傘の音がきこえる
六月の雨は、静かに町を濡らしていた。
しとしと、ころころ、屋根を叩く音が柔らかく響く午後。
商店街の一角に、小さな古道具屋がある。
店の看板には、すこし色あせた金文字で「雨音堂」と書かれていた。
その店には、不思議な噂があった。
古い傘が、持ち主の声を覚えている、と。
傘に宿った記憶は、雨の日にだけ聞こえるらしい。
誰かの笑い声や、泣き声や、祈りのようなつぶやきが、ぱらぱらと雨音に混ざって届くのだという。
そんな噂を、半分冗談のような気持ちで聞きながら、
ひとりの青年が店の戸をひらいた。
名前は優斗。
就職したばかりの一年目。
慣れない毎日に追われ、気がつくと笑う余裕もなくなっていた。
「いらっしゃい」
奥から現れた店主は、白い髭をたくわえた細身の老人だった。
静かでやわらかな目をしている。
「傘を、探しておいでかな」
「ええ、まあ……急に壊れてしまって」
優斗は折れた持ち手を差し出した。
店主はそれを手に取り、悲しそうに目を細めた。
「ずいぶん大切に使っておられたようだね」
「学生のころ、母に買ってもらったものなんです。社会人になるとき、『これで毎日、元気に歩けるように』って」
言いながら胸の奥がきゅっと締め付けられた。
この半年、母にはまともに連絡していなかった。
話す元気すら、どこかになくしてしまっていたから。
「では、よい傘を一つご案内しましょう」
店主は棚の奥から、一本の傘を取り出した。
深い青色で、持ち手には銀色の小さな細工が施されている。
どこか気品があり、静かに温かさを宿しているように見えた。
「その傘は少し特別だ。雨が降ると、思い出の声が聞こえる」
優斗は苦笑した。
「噂、本当なんですか? ちょっと、こわいですね」
「怖いことは何もないよ。ただ、忘れてしまった声を思い出させてくれるだけ」
そう言う店主の声は、雨の音のように静かだった。
優斗は傘を開いた。
傘布の裏側には、小さな銀色の糸で文字が縫い込まれている。
『ひとりじゃないよ』
その瞬間、雨の音の奥に、やさしい声がまざった。
『気をつけて行ってきてね』
『何かあったら、すぐ電話して』
『ちゃんと食べてる?』
『……応援してるよ』
それは、紛れもなく母の声だった。
胸の奥から、熱いものがこみあげた。
視界が滲み、雨か涙かわからなくなった。
「本当に聞こえるなんて、思わなかった……」
優斗は、こぼれた声を指で拭った。
「思い出せたなら、それで十分だ」
店主はそっと言った。
「声というのは、不思議なものだ。もう聞こえなくなると思っても、心が閉じなければ、ちゃんと届く」
優斗は深く息を吸った。
雨のにおいが新しく肺にしみこんだ。
「帰ったら電話します。久しぶりに、ちゃんと」
「ええ、きっと喜ばれますよ」
店を出ると、雨はまだやわらかく降り続いていた。
傘に落ちる雫が、ぽろん、ぽつんと音を奏でる。
傘越しに聞こえる母の声は、遠くなっていた。
けれど、もう一度だけ、確かに響いた。
『がんばれ』
優斗は傘を少し傾けて空を見上げた。
雨の向こう、雲の隙間から光が差していた。
(ありがとう)
その言葉は、もう口に出せる。
傘を握る手は、まっすぐ前を向いていた。




