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風をぬう蝶

 森のはずれに、風のよく通る草原がありました。

 朝になると、露をまとった草がきらきらと光り、小さな花々がいっせいに顔を上げます。

 その草原に、一匹の蝶が生まれました。

 名を、ルリといいます。

 羽は淡い水色で、光の加減によって銀色にも見えました。けれど、ルリはまだうまく飛ぶことができません。

 生まれて間もない羽はやわらかく、風にあおられると、すぐによろけてしまうのです。

「ゆっくりでいいのよ」

 近くの白い花が、やさしく言いました。

「風は、追いかけるものじゃないわ。いっしょにゆれるものよ」

 ルリは羽をぱたぱたさせました。

「でも、みんなみたいに高く飛びたいの」

 空の上では、先に生まれた蝶たちが、軽やかに円をえがいています。


 黄色い蝶のキイが、ひらりと降りてきました。

「焦らなくていいよ。ぼくも最初は、草にぶつかってばかりだった」

「ほんと?」

「ほんと。あっちの石にもぶつかったし、あの木の枝にも」

 キイは、少し誇らしげに羽をひらきました。

「でも、ぶつかるたびに、風の流れがわかるようになったんだ」

 ルリは空を見上げました。

 風は目に見えません。ただ、草をゆらし、花びらを震わせ、雲を流していきます。

「風って、どこから来るの?」

 ルリがたずねると、古い樫の木が、どっしりとした声で答えました。

「遠い山からだよ。もっと遠い海からかもしれん」

「海?」

「そうだ。わしは動けんから見たことはないがな。風は、いろんな場所の匂いを運んでくる」


 そのとき、ひときわ強い風が吹きました。

 ルリの体が、ふわりと持ち上がります。

「きゃっ」

「いまだよ、ルリ!」

 キイが叫びました。

「風にさからわないで、羽をひらいて!」

 ルリは目を閉じ、思いきって羽を大きくひらきました。

 風が、羽のあいだをすり抜けます。

 押されるのではなく、包まれるような感覚。

 気がつくと、ルリは草原の上を滑るように飛んでいました。

「飛んでる……」

 胸が高鳴ります。

 下には、さきほどまで見上げていた花々。

 少し高くなるだけで、世界はこんなにも広く見えるのです。

「やったね!」

 キイが並んで飛びます。

「風は、敵じゃないんだ」

 ルリはうなずきました。

「うん。友だちみたい」


 その日から、ルリは毎日、風とあそびました。

 朝のやわらかな風、昼のあたたかい風、夕方のすこし冷たい風。

 それぞれにちがう表情があります。


 けれど、ある日のこと。

 空がにわかに暗くなりました。

 雲が広がり、重たい風が吹きはじめます。

「嵐が来るぞ」

 樫の木が低くうなりました。

「若い蝶たちは、森の奥へ避難しなさい」

 蝶たちは、いっせいに飛び立ちます。

 ルリもキイといっしょに、森の奥ほうへ向かいました。 けれど、途中で突風にあおられ、ルリは流されてしまいます。

「ルリ!」

 キイの声が遠ざかる。

 わかっていても激しい風に、ルリは体が思うように動きません。

 羽がばたばたと乱れ、視界がぐるぐると回ります。

「こわい……」

 気づけば、雨粒が羽を打ちました。

 重く、冷たい。

 ルリは必死に羽を動かします。


 そのとき、ふと、あの白い花の言葉を思い出しました。


 風は、追いかけるものじゃない。いっしょにゆれるもの。


 ルリは、羽の力を抜きました。

 嵐の風は強いけれど、流れはあります。

 逆らうのではなく、流れに身をあずける。

 すると、不思議なことに、体の向きが安定しました。

 横なぐりの風の中に、わずかなすきまがある。

 そこへ、そっと羽をひらく。

 ルリは、少しずつ高度を下げ、森の大きな木の陰へとたどり着きました。

 幹のくぼみに、身を寄せます。


 やがて、嵐は去りました。

 雲の切れ間から、光がさしこみます。

 濡れた羽を、ゆっくりとひらきました。

 どこも破れてはいません。

「……生きてる」

 ほっと息をついたとき、頭上から声がしました。

「たいしたものだな」

 それは、森の奥に住むという年老いた蝶でした。

 羽は色あせていますが、どこか深い輝きをたたえています。

「こわくなかったかい?」

「こわかったです」

 ルリは正直に答えました。

「でも、風に教えてもらったんです」

「ほう」

「風は、こわいだけじゃない。道も、つくってくれる」

 老いた蝶は、ゆっくりとうなずきました。

「いい目をしている。風を見る目だ」

 やがて、キイも森の奥にたどり着きました。

「ルリ! よかった……ケガしてない?」

「うん。なんとかね」

 ふたりは、嵐のあとの森を見つめます。

 葉は散り、枝は折れています。

 けれど、光は前よりも深く、地面に届いていました。

「嵐って、こわいけど」

 キイがつぶやきます。

「森のかたちも変えるんだね」

 ルリは、ゆっくり羽をひらきました。

「うん。風は、世界をぬいなおすみたい」

「ぬいなおす?」

「ほころびたところを、ちがう色でつなぐの」

 草原へ戻ると、見慣れた景色が、すこしだけ変わっていました。

 倒れた草のあいだから、新しい芽が顔を出しています。

 花は、雨粒をまとって輝いていました。

「おかえり」

 白い花が、そっとささやきます。

「ただいま」

 ルリは、以前よりも高く飛びました。

 風の流れが、体のまわりで見えるような気がします。

 上へ、横へ、くるりと回る。

 風をぬうように、進んでいく。

「きれいだなあ」

 キイが見上げます。

 ルリの水色の羽が、光を受けてきらめきます。


 蝶は、長くは生きられません。

 それでも、風とともに過ごした時間は、羽の一枚一枚に刻まれます。

 夕暮れ、ルリは樫の木のてっぺん近くまで飛びました。

 遠くに、かすかな青が見えます。

「ねえ、あれが海かな」

「かもしれん」

 樫の木が低く答えます。

 ルリは、目を細めました。

「いつか、あそこまで飛んでみたい」

「風が、連れていってくれるさ」

 その言葉に、ルリは微笑みました。


 風は、どこからともなくやってきて、どこへともなく去っていきます。


 けれど、蝶は知っています。

 風はただ吹くのではなく、世界と世界を結ぶ糸なのだと。


 ルリは今日も、草原の上を飛びます。

 水色の羽で、風をぬいながら。

 小さな体で、大きな空とつながりながら。


 そして、だれかが空を見上げたとき、その胸にそっと、やわらかな風を残していくのです。

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