元聖女の寄り道
「元聖女お家へ帰る」の続編です。ここから読んでも大丈夫です。
第一話 元聖女、祖国を行く
マチュー王国へ入って四日。
ビクトリア・レムコ・モルガンは、まだ実家へ帰っていなかった。
王都マドリまでは、寄り道をしなければ二十日ほどである。レムコ聖王国の王都から国境まで一月かけたことを思えば、もう遠くはない。
だが、ビクトリアは急いでいなかった。
十年間、神殿で暮らした。毎日の予定は決められ、出会う人も、訪れる場所も、ほとんどが神殿によって選ばれていた。外国への親善訪問で遠くへ行くことはあっても、道の途中で気になったものを見に行く自由などなかった。
今は違う。聖女の務めは終わった。馬車の行き先は、自分で決められる。
「お嬢様。王都はあちらでございます」
箱馬車の向かい側に座ったロッテが、まっすぐ続く街道を指した。
「知ってるわ」
「では、なぜ曲がるよう指示なさったのでしょう」
「塔が見えたから」
街道から外れる細い道の先に、古びた石塔が立っていた。蔦に覆われ、上半分は森から突き出している。
「ちょっと見るだけよ」
「昨日も、そのようにおっしゃいました」
「昨日は水車だったでしょう。今日は塔よ」
「一昨日は石橋、その前は廃業した染物工房でございました」
「いい染料が残っていたわね」
「三樽お買い上げになったため、荷馬車が重くなっております」
ビクトリアは少し考えた。
「バルセで二樽売りましょう」
「お家へ帰る話をしております」
御者台からアダムの笑い声がした。後ろの荷馬車を操るサイモンも、よく似た笑い声を上げている。
結局、馬車は脇道へ入った。
◇
塔は三百年ほど前の見張り台だった。
今は使われていない。扉は朽ち、内部の階段も途中で崩れていたため、上まで登ることはできなかった。
それでもビクトリアは満足した。塔の大きな窓が、街道ではなく西の丘へ向いている。近くの農家に尋ねると、かつて丘の向こうに小さな城と古い街道があったことが分かった。
「明日は、そのお城を見ましょう」
「明日はバルセの大神殿をご覧になる予定でございます」
「では、明後日」
「古城をご覧になる予定でございます」
「忙しいわね」
「お嬢様が予定を増やしておられるのです」
ロッテは呆れていたが、馬車へ戻るビクトリアの足取りは軽かった。
十年ぶりに歩く祖国の地である。
風景そのものは、レムコ聖王国と大きく変わらない。畑があり、森があり、その間を道が通っている。国境を示す線が地面に引かれているわけでもない。
それでも、ここから先は自分の国だった。父と母と祖母が暮らす場所へ、道が続いている。そう思うだけで、道端の石垣さえ懐かしく見えた。
◇
夕刻、一行はバルセへ着いた。
二本の街道が交わる場所に築かれた、古い城壁都市である。王都ほど大きくはないが、旅人と商人の出入りは多い。宿や食堂、馬屋が狭い範囲に集まり、長旅の途中で休むには都合がよかった。
宿を決め、馬を休ませ、二台の馬車を点検する。
以前のビクトリアなら、その間に一人で市場へ向かおうとしたかもしれない。だが、盗賊から教えられたことがある。
強い者がそばにいるからといって、危険がなくなるわけではない。戦いになった時点で、何かに失敗している。
ビクトリアは、その言葉を忘れていなかった。
アダムとサイモンが馬車を調べている間、勝手に外へは出なかった。ロッテを連れ、宿の食堂で明日からの予定を決めた。
大神殿。古城。市場は一度だけ。
「二泊で十分ね」
「三泊にならないことを願っております」
「信用がないわ」
「これまでの実績でございます」
その夜、部屋の扉が三度、一定の間隔で叩かれた。
宿の者ではない。
アダムとサイモンの表情が変わり、ロッテが音もなくビクトリアの前へ出た。
「どなたでしょう」
「ログリッチ・G・タデイ」
扉の向こうから聞こえた名に、ビクトリアは首を傾げた。
タデイ帝国皇太子。マチュー王国の地方都市に、予告もなく現れるような人物ではなかった。
「ビクトリア・レムコ・モルガンに話がある」
祖国へ入って、まだ四日。安心してよいはずの旅に、招いていない客が現れた。
第二話 元聖女、求婚される
ログリッチ・G・タデイは、一人で部屋へ入ってきた。
護衛は廊下に残したらしい。他国の街で身分を隠すためでもあるのだろうが、それだけではない。アダムとサイモンがいる部屋へ一人で入れる程度には、自分の安全を確信している。
あるいは、ビクトリアたちが皇太子を殺せないと知っている。
「初めまして、殿下」
「堅苦しい挨拶は要らん」
「では、ご用件をどうぞ」
ビクトリアは椅子を勧めた。ログリッチは座らない。立ったまま、ビクトリアを眺めた。
値踏みされている。そう気づいた。市場で品物を見る時、自分も似た目をするからである。
「俺の妃になれ」
「嫌です」
求婚と拒絶は、ほとんど同時だった。
「理由も聞かずに断るのか」
「結婚したい相手は、自分で選びます」
「皇太子妃だぞ」
「それが何でしょう」
ビクトリアは、つい数日前まで聖女だった。国王の姪でもある。相手の肩書に驚いて判断を変えるような生活は、十五歳の時に終えている。
ログリッチは怒らず、代わりにタデイ帝国について語り始めた。
◇
タデイ帝国には、四百年間、大きな戦争がない。
平和そのものは悪くない。だが、ログリッチによれば、長すぎる平和は帝国を内側から腐らせていた。
領土は固定され、新たに褒賞として与えられる土地がない。武勲を立てる機会もなく、貴族は家柄と古い序列を競うしかない。
新しい事業を始めようにも、金を貸す仕組みが育っていない。
四百年前、帝国の金融を担っていたポガチャル家が追放された。皇帝の怒りを買ったためだったが、その後、同じように大きな金を動かす商家は育たなかった。
金を借りられない。事業を起こせない。新しい産業が生まれない。
領地を増やせない貴族たちは宮廷で互いを蹴落とし、帝国の骨組みそのものが軋み始めている。
「皇帝の権威が残っているうちに、外へ向かわなければならない」
ログリッチは言った。
「領土を広げる。功績を立てる場を作る。奪った土地と富を配り、帝国をもう一度動かす。そのためには軍だけでは足りん。戦争には金が要る。戦争の後には、もっと要る」
そこで必要になるのが、ビクトリアだという。
レムコ王家の血を引く元聖女。大商人モルガン家の娘。ポガチャル家の血を引き、衰退した村の技術を見つけ、金を動かす仕組みを作った女。そして、人形遣い。
ログリッチは、ビクトリアが国境へ着く前の出来事まで調べていた。
「お前なら戦争の後に市場を作れる。物流を整え、税を取り、荒れた土地を金に換えられる。お前の産む娘が聖女となれば、帝国はレムコ聖王国との繋がりまで手に入れる」
本人の能力。実家の財力。母方の王家。まだ生まれてもいない子供。
すべてに値段をつけられていた。評価は正確だった。正確すぎて、気分が悪かった。
「そんな殺伐とした暮らしはお断りです」
ビクトリアは答えた。
「私は家に帰ります。家族に会って、しばらくは好きなものを見て、花でも育てて、のんびり暮らします」
「お前ほどの力を持つ者が、何もせずに暮らせると思うのか」
「何をするかは私が決めます」
「世界を知らんな」
ログリッチは初めて笑った。
「お前には、俺の妃になるか、死ぬか。それ以外の未来はない」
室内の空気が変わった。
アダムも、サイモンも、ロッテも動かない。だが三人とも、いつでもログリッチの首を折ることができた。ビクトリアが命じないから、何もしない。
「脅しているのですか?」
「教えている」
「私は、あなたの国へ行くつもりはありません」
「ならば、自分の価値を知ることだ。価値のある物を、誰もが放っておくとは思わないことだな」
◇
皇太子が去った後も、ビクトリアはしばらく椅子に座っていた。
「嫌な人ね」
「殺害いたしますか?」
アダムが尋ねた。
「駄目よ。他国の皇太子よ」
「他国の皇太子が、お嬢様を殺すと申しました」
ロッテの声は静かだった。
ビクトリアは考えた。今までなら、強い護衛が三人いることで安心したかもしれない。だが、もう知らなかった頃には戻れない。
戦える者がいるから危険がないのではない。ログリッチがここまで来た時点で、すでに何かが始まっている。
「明日の予定は変えないわ。大神殿を見ます」
ロッテが瞬いた。
「その間に斥候を出すのよ」
寄り道をしているように見せたまま、相手の目的と手勢を調べる。盗賊から教わったことを、今度こそ正しく使う。
第三話 元聖女、敵を数える
翌朝、ビクトリアは予定どおり大神殿へ向かった。
ロッテとアダムを連れ、目立たない外套を羽織る。顔を隠しても長身は隠せないが、元聖女だと名乗らなければ、裕福な商家の娘にしか見えない。
大神殿は古かった。何度も増築され、建築された時代の違う礼拝堂が廊下で繋がっている。ビクトリアは壁画を眺め、石像を見て、案内役の神官の説明を聞いた。
観光しているふりではない。本当に見たかったので、きちんと楽しんだ。
同時に、空では二羽の鳥がバルセの周囲を調べていた。
◇
鳥人形を作らせたのは、五十一人の盗賊に囲まれ、斥候の必要を教えられた直後である。
普通の木人なら、ビクトリアは短い時間で作れる。人の形をしているため、動作を教える知識が十分にあった。鳥は違う。
羽の動かし方。風の捕らえ方。着地の仕方。獲物を見つけ、追い、嘴で食べる動作。
形だけを鳥にしても飛ばない。肉の体を持つ人形は、木人のように魔石を入れれば動くものでもなかった。
ロッテが二羽を作り、アダムとサイモンが野鳥を捕らえ、三日かけて必要な動きを学ばせた。
搭載した思考は戦略級。命令を達成できない時、自分で方法を変え、それでも無理なら撤退することができる。
通常、ビクトリアは木人にそこまでの思考を許していない。命令の解釈が広がりすぎれば、何をするか完全には予測できなくなるからである。
今回は違った。敵は他国の皇太子である。見える範囲を飛ぶだけでは足りない。
二羽は交代で宿を見張り、街道を調べ、バルセの外まで範囲を広げていった。
◇
最初に見つかったのは、宿を監視する二人だった。商人の服を着ているが、立ち方が兵士だった。交代しながら、ビクトリアたちの出入りを確かめている。
次に、バルセの外周で三十人ほどが見つかった。数人ずつ宿や倉庫へ分かれ、連絡を取り合っている。全員が同じ装備を持ち、合図の仕方も統一されていた。
盗賊ではない。
さらに二日後。
マドリへ向かう街道沿いの森で、二百人が見つかった。
こちらは隠すつもりこそあったが、完全な野営をしていた。軍馬。武器。鎧。食料。負傷者を運ぶための担架まで用意されている。
タデイ帝国の騎士だった。
ビクトリアが求婚を断ることを見越し、連れ去るために準備していたのである。
「早すぎるわ」
宿の部屋で報告を受けたビクトリアは、地図を見た。
ログリッチが求婚した翌日に集められる人数ではない。彼がバルセへ来る前から、騎士たちは国境を越えていた。
求婚は選択肢ですらなかった。受け入れれば連れていく。断れば捕らえる。抵抗して無理なら殺す。最初から、そのつもりだった。
「マチュー王国へ知らせるべきでしょうか」
アダムが尋ねた。
「知らせれば、国同士の問題になるわ」
二百人の帝国騎士が、王国内に潜伏している。明白な侵入だった。
マチュー王国が兵を出せば戦闘になる。騎士たちが逃げる途中で村を襲う可能性もある。捕らえればタデイ帝国は関与を否定し、証拠を消そうとするだろう。
何より、ログリッチは戦争を望んでいる。事件が公になれば、彼に口実を与えることになる。
「迂回して王都へ向かわれますか?」
サイモンが尋ねる。
「それでは、あの人たちが残るでしょう」
ビクトリアだけが逃げても終わらない。実家は知られている。父も、母も、祖母もいる。モルガン商会の店と倉庫は各地にあり、働く者も多い。ログリッチが諦めない限り、狙えるものはいくらでもあった。
家に帰りたい。ただ、それだけだった。
その平穏を守るには、待ち伏せの騎士を倒すだけでは足りない。
「皇太子を止めます」
「どのように?」
「分からせるのよ。世界は自分を中心に回っていない。欲しいものを何でも手に入れられるわけではない、と」
「殺害なさいますか?」
「殺さないわ。皇太子が死ねば、それこそ戦争になるもの」
「では、どちらへ?」
ビクトリアは地図の東を指した。タデイ帝国。その皇都。
「本人の寝室へ行きます」
◇
準備には十日かけた。
ビクトリアは古城を見て、大神殿へもう一度足を運び、買い物もした。外からは、皇太子を恐れてバルセへ籠もっているように見せた。
その間、鳥人形は皇都への道を調べた。鳥だけでは建物の中へ入れないため、ロッテを近くの森へ向かわせ、二体の小さな木人を作らせた。
身長百センチ。体重十キロ。戦うためではなく、隠れ、忍び込み、見るための人形である。
二体にも戦略級の思考を与えた。鳥が道を示し、小さな木人が皇都へ潜り込む。
城壁。城門。兵士の交代。王城の廊下。皇太子の部屋。
戻ってきた情報を地図へ重ね、侵入と脱出の道を決める。
そして十日目。
元聖女は、祖国から姿を消した。
第四話 元聖女、皇都へ行く
最初に、二台の馬車を分解した。
捨てるわけにはいかない。人目につかない森へ運び、部品ごとに油布で包んで隠す。馬は信頼できる農家へ金を払い、しばらく預けた。
荷馬車に積んでいた五十体の木人は、人の大きさへ展開した。斥候木人の案内で先に出発させ、皇都の外で待機させる。
ビクトリアたちも馬車を使わない。
タデイ帝国の皇都までは約四百キロ。徒歩なら二十日、馬車なら十日、馬を急がせても五日はかかる。
木人なら、一日で着く。
ビクトリアを運ぶため、ロッテが身長二メートル、体重百キロの木人を一体作った。ビクトリアを抱えたまま、走り、跳び、夜の森を進める。
アダム、サイモン、ロッテは自分の足で走った。三人は人の肉体を持つ人形である。普通の人間の倍近い身体能力を持ち、疲れても動きが鈍らない。
夜まで含めて十三時間。一行は四百キロを走り抜いた。
バルセを見張っていた者たちは、翌朝になっても、ビクトリアが消えたことに気づかなかった。
◇
皇都の郊外で、先行させた木人と合流した。五十体すべてが揃っていた。
ここから役割を分ける。
王城へ入るのは、斥候木人二体、木人十体、ロッテ、アダム、サイモン、そしてビクトリア。
三十体は王都から脱出する道へ配置する。鳥人形二羽が上空から異変を探り、道にいる木人へ情報を伝える。
残る十体と移動用木人は、国境へ戻る途中で待機する。万一、ビクトリアたちが追跡を振り切れない時に備えるためだった。
戦うだけなら、全員を王城へ連れていくほうが強い。だが目的は王城を落とすことではない。
皇太子へ会い、生きて帰ること。
帰還まで含めて、作戦だった。
「ロッテとサイモンは夫婦。私とアダムも夫婦ということにしましょう」
「お嬢様と夫婦を装うのは恐れ多く存じます」
「荷物持ちの兄妹にする?」
「夫婦として全力を尽くします」
アダムはすぐに考えを変えた。
ロッテとサイモンは別の門から皇都へ入った。旅の商人夫婦を二組。衣服も荷物も、それらしく整えた。
ビクトリアは商人の娘である。商人のふりをするために必要な受け答えは、幼い頃から身についていた。
二組は時間をずらして王城近くの別々の宿へ入った。
木人たちは夜を待ち、荷車の下、空の樽の中、屋根の上を使って少しずつ城内へ潜り込んだ。一体も見つからなかった。
戦略級の木人は、命令された道が使えなければ別の道を探す。見張りがいれば待ち、巡回の間隔が変われば引き返す。
ビクトリアは改めて、その能力の危険さを知った。
これを百体、常に自由に動かせば、使い手である自分でさえ、すべてを把握できない。だから普段はリミッターをかけている。
今夜だけは違う。
相手は二百人の騎士を他国へ送り込み、家族まで危険にさらした。こちらも、持っている力を隠したままでは戦えない。
◇
月が沈んだ。作戦を始めるには、よい夜だった。
先に入っていた木人が、城壁から細いロープを下ろす。
木人一体がロープを登り、ビクトリアはその背にしがみついた。二人分の重さでは速く動けないが、ゆっくり登ることはできる。
ロッテ、アダム、サイモンは、別のロープを人間とは思えない速さで登った。
城壁を越える。王城へ入る。巡回を避ける。
先頭を小さな木人が進み、角の向こうを確かめる。通常の木人が後方を守る。ビクトリアは中央を歩いた。
聖女だった頃、いくつもの王城を訪れた。明るい時間に。正門から。大勢に迎えられて。
今夜は誰にも招かれていない。
それでも向かう先は、皇太子の寝室だった。
第五話 元聖女、城へ攻め込む
ログリッチは、一人で眠っていた。
斥候木人が錠を外し、音を立てずに扉を開ける。アダムとサイモンが室内を調べ、ロッテが窓際に立つ。ビクトリアが寝台へ近づいた。
枕元には剣があった。ビクトリアはそれを抜き、ログリッチの首へ当てた。
「起きなさい」
ログリッチが目を開ける。暗闇の中でも状況はすぐに理解したらしい。息を呑んだが、叫ばなかった。
ロッテが灯りをつける。皇太子の顔から血の気が引いた。
「今夜は、あなたに分かっていただくために来ました」
「……どうやって入った」
「質問する立場ではありません」
剣先を僅かに動かす。ログリッチの首に、細い傷ができた。
「世界は、あなたを中心に回っていません。タデイ帝国のためなら、他国を戦場にしてもよい。欲しい女が断れば、兵を使って連れ去ってもよい。失敗すれば殺してしまえばよい。あなたは、そう考えているのでしょう」
「俺を殺せば戦争になるぞ」
「ですから、殺しません」
「では何をしに来た」
「殺せると教えに来ました」
ログリッチが黙った。
「あなたがバルセへ来ることも、二百人を森へ置くことも、私は止められませんでした。でも次は違います。あなたの騎士が国境を越えた日。あなたが家族へ手を出すと決めた日。私はまた、ここへ来ます」
城壁があっても。兵士がいても。鍵をかけても。眠らずにいることはできない。
「この世界のどこにも、あなたが安心して眠れる場所はありません」
長い説教だった。そして、少し長すぎた。
◇
ログリッチの右手が寝台の陰へ動き、小さな魔道具を押す。
けたたましい鐘が鳴った。
窓を金属の板が塞ぎ、入口にも格子が落ちる。同時に寝台が壁へ引き寄せられ、ログリッチの体が剣先から離れた。
壁の一部が崩れ、その向こうから三メートル近い巨体が現れる。
オーガ。
人を食う魔物が、首に魔道具をつけられ、王城の壁の中に隠されていた。
「オーガを使役できるとは思わなかっただろう。形勢逆転だ」
隠し扉が開き、護衛兵が室内へ入ってくる。最初から用意されていた罠だった。
ログリッチは、自分を狙う者が寝室まで来る可能性を考えていた。ただし、来たのが一人の女と三人の使用人だけではないことを知らなかった。
「今日は、殺すのをやめておきます」
ビクトリアは手にした剣を投げた。
剣はログリッチの太腿を貫き、そのまま壁へ刺さった。皇太子が悲鳴を上げる。自分の剣だった。
「ロッテはオーガを。アダム、サイモン。突破口を開きなさい」
二人が動いた。
室内へ入ってきた護衛兵は皇太子直属の精鋭だった。それでも、アダムとサイモンの敵ではない。
剣を受け、逸らし、鎧の隙間を斬る。盾ごと兵士を倒し、後ろにいた者まで巻き込む。人間の騎士同士の戦いには見えなかった。大人が子供の剣を払い落としているようだった。
ロッテは素手でオーガを抑えている。力では敵わない。それでも腕を取り、足を払い、狭い室内で動きを封じる。壁へ叩きつけられても、すぐに立ち上がった。
「お嬢様。お急ぎください」
廊下では、鐘を聞いた兵士たちが集まり始めていた。斥候木人が扉を開け、先に潜伏させた十体の木人も合流する。
「ロッテ!」
「ここはお任せくださいませ」
オーガの両腕が、ロッテの体を捕らえる。骨が軋む音がした。
「必ず迎えに来るから!」
「信じて、お待ちしております」
ロッテはいつものように微笑んだ。
アダムがビクトリアを抱え上げる。サイモンと木人が前を開き、一行は廊下へ出た。
◇
侵入する時は、誰にも見つからない道を選んだ。脱出する時は違った。
最短距離で城門へ向かった。王城の中央を通る道である。
警鐘を聞いた兵士が、次々に立ちはだかる。
木人は棒で腕や膝を砕いた。アダムとサイモンは、止めなければ追ってくる者だけを斬った。
重装歩兵はいない。斥候木人が事前に確認していた。夜の王城にいる兵士では、二人と十体の木人を止められない。
階段を下りる。広間を抜ける。中庭を突っ切る。閉じた扉は木人が壊した。弓兵が屋根へ出れば、先に潜んでいた木人が引きずり下ろした。
城門を内側から開ける。
街へ出たところで、脱出路に配置していた三十体が加わった。追撃の兵は、そこから先へ進めなかった。
◇
皇太子の寝室では、ログリッチが壁に背を預けていた。太腿には剣が刺さったままである。
目の前には、オーガに押さえつけられたロッテがいた。
「主人が迎えに来ると思っているのか?」
「はい」
「お前一人のために、もう一度この城へ?」
「お嬢様は、そのようになさいます。ですが、その必要はございません」
「何?」
「私は人形でございます」
ログリッチの顔から表情が消えた。
「お嬢様は、私の構造をすべてご存じです。私を身内のように扱われますが、大切な道具であることも理解しておられます」
ロッテの体内で、魔力が一点に集まる。
人として捕らえられたなら尋問される。人形だと知られれば分解される。ビクトリアの秘密を残すことはできない。
「それでは、失礼いたします」
爆発が、皇太子の寝室を吹き飛ばした。
◇
夜が明けた時、王城には皇太子の寝室から城門まで死体と負傷者が続いていた。百人を超える兵士が倒れ、襲撃者の死体はなかった。
皇太子は首に細い傷をつけられ、太腿を自分の剣で貫かれた。
何より、襲撃者は厳重に守られた寝室へ入り、皇太子を殺せることを証明してから去った。
ログリッチは、ようやく分かった。
ビクトリアを妃にすれば、帝国は大きな力を得る。だが、ビクトリアが拒んだ時、その力は帝国の敵になる。
彼女を値踏みした報告書には、一つだけ決定的な間違いがあった。
侍女ロッテ。護衛アダム。護衛サイモン。
三人は、ビクトリアが絶大な信頼を寄せる使用人ではない。三体とも人形だった。
そして、この日。
タデイ帝国の王城へ攻め込んだのは、たった一人の人形遣いだった。
第六話 元聖女、寄り道を終える
王城を出たビクトリアたちは、夜のうちに皇都から離れた。
追跡を防ぐため、三十体の木人が道を分かれて進む。足跡を残し、別の方角へ逃げたように見せ、夜が明ける前に小さな人形の姿へ戻った。
ビクトリアたちは移動用木人と合流し、国境を目指した。
途中で何度も進路を変えた。鳥人形が上空から道を調べ、斥候木人が先へ進む。
追っ手は来なかった。
ログリッチが命令を出せる状態ではなかったのか。あるいは、他国の元聖女に王城を襲われたと公表できなかったのか。どちらでもよかった。
鳥人形の一羽はバルセまで先行させた。
マドリへ向かう街道の森から、二百人の騎士が撤収を始めたことも確認できた。ログリッチから新しい命令が届いたのか、連絡が途絶えたため自分たちで退くことを決めたのかは分からない。
重要なのは、彼らがマドリではなく国境へ向かっていることだった。
待ち伏せはなくなった。
皇太子は生きている。そして、ビクトリアを追えば何が起きるかを知った。
目的は達成した。
失ったものを除けば。
◇
待ち伏せの森を越えた先の、小さな町に入った。
ここまで来れば、タデイ帝国の騎士が潜伏していた場所より王都側である。ビクトリアは宿を取らず、そのまま近くの森へ入った。
「ここでいいわ」
人の来ない場所を選び、五十体の木人を集める。
破損した人形は十一体。腕が折れたもの。脚を失ったもの。胴体に剣を受けたもの。
木人の修復は難しくない。森には材料がある。使える部品を外し、新しい木を削り、魔石を組み直す。数日あれば、すべて元に戻せる。
ロッテは違う。修復ではない。一から肉体を作り直す必要があった。
「核は無事です」
アダムが、小さな包みを差し出した。ロッテが自爆する直前、体内から射出したものだった。
硬い殻に守られた、人形の核。そこにはロッテの人格と、それまでの記憶が残されている。
ビクトリアは両手で受け取った。
「迎えに来たわよ」
返事はない。今はまだ、ただの核だった。
◇
肉の体を持つ人形を作るには、魔物の肉が要る。
ビクトリアは木人を森へ放った。狩りに適した十体を一組とし、鳥人形に獲物を探させる。大型の魔物を見つけたら囲み、動きを止め、アダムとサイモンが仕留めた。
集めた肉をそのまま人の形にするわけではない。不要なものを取り除き、必要な組織へ作り替え、骨、筋肉、血管、皮膚を組み上げる。
ロッテがいれば、もっと早かった。三体の中で、細かな作業を最も得意としていたからである。
「次は、私かサイモンを残してください」
作業をしながらアダムが言った。
「ロッテ殿に修復していただくほうが早く済みます」
「同感です」
サイモンも頷く。
「次なんてないわよ」
ビクトリアは即座に答えた。
「私は元聖女よ。荒事はお断りなの」
二人は何も言わなかった。王城へ攻め込んだ帰りに言うことではない。顔に、そう書いてあった。
◇
七日目。
横たわっていたロッテが目を開けた。肌に色が戻り、指が動く。呼吸は必要ないはずなのに、人の体に馴染ませるため、胸がゆっくり上下した。
「お嬢様」
「ロッテ!」
ビクトリアは身を乗り出した。
「近うございます」
最初に言われたのは、それだった。いつものロッテだった。
「私たちは、どちらに?」
ただし、ロッテの記憶はレムコ聖王国を出発したところで止まっていた。
国境までの旅。盗賊。衰退した村。バルセ。皇太子。王城での自爆。
出発後に経験したことは、核へ定着する前に失われていた。
ビクトリアは最初から説明した。途中で何度もロッテに叱られた。
「なぜ斥候も出さず、盗賊のいる森へ入ったのでございますか」
「もう反省したわ」
「なぜ衰退した村で商会をお作りになったので?」
「必要だったから」
「なぜ他国の王城へ攻め込んでおられるのでございますか」
「それは、向こうが先に二百人も送り込んだからよ」
「お嬢様。お家へ帰る旅だったのでは?」
ビクトリアは黙った。アダムとサイモンが、同時に目を逸らした。
「少し、寄り道しただけよ」
◇
木人の修復を終え、分解して隠していた馬車を組み直す。預けていた馬も無事だった。
戦略級の思考を与えた木人には、再びリミッターをかけた。二羽の鳥人形だけは、これからの旅でも斥候として使うことにした。
学んだことは無駄にしない。
箱馬車。御者はアダム。ビクトリアとロッテが乗る。
荷馬車。御者はサイモン。野営道具と衣装と、五十体の木人を積む。
出発した時と同じ形へ戻った。
違うのは、荷馬車に染料が三樽増えたことくらいである。
「二樽売るのではなかったのですか?」
復活したロッテが尋ねた。
「売る時間がなかったの」
「では、次の町で」
「実家へ持って帰ってもいいと思わない?」
「荷馬車が重くなっております」
御者台から、二人分の笑い声がした。
「アダム、サイモン!」
「何も申し上げておりません」
「同じく」
二台の馬車が動き始める。
王都マドリまで、あと二十日ほど。予定より、ずいぶん遅くなった。
それでも、ビクトリアは今度こそ家へ帰る。
父と、母と、祖母が待つ家へ。
もう大きな寄り道はしない。
少なくとも、本人はそのつもりだった。




