星の郵便屋
夜の空を見上げる人は多いが、星から地上を見下ろす者はほとんどいない。
わたしは、その少ないほうだ。
名はない。
強いて言うなら、星の郵便屋。
わたしの仕事は、地上からこぼれ落ちた願いを拾い、しかるべき星へ届けること。
願いは目に見えない。
けれど、夜になると、かすかな光となって空へ昇ってくる。
それは涙の粒のようでもあり、ため息のかけらのようでもある。
人々は気づかない。
自分の胸から、小さな光が抜け出していることを。
今夜も、地上はざわめいている。
都会のビル群のあいだから、いくつもの光がふわりと浮かび上がる。
「間に合いますように」
「忘れられませんように」
「もう一度、会えますように」
声にならない声。
それらは夜風に乗り、空へ届く。
わたしはそれを網で受け止める。
網といっても、糸でできたものではない。
星の塵を編んだ、透明な器だ。
光は、触れると温度を持つ。
熱いものもあれば、冷たいものもある。
熱い願いは、急いでいる。
冷たい願いは、長く胸に残っていたものだ。
「さて、今夜は忙しい」
ひとりごちる。
わたしの足場は、月の影だ。
月の裏側に、小さな小屋がある。
そこに、星の地図が広げられている。
願いには、それぞれ行き先がある。
恋の願いは金色の星へ。
挑戦の願いは青い星へ。
別れの願いは、静かな白い星へ。
間違えて届けると、少しだけ未来がずれる。
それはそれで面白いが、できるだけ正確に届けるのがわたしの流儀だ。
ひとつ、赤い光を手に取る。
まだ震えている。
「怖くありませんように」
幼い声だ。
暗い部屋で、布団をかぶっている子ども。
わたしは、その光をやわらかな星へ運ぶ。
星は、ほのかに明るくなる。
次に、淡い青の光。
「やり直せますように」
これは重い。
後悔の色をしている。
わたしはしばらく考え、遠い星を選ぶ。
やり直しは、すぐ近くにはない。
距離が必要だ。
星に光を置くと、かすかな波紋が広がる。
その波紋は、いずれ地上へ戻る。
形を変えて。
仕事は単調に見えるが、同じ夜はない。
ある夜、ひときわ強い光が昇ってきた。
まぶしくて、思わず目を細める。
「生きたい」
それだけの願い。
短く、切実だ。
わたしは息をのむ。
こういう光は、扱いが難しい。
強すぎる願いは、星を焦がすことがある。
「落ち着け」
わたしは光を包み、ゆっくりと冷ます。
願いは、ただ強ければいいわけではない。
続くことが大切だ。
やがて光は、穏やかな白へ変わる。
わたしは、それをいちばん古い星へ運ぶ。
その星は、何千年も前から輝き続けている。
生きるということは、長く灯ることだ。
願いを置くと、星がひときわ強く瞬いた。
ほっと息をつく。
だがそのとき、異変が起きた。
地上から、黒い影が昇ってきたのだ。
光ではない。
重く、濁ったもの。
「これは……」
願いではない。
あきらめだ。
「どうせ無理だ」
「もういい」
「消えてしまいたい」
影は、光を押しのけるように広がる。
星のあいだに、闇がにじむ。
これを放っておくと、星が曇る。
わたしは網を広げ、影をすくい上げる。
重い。
光の何倍も重い。
腕が震える。
「くそ……」
星の郵便屋にとって、いちばん厄介なのは、願いではなく、願わなくなった心だ。
それは星へ届かない。
ただ、空を濁らせる。
わたしは月の裏の小屋へ戻り、影を広げる。
どう処理するか。
燃やせば、煙になる。
捨てれば、また地上へ落ちる。
しばらく考え、ひとつの方法を思いつく。
影の中心には、まだかすかな光がある。
消えきらない、ほんのわずかな光。
それを、すくい上げる。
「まだ、ある」
影を削り、光だけを取り出す。
それは弱々しいが、確かに温かい。
わたしはそれを、星の種に変える。
小さな、小さな種。
月の縁に植える。
しばらくすると、芽が出る。
淡い光の芽。
それはやがて、ひとつの新しい星になる。
小さいが、確かな輝き。
影は、消えない。
だが、光を生むことはできる。
それがわたしの見つけた答えだ。
夜が深まる。
地上の光が少しずつ減っていく。
人々は眠り、願いもひと休みする。
わたしは星のあいだを漂う。
静かな時間。
星はそれぞれ、かすかな音を立てている。
耳を澄ませば、願いの余韻が聞こえる。
笑い声、すすり泣き、決意の息。
それらが混ざり、夜空はできている。
やがて東の空が白む。
夜が終わる。
星はひとつ、またひとつと姿を消す。
だが消えるのではない。
見えなくなるだけだ。
わたしは最後の光を届け、網をたたむ。
月の裏の小屋へ戻り、地図を閉じる。
「また今夜」
だれにともなく言う。
星の郵便屋に休みはない。
願いは毎晩、生まれる。
地上のだれかが、空を見上げるかぎり。
そして、たとえ見上げなくても、胸の奥で小さくつぶやくかぎり。
わたしはまた、網を広げる。
光をすくい、星へ届ける。
それが、わたしの仕事。
星と人のあいだを結ぶ、夜の配達人。
夜空が今日も澄んでいるのは、きっと、だれかが願いを手放さなかったからだ。




