凍土に咲く白
七月の終わりだというのに、商店街の風はどこか冷えていた。海から吹き上げる潮気を含んだ風が、午後三時のアスファルトを撫で、白くかすれた横断歩道の上をすべっていく。私はその風の通り道に立ち、溶けかけたバニラアイスを見つめていた。
コーンの縁から、白い雫がひとつ、またひとつと垂れる。舌で受け止めれば甘いはずなのに、喉の奥にはなぜか、冬の匂いがした。
「早く食べないと、なくなるよ」
隣で笑ったのは、妹の凛だった。高校の制服姿のまま、日傘も差さず、汗を光らせている。
「なくなるって、どういう意味だよ」
「そのまんま。アイスは溶けたら、ただの甘い液体」
凛は自分のカップを掲げ、白い表面をスプーンで平らに撫でた。几帳面な性格が、こんなところにも出る。
私たちが立っているのは、三年前まで祖父が営んでいた小さなアイスクリーム店の跡地だった。シャッターは降り、看板の文字は剥げ落ち、かろうじて「アイス」の「ア」だけが残っている。
祖父の店の名物は、バニラアイスだった。特別な材料を使っているわけでもない。ただ、卵と牛乳と砂糖、それからほんの少しの塩。祖父はいつも「白は誤魔化せない」と言っていた。
焦がしも混ぜ物もきかない。白いまま、真っ向から勝負するしかないのだと。
「お兄ちゃん、覚えてる? じいちゃん、冬でもバニラ売ってたよね」
「覚えてるよ。ストーブ焚きながらな」
雪の降る日、店のガラス戸は曇り、外は凍えるほど寒いのに、店内だけが甘い匂いで満ちていた。祖父は厚手のセーターの袖をまくり、銀色のディッシャーで丸い球をつくる。その手つきは、氷を扱う職人のように静かで正確だった。
私は小学生で、冬のアイスが不思議で仕方なかった。どうして寒いのに、さらに冷たいものを食べるのか。
けれど一口含めば、体の芯がすうっと静まり、世界の音が遠のいた。雪の白と、アイスの白。二つの白が重なり、時間が止まる。
「じいちゃんの味、もう一回食べたいな」
凛がぽつりと言った。
祖父は去年の秋に亡くなった。店はとっくに閉めていたが、厨房の奥に古いアイスクリームメーカーだけは残していた。遺品整理のとき、私はそれを捨てられず、アパートの台所に持ち帰った。
だが、まだ一度も使っていない。
「……そうだな。もう一回食べたいな」
「じゃあさ、作ればいいじゃん」
凛は軽く言う。
「簡単に言うなよ。あの味は、レシピだけじゃない」
「じゃあ何?」
私は答えられなかった。
祖父は、作り方を細かく書き残していた。温度、攪拌の時間、材料の分量。だが最後のページにだけ、こうある。
最後は、火を止める勇気。
それが何を意味するのか、私にはわからない。
その夜、私は冷凍庫の前に立っていた。昼間買った市販のバニラアイスが、半分残っている。蓋を開け、スプーンを差し込む。
なめらかで、甘く、どこまでも均一な味。美味しい。けれど、何かが違う。
祖父のバニラは、もっと静かだった。甘さが先に立たず、牛乳の匂いがゆっくり広がり、最後にほんの少しだけ塩が舌を締める。溶ける速度さえ、計算されているようだった。
私は流しの下から、あの機械を取り出した。白い本体は黄ばんでいるが、まだ動くはずだ。
卵を割る。牛乳を温める。砂糖を溶かす。レシピどおりに進める。温度計を睨みながら、鍋底を焦がさぬように木べらを動かす。
やがて、とろみがつく。
ここまでは順調だ。
だが、火を止める瞬間がわからない。もう少し加熱すれば、より濃厚になる気がする。けれど、行き過ぎれば、ただ重たいだけの味になる。
祖父はいつも、迷いなく火を止めていた。
「白は誤魔化せない」
その声が、台所の壁から聞こえた気がした。
私はコンロの火を消した。
それが正解かどうかはわからない。ただ、これ以上は足さない、と決めた。
粗熱を取り、機械に流し込む。ゆっくりと回転が始まり、液体が空気を含んでいく。
夜のアパートは静まり返り、モーター音だけが低く響く。夏だと言うのに、まるで小さな冬が台所に生まれつつあるようだった。
翌日、凛を呼んだ。
「できた?」
「たぶんな」
スプーンを二本差し出す。
凛は一口すくい、じっと目を閉じた。
「……どうだ」
「うん」
凛はもう一口食べる。ゆっくり噛みしめるように。
「じいちゃんのとは、違う」
胸がきしむ。
「でもね」
凛は笑った。
「ちゃんと白だよ」
その言葉に、私は息を吐いた。
祖父の味と同じでなくていいのかもしれない。あの人の白は、あの人の時間でできていた。私の白は、私の時間でしか作れない。
窓の外では、夏の陽射しがコンクリートを照らしている。けれどスプーンの上では、小さな白い丘が、ゆっくりと形を変えながら消えていく。
溶けるということは、なくなることではない。
舌に残る甘さも、喉に落ちる冷たさも、やがて体温と混ざり、目には見えなくなるだけだ。
「店、もう一回やれば?」
凛が唐突に言う。
「こんな小さな台所で?」
「商店街、空いてるとこあるよ。シャッター閉まったままの」
昨日立っていた、あの場所。
剥げた看板の下で、白い雫が落ちた午後。
私は想像する。冬の商店街。曇るガラス戸。ストーブの赤い火。外は凍える風。中では、白いアイスをすくう音。
「冬でもバニラアイス売るぞ」
思わず口に出す。
「いいね。寒いほど美味しいやつ」
凛は笑い、最後の一口を食べた。
カップの底には、溶けたアイスが薄く残っている。凛はそれを名残惜しそうにすくい、舐めた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「火を止める勇気ってさ、きっと、ここでいいって思うことだよ」
これ以上、足さない。これ以上、欲張らない。
白のままで、差し出すこと。
私は空になった容器を見つめる。そこにはもう何もない。けれど確かに、さっきまで白い丘があった。
凍土に咲く花のように、ひとときだけ。
秋が来る前に、私は商店街の不動産屋を訪ねるだろう。古いシャッターを上げ、埃を払い、壁を塗り直す。
看板には、きっと派手な色は使わない。
ただ、白い文字で店の名を書く。
冬の匂いをまとった、バニラアイスの店。
溶けることを恐れず、なくなることを惜しみながら、それでも毎日、白をすくう。
その一瞬のために。
白は、誤魔化せない。
だからこそ、私は今日も、火を止める。




