表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/90

うたた寝の国境

 午後三時の光は、世界を少しだけ甘やかす。


 窓から差し込む陽は、机の上の書類を柔らかく照らし、角を丸くする。コーヒーはぬるくなり、壁の時計は規則正しく刻み続けている。私はパソコンの画面を見つめながら、文字の列がゆっくりと波打つのを感じていた。

 うたた寝は、いつも油断した隙をついてやってくる。

 徹夜明けでもなく、特別に疲れているわけでもない。むしろ、何事もなく進んでいる午後にこそ、そいつは忍び寄る。瞼の裏がじんわりと重くなり、椅子の背もたれがやけに心地よくなる。

 私は在宅で翻訳の仕事をしている。締切は明日の正午。まだ時間はある、と頭ではわかっている。その「まだ」が、危うい。

 画面の英文は、戦時中の手紙だった。遠い国の兵士が、故郷の妻に宛てて書いたもの。インクの滲みまで想像できるほど、情感に満ちている。


『君の眠る横顔を思い出す。』


 その一文を訳しかけたとき、私はふと、自分の眠る顔を見たことがないことに気づいた。

 当たり前のことだ。眠っているとき、人は自分を知らない。

 そこで、世界がわずかに傾いた。

 カタ、とキーボードに額が触れる音がして、私は暗い水の中へ沈んだ。


 最初に聞こえたのは、遠くの踏切の音だった。

 私は高校生の姿で、通学路に立っている。冬の終わり、制服の襟元から冷たい風が入り込む。手には古びた英単語帳。まだ、将来を具体的に思い描いていなかった頃の私だ。

 踏切の向こうに、ひとりの女の子が立っている。名前を思い出そうとするが、霧がかかったように曖昧だ。ただ、よく一緒に図書室へ行った記憶がある。

「遅刻するよ」

 彼女は笑っている。

 遮断機が上がり、私たちは歩き出す。だが一歩踏み出した瞬間、景色が溶けた。


 次に立っていたのは、大学の講義室だった。私は後方の席で、ノートに何かを書きつけている。周囲はざわめき、教授の声は遠い。


『君の眠る横顔を思い出す。』


 黒板に、そんな文字が浮かび上がる。誰も気づかない。

 私は振り返る。最後列の窓際に、見知らぬ男が座っている。スーツ姿で、私をじっと見ている。

「誰?」

 問いかけると、男は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「あなたですよ」

 男は穏やかに言う。

「眠っているあなたです」

 講義室の床が、波のように揺れる。椅子が音もなく溶け、天井が低くなる。

「うたた寝は国境です」

 男は続ける。

「こちら側と、あちら側の」

「どこが、あちら側なの?」

「あなたが選ばなかった時間です」

 私は目を見開く。

 選ばなかった時間。

 もしあのとき告白していたら。もしあの会社に就職していたら。もし母の電話に、もう少し早く気づいていたら。

 景色が次々に切り替わる。

 小さな出版社で忙しく働く私。海外で暮らしている私。結婚式で笑っている私。どれも、今とは違う。

「全部、夢だ」

 そう言うと、男は首を振る。

「違います。可能性です。うたた寝のあいだだけ、入国できる」

「帰れるの?」

「あなたが望めば」

 私は混乱していた。心臓の鼓動が、やけに現実的だ。

 ふと、ひとつの場面が目に留まる。


 薄暗い病室。ベッドに横たわる母。私は椅子に座り、うつむいている。スマートフォンが震えているが、気づかない。


 そのときの私は、仕事に追われ、帰省を先延ばしにしていた。結果的に間に合ったが、もし遅れていたらどうなっていただろう。

 私はその光景に近づく。

「これは」

「あなたが、ほんの少し遅れた世界です」

 ベッドの上の母の呼吸は浅い。部屋の空気は重く、窓の外は雨だ。

 私は思わず叫ぶ。

「やめて」

 男は静かに私を見る。

「うたた寝は優しい。けれど残酷です」

 場面が崩れ、再び暗転する。


 次に目を開けると、私は見知らぬ部屋で眠っている。机には翻訳原稿。壁の時計は午後三時七分を指している。

 椅子の上で、私は微動だにしない。

 その様子を、さきほどの男が眺めている。

「あなたは、いつも少しだけ眠る」

 男は独り言のように言う。

「そして、戻る」

 私は気づく。今見ているこれは、私が眠っているあいだの私だ。

 では、ここにいる私は何なのか。

「目を覚ましますか」

 男が問う。

 私は考える。

 選ばなかった時間は、甘美だ。後悔をやり直せる気がする。失ったものを取り戻せるような錯覚がある。

 だがそれは、うたた寝の国でしか通用しない。

「帰る」

 私は言った。

「まだ締切があるから」

 男は初めて、はっきりと笑った。

「それが、あなたの現在です」

 音が遠のき、光が強くなる。


 カタ、という音とともに、私は目を覚ました。

 パソコンの画面には、途中まで訳した文章が残っている。コーヒーは冷えきっている。時計は午後三時九分。

 ほんの二分。

 だが、確かに私はどこかへ行っていた。

 私は深く息を吐き、背筋を伸ばす。

『君の眠る横顔を思い出す。』

 その一文を、私はこう訳した。

『あなたがうたた寝をする、その無防備なひとときを、私は何より愛している。』

 打ち終えた瞬間、胸の奥が静かに温まった。


 うたた寝は国境だ。


 選ばなかった時間を垣間見せ、後悔を揺さぶり、けれど最終的には、現在へ送り返す。

 私は窓を開ける。午後の光はまだやわらかい。遠くで子どもの笑い声がする。

 椅子に座り直し、キーボードに指を置く。

 眠りは、また来るだろう。

 だがそのたびに、私は戻る。


 この机へ、この時間へ。


 うたた寝の国境を越えて、何度でも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ