪で、前に走っていた車がスリップして、残念ですが先ほど死亡が確認されました・・・」

「死亡?そんな訳ないじゃない・・・今夜一緒に、食事しようって」

「今、会社の方と、神奈川県のご両親がこちらに・・・着信とメールがあったものですから藤木さんにもと」

「うそ?でしょ・・・」

「涼子?大丈夫?どうしたの?誰から電話・・・」

母の声も耳に入らず、自分の部屋に戻りベッドに沈む。

「嘘よ、間違いよ、きっと、そんなこと・・・」

翌朝、身体が重い・・・昨日の鉛色の空が嘘だったかの様な青空が広がっていた。

「昨日のことも、この空みたいに、嘘だったら」

颯太の携帯に電話をしてみる1回・・・2回、3回・・・5回目のコールでつながった。

「颯太?」

「森田・・・です」

颯太の声?

「もしもし、颯太?なんだ、悪い冗談・・・」

「し、失礼ですが・・・」

「颯太じゃ?」

「颯太の、父、です・・・颯太のお友達ですか?」

冷静で静かな穏やかな・・・それでいて悲しい声でそう尋ねてきた。

「あ、はい、藤木っていいます、じゃあ颯太さんは」

「検死が終わりましたら、家へ連れて帰ります」


颯太の死から3ヶ月、私は携帯の電源も切って、ほとんど引きこもりの状態で・・・ただ生きていた。

このまま何も食べず、死んでしまった方が・・・そんなことを考えていてもなぜか食欲だけはあって。

たまにサチさんが持って来てくれる差し入れもあっという間に平らげていた。

そんな時、私の身体に変調に気づく、よく眠っているはずなのに身体がだるく、胃もムカムカすることが多くなった。

私は母に相談して、私が生まれた産婦人科へ行くことにした。

「10週目くらい、かな・・・」

(10週って、妊娠?颯太の?)

「おめでとう」

サチさんくらいのお婆さん先生は優しい瞳で私を直視してそう告げた。

母は私の手を握り締めたまま、何も言わなかった。

「私が?妊娠って・・・浪人生・・・なのに母親に?」

「涼子は?相手はいったい誰なんだ?」

父の尖った声が聴こえてきた。

「私、母親になるんだ・・・」

不思議と心は安定して、漠然と母になるということに対して、受け入れている自分がいることに気づく。

16週に入ってお腹の子も順調に育っていった、私も全体的にふっくらとしてきて超音波で元気な赤ちゃんの姿が映し出されるたびに母親としての自覚が芽生えてくる様だった。

小さな街で私の妊娠の事実は一瞬で伝わっていった、いろんな噂も。

「こんばんは」

「誰かしら・・・」

「は~い、あら?孝太郎くん?どうしたの?こんな時間に」

「涼子さん・・・いますか?」

「ぇええ、涼子~孝太郎くんきてるわよ~」

「どうしたの?孝太郎」

「妊娠・・・のこと、ばあちゃんに、聞いて」

「ばあちゃん?」

「涼子のバイトしてる本屋、俺のばあちゃんち・・・言ってなかった?」

「うそ?サチさんって・・・孝太郎のおばあちゃん?」

「そぉ・・・俺の母親代わり」

「うそ?じゃああの浴衣って孝太郎のお母さんのだったの」

「でも、孝太郎、ちょっと待って・・・」

「いや、俺が、俺が、責任持って・・・俺、父親に」

「まっ待って、待ってよ 孝太郎・・・」

「あっお父さん・・・」

真っ赤な顔をした父が、玄関で話しているふたりの前に出てくるなり孝太郎の胸倉を掴んできた。

「ぉお前か、涼子を」

そう言うなり孝太郎の大きな体が吹っ飛んだ。

「お父さん、なにすんの?」

お母さんがお父さんを後ろから抱えて止めに入る。

「すみません、僕が、僕が涼子さんをすみません・・・すみません」

そう言って孝太郎は土下座した。

「孝太郎・・・ゴメンね」


まもなくして、私と孝太郎は籍を入れた。

孝太郎はそのまま大学に在籍し卒業することを条件に、月に1回、私の、私たちの身体を心配して逢いに来てくれる。

私は、孝太郎の子か?颯太の子か?確信がないまま、孝太郎に言えずにいた。

「最低の・・・女」

私は孝太郎が来て帰るたび、そう自分を責め立てていた。

孝太郎も大学2年になって、私のお腹も外から見ても妊婦ってわかるほど大きくなっていった。

あれだけ怒っていた父も、名づけの本を真剣に読んでいると母が言って笑っていた。

そしていよいよ新しい命が、この私の身体から生まれようとしていた。


そして分娩室に入って3時間後、私は母になった。

「2880kgかわいい女の子ですよ~」

助産婦さんが抱っこしてきた赤ちゃんを、私の枕元に寝かせた。

「はじめまして・・・私がお母さん・・・よ」

私は赤ちゃんの真っ赤な顔を見て、自然と涙が零れてきた。

父は3日間考えた末『莉子』と名づけてくれた。

保育器には透き通った真ん丸な瞳で私を見つめる莉子が笑っていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読ませていただきました(^ω^) とても面白かったです * これからも頑張ってください\(^o^)/
2012/10/13 19:31 退会済み
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