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夢の迷宮

 夜になると、僕は必ず同じ場所に立っていた。

 無数の扉が並ぶ長い廊下、天井は見えず、壁もどこまでも続いている。

 床は薄い霧に覆われ、踏み込むたびに冷たく湿った感触が足裏に伝わった。


 僕の名前は湊。二十六歳、平凡な会社員。

 平凡すぎる日常から逃げるように眠ると、この夢の迷宮が現れる。

 最初はただの奇妙な夢だった。

 だが、夜ごと、廊下は広がり、扉は増え、迷い方も複雑になっていった。

 夢の中で迷うたびに、目が覚めると現実でも疲労感が残る。


 ある晩、いつものように夢に入ると、廊下の先に小さな明かりが見えた。

 ろうそくのように揺れるその光に誘われ、僕は歩き出す。

 扉の一つ一つに手を触れるが、どれも硬く閉ざされている。

 光は迷路の中心にあるらしく、近づくにつれ温かさが増す。

 だが、扉の向こうからは声がする。

 低く、囁くような声。

「戻れ」

「進むな」

 その声に背筋がぞくりとした。

 僕は恐怖を感じながらも歩みを止められない。

 明かりは、どこか懐かしい。

 幼い頃、母と手をつないで歩いた夏の夕暮れの色だ。

 懐かしさに胸が詰まり、涙が頬を伝う。

 しかし、涙は夢の霧にすぐに吸い込まれる。

 歩き続けると、扉の前に立った。

 明かりはその奥から漏れている。

 扉を開けると、そこは庭だった。

 小さな花が咲き、鳥の声が聞こえる。

 夢なのに、空気は湿り、土の匂いも感じる。

 庭の奥にはベンチがあり、そこに僕は座った。

 ふと、後ろから足音が聞こえる。

 振り返ると、少女が立っていた。

 黒い髪を肩に垂らし、白いワンピースを着ている。

 顔はよく見えないが、どこかで見覚えがある気がした。

「君は……」

 はっきりとした声が出ない。

 少女はゆっくりと手を差し出す。

 無言のまま、僕はその手を取った。

 すると、景色が変わった。

 庭が消え、再び無限の廊下。

 だが、扉の形は変わり、壁の色も青黒く沈んでいる。

 少女は僕の前を歩き、手を引く。

 追いかけるが、霧が濃く、視界は歪む。

 廊下の端から、僕の知らない建物が浮かび上がる。

 古い学校、無人の図書館、錆びた遊園地。

 夢は現実の記憶と混ざり、時空がねじれる。

 目を凝らすと、廊下の壁に影が映る。

 無数の人影。動かず、ただこちらを見つめる。

 声を上げたいが、声は霧に飲まれる。

 足元の床が揺れ、僕は転びそうになる。

 その瞬間、少女が振り返った。

「迷わないで」

 と囁く。

 僕は理解できない。

 迷わないで、とは、進めということか、戻れということか。

 迷宮にはルールがない。

 進むたびに新たな選択肢が現れ、扉は増え、迷うほど深く閉じ込められる。

 僕は心の奥で恐怖を感じながらも、少女の手を握り直す。

 歩き続けると、一つの扉の前で立ち止まる。

 扉の向こうは光。

 暖かく、安心感に満ちている。

 振り返ると、無数の廊下と扉が広がる。

 迷宮はまだ続いている。

 少女は僕に微笑み、言う。

「ここで選んで。進むか、戻るか」

 心臓が早鐘のように打つ。

 夢から覚めるべきか、この光の先に進むべきか。

 迷宮は答えを出さない。

 ただ、選択を迫る。

 僕は深呼吸し、手を伸ばす。

 扉の取っ手は冷たく、振動する。

 開くと、光が包み込み、身体が軽くなる感覚。

 だが、夢は完全には消えない。

 覚めても耳の奥に、廊下の冷気と少女の囁きが残る。


 数日後、僕は夢日記をつけ始めた。

 廊下の形、扉の数、少女の言葉を記録する。

 書き留めるたび、夢の迷宮は少しずつ現実と接続するように感じられる。

 会社の帰り道、街灯の下でふと迷路の感覚がよみがえる。

 建物の影が長く伸び、夜風に霧が漂う。

 夢と現実の境界が薄れる感覚。

 迷宮はまだ僕の中にあり、手放すことも、完全に理解することもできない。


 夜、布団に入ると、無限の廊下が再び現れる。

 少女の手を握り、扉を開け、歩き続ける。

 迷宮は終わらない。

 終わらないが、歩くたびに何かを得ている。

 恐怖、迷い、孤独、そして、微かな希望。

 夢の迷宮は僕を試す。

 しかし、歩みを止めない限り、出口の光はいつか見えるだろう。

 足元の霧に注意を払い、手探りで扉を開き続ける。

 目覚めれば現実がある。

 しかし夢の中で得たものは、確かに心に刻まれる。

 迷宮は消えず、夜ごとに僕を呼ぶ。

 それでも、僕は歩き続ける。

 光を求め、少女の手を握り、扉を開き、迷宮を進む。


 終わりのない夢の中で、僕は自分を見つけるのだろう。


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