笑顔
笑顔は、練習すれば上手くなる。
それが、彼女の口癖だった。
春の終わり、校舎裏の古い桜の木の下で、僕は初めてその言葉を聞いた。
昼休みの人影がまばらな場所で、彼女はベンチに座り、鏡代わりのスマートフォンを覗き込みながら、口角を指で押し上げていた。
「ほら、こうすると自然に見える」
そう言って彼女は顔を上げ、僕に向かって微笑んだ。
正直に言えば、その笑顔は少しだけ不自然だった。
作られた形をしていて、目の奥に感情が追いついていない。
それでも、見ているこちらの胸が、わずかに温かくなる程度には、整った笑顔だった。
「……なんで、そんなことしてるんだ?」
僕が尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「だって、笑ってた方が楽でしょ」
彼女――白石凪は、クラスでも有名な「いつも笑っている人」だった。
教師からの評価も高く、友人関係も円満で、誰とでも柔らかく会話をする。
その笑顔が崩れるところを、僕は一度も見たことがない。
だからこそ、その練習風景は、ひどく奇妙に映った。
「楽、かな」
思わず本音が漏れる。
白石は少しだけ目を細めた。
「少なくとも、泣くよりはね」
その言葉の意味を、当時の僕は深く考えなかった。
ただ、風に揺れる桜の葉の音と、彼女の笑顔の輪郭だけが、妙に記憶に残った。
それから僕と白石は、昼休みや放課後に、時々言葉を交わすようになった。
といっても、特別な会話をするわけではない。
テストの出来、教師の愚痴、くだらない噂話。
どれも教室で交わされるものと変わらない。
ただ一つ違うのは、彼女が必ず笑っていたことだ。
失敗談を話すときも、誰かの悪口を避けるときも、どんな場面でも、白石は口角を上げていた。
感情の起伏があるはずの話題ですら、同じトーンの笑顔で包み込む。
「疲れない?」
ある日、僕はそう聞いてみた。
白石は少しだけ間を置き、それからいつも通りの笑顔を浮かべた。
「慣れれば平気だよ」
その答えに、僕は納得できなかったが、踏み込む勇気もなかった。
転機は、文化祭の準備期間だった。
白石は実行委員に選ばれ、連日遅くまで学校に残っていた。
誰よりも率先して動き、誰よりも丁寧に周囲に気を配り、誰よりも笑顔で意見をまとめる。
その姿は、理想的な委員そのものだった。
だが、ある日の放課後、資料室の前で、僕は偶然、彼女の笑顔が消える瞬間を見てしまった。
扉の隙間から見えた白石は、机に手をつき、俯いていた。
肩が小さく震えている。
笑顔どころか、表情そのものが抜け落ちているように見えた。
僕は、声をかけるべきか迷った。
その一瞬の迷いの間に、白石は深く息を吸い、顔を上げた。
そして、完璧な笑顔を作り、何事もなかったかのように扉を開けた。
「あれ、どうしたの?」
その声は、いつもの白石だった。
「……いや」
僕は何も言えなかった。
その日から、彼女の笑顔が、少し怖くなった。
文化祭当日。
校内は熱気と騒音に包まれ、どこを見ても人の波が押し寄せていた。
白石は実行委員の腕章をつけ、忙しなく走り回っていた。
僕はクラスの出し物の当番を終え、校舎裏に出た。
桜の木はすでに葉を落とし、枝だけが空に伸びている。
そこに、白石はいた。
一人でベンチに座り、顔を覆っている。
肩は震え、嗚咽を堪えるような呼吸が、かすかに聞こえた。
今度は、迷わなかった。
「白石」
声をかけると、彼女は驚いたように顔を上げた。
泣き腫らした目と、崩れた表情。
そこには、いつもの笑顔はなかった。
「……見ないで」
白石はそう言ったが、声に力はなかった。
僕は、彼女の前に立った。
「笑わなくていい」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「今日は、笑わなくていい日だと思う」
白石は、しばらく僕を見つめていた。やがて、ぽつりと呟く。
「笑ってないと……嫌われるでしょ」
「そんなことない」
「あるよ」
白石は唇を噛みしめた。
「小さい頃から、そうだった。笑ってると、怒られない。笑ってると、場が丸くなる。笑ってると……自分の気持ち、いらなくなる」
その言葉は、静かだったが、重かった。
「でもさ」
僕は言葉を選びながら続けた。
「笑顔って、気持ちがあってこそのものだと思う」
白石は目を伏せた。
「気持ちがないと、ダメ?」
「ダメじゃない。でも……苦しいなら、休んでいい」
しばらく沈黙が流れた。遠くから、文化祭の音楽と歓声が聞こえてくる。
やがて、白石は小さく息を吐いた。
「ねえ」
「うん」
「笑顔って、戻ってくると思う?」
その問いに、即答はできなかった。
それでも、僕は答えた。
「戻ってこなくてもいいと思う」
白石は、きょとんとした顔をした。
「無理に戻さなくても、別の形になるかもしれない」
彼女は、しばらく考え込むように黙り込み、それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは、練習した笑顔とは違う、不格好な表情だった。涙の跡が残り、左右も揃っていない。
でも、確かにそこには、白石自身の気持ちがあった。
「……笑顔、下手だね」
「うん」
僕は頷いた。
「でも、それでいい」
白石は、もう一度その表情を作ろうとして、失敗して、そして小さく笑った。
文化祭が終わる頃、彼女は再び皆の前に立っていた。
以前ほど完璧ではないが、それでも柔らかな表情で、仕事をこなしていた。
あの日以来、白石は時々、笑わない顔を見せるようになった。
疲れた顔、困った顔、不安そうな顔。
そのどれもが、以前よりずっと人間らしく見えた。
桜の木の下で、彼女はもう練習をしない。
笑顔は、作るものじゃない。そう気づくまでに、彼女は長い時間をかけた。
そして僕は、彼女が無理に笑わなくても、隣にいられることを知った。
笑顔は、誰かに見せるためだけのものじゃない。
心が息をつけたとき、自然と、そこに生まれるものなのだ。




