佐藤太郎
ドンドンと扉を叩く音がする。
それはノックと言うには大きな音で、文字通り扉を叩く音だ。
それが木造築三十年を越えるアパートの一階の一室の前から響く。
扉の前には扉を叩き続ける身長180センチもある巨漢の男と、それとは対照的に150センチそこそこしかない小太りの人相の悪い男達が立っている。
「佐藤さーん、居ませんか〜」
巨漢の男が猫なで声を発しながら、扉の中へと問い掛ける。
しかし返ってくるのは静寂だけで、それに応える声はない。
「佐藤さん、お留守ですか〜?」
今一度、男が問い掛ける。
だがやはり応える声はない。
巨漢の男はその反応に誰も居ないと諦めたのか扉を叩いていた腕を下ろす。
そしてその場でひとつ深呼吸をすると、突然扉を強く蹴る。
「中に居るのはわかってんだよっ! 出てこいっ!」
先ほどまでの口調とは打って変わったドスの効いた声で扉に向かって怒鳴る。
あまりの大声に大気が震えたかのような錯覚を起こすほどだ。
「てめー、黙ってやり過ごしゃ逃げられるとでも思ってんのかっ!」
怒声と共に更に扉を強く蹴る。
その音を不快に思ったのか、隣の部屋の扉が開き、中から少しだけ老婆が顔を覗かせる。
「何見てんだよババアっ!」
「ひぃっ」
巨漢の男が威圧するように老婆を睨みつけると老婆はそれに驚いたのか、すぐに扉を閉めて中へと隠れてしまう。
「こらこら、お年寄りを虐めてどうする」
「でもよ〜」
「私達が虐めるべき相手はこの扉の中でしょ? 関係ない人に迷惑をかけたらダメダメ」
小柄な男が巨漢の男の行動を窘める。
今、自分達がやっていることは人の迷惑になっていることなど微塵も感じていないような口ぶりだ。
しかし、それをツッコむ様な野暮な者、いや、この場においては勇気ある者はいない。
「それにしても、こうまでして反応がないとなると本当に留守なんだろうね。んじゃ今日は撤収しますか」
「で、でも兄貴……」
小柄な男の言葉に反論しようとした巨漢の男はそこで言葉を止める。なぜなら、兄貴と呼んだ小柄な男が不適な笑みを浮かべながら人差し指を鼻の前に掲げて静にしろと合図をしているからだ。
「わ、わかった……」
巨漢の男はそれに頷くと、踵を返して歩きはじめた小柄な男の後を付いていく。
数分してから先ほどまで男達が立っていた扉のドアノブが静に回る。
そして、慎重にと言うか慎重過ぎるほどにゆっくりと扉が開く。
そこから顔を覗かせたのはまだ、二十歳前後でしかない青年だ。
身長172センチ、痩せ型で顔立ちは大して特徴のない無味無臭であるが、生まれてこの方一度も染めたことのないというのに髪は淡い茶色と言うのが特徴と言えば特徴である。その髪は邪魔にならないように短く刈っている。
青年は辺りを確認すると音を立てないように扉の外に出る。
「ふぅ……やっと行ったか……本当に毎度毎度しつこい」
苦々しげに呟くも聞いている者は誰も居ない。
「やべ……早くしないとバイトに遅れる」
左手の腕時計を確認して焦ったように言葉を呟く。彼の頭に人の良さそうな顔をしながらねちねちと嫌味やら愚痴を吐きまくるバイト先の店長が不機嫌な顔をしながら時計とにらめっこをしている姿が浮かぶ。
青年は急ぎながらかつ音を立てないように注意しながら扉を閉めて施錠する。
「どこに遅れるんでちゅかー?」
その時、青年の背後で甘えたような赤ちゃん言葉でありながら、有無を言わせないような迫力のある男の声が聞こえる。
青年がゆっくりと振り向けばそこには先ほど帰ったはずの巨漢と小柄な男の二人組がそこにいた。
「さ、相良さん……どうもです」
「どうもぉー、佐藤くんさぁーさっき私らがドアをノックしても出てくんなかったじゃん。どうしちゃったの? もしかして寝てた?」
「あ、そ、そうなんです。大分深く寝てたみたいで来てたことに気づかなくて……すいません」
相良と呼んだ小柄な男の優しい言葉でありながら威圧感に溢れた声音に青年、佐藤太郎はただその言葉を肯定し、謝罪することしかできない。
「ふーん、そっかー……まあ、連日バイト三昧みたいだもんね」
「は、はい……」
「ところでさぁ〜……金は用意できたんか?」
それまでの口調とは変わった人を脅すためのみの言葉に佐藤の体にゾクッと悪寒の様なものが走る。
「い、いえ……まだです……」
「困るんだよね、返済期限は当の昔に過ぎたこと知ってるでしょ?」
「あと一月、あと一月だけ待ってください。もうすぐバイト代が入るんです。そうしたら……」
「んなはした金、利息分にもなりゃしねーよっ!」
土下座しようとした佐藤の顔が巨漢の男の怒声と共に蹴り上げられる。
硬い地面に佐藤の体が横たわる。
「こら、大熊くん。手を挙げるのは御法度ですよ。全く困ったものだよ……佐藤くん、眠いのはわかるけど部屋の外で、ましてや人との会話中ってのは失礼に当たるから気をつけてよね」
言外に君が勝手に横たわっただけで、こちらは手を出してないと相良は告げる。
佐藤はそれに痛むあごを手で押さえながら頷いた。
「まあ、大熊くんの言ったことももっともだ。バイト代ってせいぜい数万くらいでしょ? まったく足りないよ。なにせ君の負債は二億なんだから」
相良の言葉に佐藤の顔が歪む。
その表情はただ単に悔しさだけが浮かんでいた。
「なんで俺が、って顔してるね。恨むなら私達じゃなくて、君の両親を恨みなよ。二億もの借金を息子の君に押し付けて姿をくらませた両親に」
その言葉に佐藤の顔が悔しさだけでなく、まさに憎悪とも言えるものがプラスされる。
佐藤の両親は小さな工場を経営していた。
車の部品を主に扱っている工場で、裕福とは言えなくもそれなりの生活を送っていたのだが、佐藤の親は父の親友であった男の投資の話に乗り、まんまと騙されてしまった。
そこで負った借金が四億。
そして、工場や家財道具一式などを売り払い金を作り、半分の二億は返済したのだがそこから先はどうすることもできなかった。
借金取りに追われる日々に疲れきった両親はそのまま何処かへ消えた。
あとに残ったのは借金だけで、借金取りは逃げた両親を探すという無駄な労力を注ぎ込むより居場所のはっきりしていた息子である太郎にそのまま返済を迫った。
これが佐藤に男達が付きまとう理由。
今、両親に対して佐藤が持っている感情は憎悪しかない。
最初は何か理由があって消えたとも思っていた時期もあったのだが、借金取りに追われるうちにそれも全て自分に押し付けて逃げただけと思うようになった。
両親の借金によって佐藤は失った者が多い。
大学を退学せざるをえなかっただけでなく、借金取りを恐れ、当時付き合っていた彼女が去った。同様の理由で友達も寄りつかなくなってしまった。
だからすべての元凶である両親を憎んだ。そうでなければ、日々を過ごすことなどできなかったから。
「いい表情だ。そこら辺の不良ならそれだけで道をあけるよ。でも、こっちも商売だからね。どうにかして返してもらわないと。ほら、テレビとか漫画で私らみたいな商売の人がよく言うでしょ、借りたものは返さないとって」
「だ、だからもう少しだけ……」
「そしてそう言ってくる人間にこう言うんだ……子供のお使いじゃねーんだよっ!」
起き上がり、顔を上げていた佐藤の顔に今度は相良の蹴りが当たる。
「おっとごめん。つい、テンションが上がっちゃった。でも、佐藤くんはただ勝手に吹っ飛んだだけだよね?」
「……は、はい」
「うん、そうだよ。さて、君が取るべき道を提示しようか」
相良はそう言うと、倒れ込む佐藤の横にしゃがみ込む。
「ひとつは今すぐ耳を揃えて二億の借金を返済すること。出来るかな?」
「す、すみません。もう少し待ってください」
「ううん。待たない。だってもう充分待ったもん。だったら残りの選択肢はひとつだけだね」
「え?」
その時佐藤の脳裏に浮かんだのは、コンクリートに詰められて海に沈められた自分の姿。
体が震え、言葉すら紡ぐことが出来ない。
「死ぬ」
佐藤に対して相良の言葉が無慈悲に告げられた。
「……って言うのは、うちとしてはなんの意味もないのさ。だって貸した分が無駄になるだけで殺人なんてゆうリスクまで背負うことになる。でも、似たようなものかな……マグロ漁船って知ってる?」
相良の言葉に佐藤が頷く。
借金に追われた者に対して物語でよく語られる言葉である。
「って言っても天然のマグロを素人に釣ってこいなんてありえないよね。そんなとこには行かせないから安心してよ。だったら何が言いたいのかと思うよね? 要は体を売れってことだよ。ちなみにゲイ相手に売春しろってことでも、臓器を売れってことでもないよ? ただ、健康な肉体を欲している知り合いがいてね」
「……つまり、俺をどうするって言うんですか?」
「人体実験に参加しろってことだよ」
佐藤に拒否権は存在すらしていなかった。
目隠しをされたまま車に乗せられ、道を走ること1時間ほど走ったところで車が停止する。
「降りろ」
先に車から降りた大熊という巨漢の男の声に従って佐藤が車から降りる。
「こっちだ」
逃亡防止のため後ろ手に手を縛られ、なおかつ首輪のようなものが取り付けられ、それに通された縄を大熊が握っているためどうすることもできない。
佐藤は声に導かれながら歩くしかない。
せめて、犬のように縄を引かれて動くのだけは避けたかった。
「佐藤、止まれ」
「よく来たね」
大熊の言葉に従い歩みを止めたところで聞いたこともない男の声が佐藤の耳に届く。
「これはこれは先生。自らお出迎えに来てくれたんですか?」
「丁度休憩中だったからね。それで今度はこの方が?」
「はい、そうです。それで……」
「ああ、金はいつものところに振り込んでおくよ。それじゃあそれを貰えるかな」
「大熊くん」
首輪に繋がる縄が大熊の手から見知らぬ男に渡される感触がして佐藤がわずかにだが身をよじる。
「それでは君達はここまででいいよ。また、よろしく」
「はい、それでは」
相良達が去っていく気配を感じ佐藤は小さく息を吐く。
「それじゃ、行こうか」
「あの……あなたは……」
「詳しいことは後ほどね」
そしてそのまま佐藤は男に誘導されるままに歩いた。
途中、エレベーターに乗り、下の階層へと降りた。乗っていた時間から計算するとかなり下であることは間違いない。
そしてエレベーターから降りたあと佐藤は部屋の一室へと通される。
そこで目隠しを取られた佐藤が見たものは六畳ほどの無機質な部屋とそこの中央にある不釣り合いなほど大きなカプセル型の装置のようなもの。そして眼鏡をかけ、白衣を着た身長170センチほどの男だった。
佐藤は相良達が彼を先生と呼んでいたことから医療関係者と当たりを付け、相良の言った人体実験とは投薬のことだろうとも考えていた。
やはり、想像通りだったかとこれからの自分の身を危惧するが、ここまで来た以上どうすることもできない。いや、反抗する意思がないのだ。
(これで借金取りから解放されるのなら、薬の人体実験くらい……)
「さて、とりあえず裸になってくれたまえ。当然全裸だ」
「え、あの……」
佐藤は白衣の男の言葉に戸惑うしかできない。それもそのはず、いきなり服を脱げと言われて素直に従う者など稀有な存在だ。
「なんだい?」
「色々説明とかしてくれませんか?」
「ああ……それは後で。とりあえず服を脱いでくれ」
訝しがりながらも言われた通り佐藤は裸になる。
「ではそのままここに入ってくれ」
白衣の男はカプセル型の装置を開く。
佐藤は特に文句もなくカプセルの中に入りはしたが、自分がこれからどうなるのか説明が全くないことにひどく不安を感じていた。
「ではこれを頭に付けて寝てくれ」
そう言って佐藤が渡されたのは脳波を測る機械のようなもの。
「俺はこれを付けてどうすればいいんですか?」
「言っただろ? 寝てくれってな。説明はそれからだ」
佐藤は言葉通りに機械を取り付け、カプセル内で横になる。
それと共にカプセルが閉じられてしまう。
「それじゃあ、始めようか」
白衣の男が機械を操作する。いくつかの電子音が流れるとカプセル内に液体が流れ込んでくる。
「お、おい!」
脱出しようともがき、カプセルを開けようとするがびくともしない。
「落ち着きなさい。ライフという人体に無害なものだ。水中でも息はできる」
(んなこと言われても)
水位はどんどん上がり、ついにはカプセル内がすべてライフで満杯になる。
佐藤は顔が水没する前に大きく息を吸い込み、耐えてはいたが、いつまでも息を止めていれるわけではなく、空気を口から吐いてしまう。
(し、死ぬ……)
「さあ、おやすみ。そしてようこそ、夢の世界、楽園へ」
男の言葉と共に佐藤は意識を失った。