うたた寝の国境
午後三時の光は、世界を少しだけ甘やかす。
窓から差し込む陽は、机の上の書類を柔らかく照らし、角を丸くする。コーヒーはぬるくなり、壁の時計は規則正しく刻み続けている。私はパソコンの画面を見つめながら、文字の列がゆっくりと波打つのを感じていた。
うたた寝は、いつも油断した隙をついてやってくる。
徹夜明けでもなく、特別に疲れているわけでもない。むしろ、何事もなく進んでいる午後にこそ、そいつは忍び寄る。瞼の裏がじんわりと重くなり、椅子の背もたれがやけに心地よくなる。
私は在宅で翻訳の仕事をしている。締切は明日の正午。まだ時間はある、と頭ではわかっている。その「まだ」が、危うい。
画面の英文は、戦時中の手紙だった。遠い国の兵士が、故郷の妻に宛てて書いたもの。インクの滲みまで想像できるほど、情感に満ちている。
『君の眠る横顔を思い出す。』
その一文を訳しかけたとき、私はふと、自分の眠る顔を見たことがないことに気づいた。
当たり前のことだ。眠っているとき、人は自分を知らない。
そこで、世界がわずかに傾いた。
カタ、とキーボードに額が触れる音がして、私は暗い水の中へ沈んだ。
最初に聞こえたのは、遠くの踏切の音だった。
私は高校生の姿で、通学路に立っている。冬の終わり、制服の襟元から冷たい風が入り込む。手には古びた英単語帳。まだ、将来を具体的に思い描いていなかった頃の私だ。
踏切の向こうに、ひとりの女の子が立っている。名前を思い出そうとするが、霧がかかったように曖昧だ。ただ、よく一緒に図書室へ行った記憶がある。
「遅刻するよ」
彼女は笑っている。
遮断機が上がり、私たちは歩き出す。だが一歩踏み出した瞬間、景色が溶けた。
次に立っていたのは、大学の講義室だった。私は後方の席で、ノートに何かを書きつけている。周囲はざわめき、教授の声は遠い。
『君の眠る横顔を思い出す。』
黒板に、そんな文字が浮かび上がる。誰も気づかない。
私は振り返る。最後列の窓際に、見知らぬ男が座っている。スーツ姿で、私をじっと見ている。
「誰?」
問いかけると、男は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「あなたですよ」
男は穏やかに言う。
「眠っているあなたです」
講義室の床が、波のように揺れる。椅子が音もなく溶け、天井が低くなる。
「うたた寝は国境です」
男は続ける。
「こちら側と、あちら側の」
「どこが、あちら側なの?」
「あなたが選ばなかった時間です」
私は目を見開く。
選ばなかった時間。
もしあのとき告白していたら。もしあの会社に就職していたら。もし母の電話に、もう少し早く気づいていたら。
景色が次々に切り替わる。
小さな出版社で忙しく働く私。海外で暮らしている私。結婚式で笑っている私。どれも、今とは違う。
「全部、夢だ」
そう言うと、男は首を振る。
「違います。可能性です。うたた寝のあいだだけ、入国できる」
「帰れるの?」
「あなたが望めば」
私は混乱していた。心臓の鼓動が、やけに現実的だ。
ふと、ひとつの場面が目に留まる。
薄暗い病室。ベッドに横たわる母。私は椅子に座り、うつむいている。スマートフォンが震えているが、気づかない。
そのときの私は、仕事に追われ、帰省を先延ばしにしていた。結果的に間に合ったが、もし遅れていたらどうなっていただろう。
私はその光景に近づく。
「これは」
「あなたが、ほんの少し遅れた世界です」
ベッドの上の母の呼吸は浅い。部屋の空気は重く、窓の外は雨だ。
私は思わず叫ぶ。
「やめて」
男は静かに私を見る。
「うたた寝は優しい。けれど残酷です」
場面が崩れ、再び暗転する。
次に目を開けると、私は見知らぬ部屋で眠っている。机には翻訳原稿。壁の時計は午後三時七分を指している。
椅子の上で、私は微動だにしない。
その様子を、さきほどの男が眺めている。
「あなたは、いつも少しだけ眠る」
男は独り言のように言う。
「そして、戻る」
私は気づく。今見ているこれは、私が眠っているあいだの私だ。
では、ここにいる私は何なのか。
「目を覚ましますか」
男が問う。
私は考える。
選ばなかった時間は、甘美だ。後悔をやり直せる気がする。失ったものを取り戻せるような錯覚がある。
だがそれは、うたた寝の国でしか通用しない。
「帰る」
私は言った。
「まだ締切があるから」
男は初めて、はっきりと笑った。
「それが、あなたの現在です」
音が遠のき、光が強くなる。
カタ、という音とともに、私は目を覚ました。
パソコンの画面には、途中まで訳した文章が残っている。コーヒーは冷えきっている。時計は午後三時九分。
ほんの二分。
だが、確かに私はどこかへ行っていた。
私は深く息を吐き、背筋を伸ばす。
『君の眠る横顔を思い出す。』
その一文を、私はこう訳した。
『あなたがうたた寝をする、その無防備なひとときを、私は何より愛している。』
打ち終えた瞬間、胸の奥が静かに温まった。
うたた寝は国境だ。
選ばなかった時間を垣間見せ、後悔を揺さぶり、けれど最終的には、現在へ送り返す。
私は窓を開ける。午後の光はまだやわらかい。遠くで子どもの笑い声がする。
椅子に座り直し、キーボードに指を置く。
眠りは、また来るだろう。
だがそのたびに、私は戻る。
この机へ、この時間へ。
うたた寝の国境を越えて、何度でも。




