悪役令嬢は夜な夜な蚊と戦う
「眠れませんわ……」
プーーーン……という、あの耳障りで不快極まりない羽音が脳を刺激する。
「はっ!」
私はベッドから身を乗り出し、ヤツを容赦なく叩き潰そうとした。だが、手のひらが空を切る。逃げられてしまった。
「あっ、刺されてますわ!」
見れば、白い肌が赤く腫れ上がっている。完全に油断した。
何を隠そう、高貴なる私が今、夜を徹して戦っているのは――一匹の「蚊」なのだ。
◇◇◇◇◇
時計の針を数年前に巻き戻す。それは私が「悪役令嬢」として学園や社交界で恐れられ始めた頃のことだった。
「ルミナ様、今日もいじめをなさっていたのですって」
「学園では身分の低い生徒を、公爵邸では使用人をいじめているらしいわ」
「こわーい! 目をつけられないように気をつけなきゃね」
どこへ行っても私の噂ばかり。
厳格すぎる王妃教育のプレッシャーに心が悲鳴を上げていた私は、いつしかそのストレスを、周囲への八つ当たりという最低な形で発散するようになっていた。
――そして、ツケが回ってきたのだ。
「ねえ、紅茶を淹れてくださらない?」
「……ただいま、手が離せませんので」
冷ややかな視線。使用人たちからはあからさまに見放され、食事は部屋に運ばれてくるものの、冷え切った残り物のようなゴミ同然のメニューばかり。
部屋の掃除はまともにされず、話しかけても心のこもらない業務的な態度で突き放されるか、聞こえないふりをされる。
その仕打ちにイライラしては、さらに周囲に当たり散らし、ますます孤立していく……。私は完全に、最悪の悪循環に嵌っていた。
そんな荒みきった生活のなかで、最も私を苦しめたのが。
「プーーーン……」
蚊、だった。
おそらく、私を嫌悪する使用人たちが、嫌がらせとしてわざと部屋の窓を開け放ち、引き寄せているのだろう。
夏の間だけとはいえ、それは私にとって致命的なストレスだった。刺されれば令嬢としての美しい外見が損なわれ、激しい痒みに襲われる。痕は数日消えないし、何よりあの音が精神を削っていく。
蚊のせいで、今日も一睡もできない。
「……よし、殺そう」
あらゆる屈辱と苛立ちの果てに、私は一つの答えに至った。
刺される前に、殺す。寝る前に、部屋にいる奴らを一匹残らず全滅させるのだ、と。
◇◇◇◇◇
そこで、今日も今日とて私は蚊と戦うことになった。
だが、蚊を退治するのは簡単なことではない。高度な空気のコントロールと、絶妙な瞬発力が必要とされるのだ。
「はあっ!」
無情にも時は流れ、すでに深夜。寝る前に仕留められなかったのは痛手だが、一分でも長く深く眠るため、私は眠気を堪えてヤツと対峙する。
「ふんっ!」
思い切り両手を打ち合わせたが、またもや手のひらは空を切った。
「……あら?」
その時、私は恐ろしい事実に気づいてしまった。
視界をかすめた影は一つではない。今回送り込まれた蚊は――二匹だ。
「一匹と戦っているうちに、もう一匹に吸われる可能性がありますわね……」
私は学園での成績上位を誇る頭脳を、全力で回転させる。
「……待って。そう言えば以前、風変わりな生物学者による害虫の生態記録を読んだことがありますわ。『蚊は空気のわずかな振動を察知して、上下に避ける習性がある。左右から手を合わせると、その風圧で上下に押し出されるように逃げてしまう』――よし、やってみますか!」
私は狙いを定め、迫り来る蚊に対して手を「上下」に挟み込むように叩きつけた。
「……やっ、やらせていただきましたわぁ……!」
手のひらを開くと、そこには見事に潰された蚊の死骸。
謎の達成感が脳内を満たす。しかし、鼓膜を震わせる二匹目の羽音によって、すぐさま現実に引き戻された。
「はぁっ!」
完全にコツを掴んだ私は、流れるような動作で二匹目も撃破することに成功する。
「ふふっ、これで完璧に我が領地の治安を維持できますわ!」
結局その日は、大金星を挙げた興奮のあまり、別の意味で眠れなくなってしまったのだった。
◇◇◇
「えいっ!」
あの日以来、私は蚊を効率的に屠る方法を研究し尽くした。今や、百発百中の確率で蚊を退治する暗殺術を身につけている。
そんなある日、ついにその事件が起こった。
「ルミナ! お前との婚約を破棄する!」
華やかな夜会の中心で、婚約者である王太子から突然の婚約破棄を言い渡されたのだ。
以前の私であれば、プライドを傷つけられ、泣き叫んで会場をめちゃくちゃに荒らしていたことだろう。……けれど、今の私は違った。
昨晩も完璧に蚊を仕留め、今朝の目覚めは最高だった。日々のハントによってストレスは綺麗に発散され、私のメンタルは驚くほど穏やかで、凪いでいたのである。
「殿下――……婚約破棄、謹んでお受けいたします」
怒りも悲しみも湧かない。ただただ、冷静に返事をすることができた。
「さようなら、殿下。どうぞお幸せに」
呆然とする王太子を置き去りにし、私はドレスの裾を翻して優雅に会場を後にした。その時の胸がすくような清々しさは、命尽きるまでずっと忘れないだろう。
◇◇◇
それからというもの、私はすっかり人をいじめることがなくなった。
婚約破棄されたおかげで、あの大嫌いだった厳しい王妃教育からも正式に解放された。さらに、蚊を効率よく倒すことで毎日の睡眠の質が上がり、朝を最高にスッキリと迎えられているからだ。
今だけは、私を成長させてくれた蚊に感謝してもいいかもしれない。
最近では、使用人たちも恐れをなしたのか、部屋に蚊を送り込まれる嫌がらせはすっかりなくなった。けれど物足りなくなった私は、たまに夜な夜な庭園の茂みへと赴き、自ら蚊をハントしに行くのが密かな日課になっている。
「蚊と私の戦いは、私の圧倒的勝利ですわ!」
誰もいない月夜の庭で、私は令嬢らしからぬ力強いガッツポーズを突き上げたのだった。




