星降る喫茶店
その喫茶店を見つけたのは、終電を逃した夜だった。
会社の同僚との飲み会が長引いて、駅に着いたときには、電車の灯はもう遠ざかっていた。
仕方なく歩きながら、スマホの地図を眺める。けれど、電池の残りはわずか。
「まぁ、どこかで時間を潰せばいいか」
そんな軽い気持ちで見つけたのが、路地の奥にぽつんと灯る喫茶店の看板だった。
〈喫茶 星屑〉
古びた木の扉を開けると、鈴の音が小さく鳴った。
中は思いのほか明るく、奥の壁一面には夜空のような照明が広がっていた。
星のような光がゆらめく店内には、ジャズが静かに流れている。
カウンターの向こうに立つのは、銀髪のマスターだった。
「いらっしゃいませ。夜更けにようこそ」
柔らかな声に迎えられ、思わず足を止める。
「すみません、もう閉店ですか?」
「いえ、ここは夜が終わるまで開いていますよ」
その言葉に少し救われて、カウンター席に座った。
メニューは一枚の黒い紙に、白いインクでこう書かれていた。
星のミルクティー/月のケーキ/流星のソーダ
少し不思議で、少し笑ってしまうような名前ばかり。
なんとなく惹かれて、「星のミルクティーをお願いします」と言うと、マスターは「良い選択ですね」と微笑んで、ゆっくりとポットにお湯を注いだ。
店内は他に客の姿がなく、静けさの中にティースプーンの音だけが響く。
やがて、淡い金色の湯気が立ちのぼるカップが差し出された。
「少し熱いですが、冷めると香りが変わります」
一口飲むと、驚くほどやさしい味がした。
ほんの少し甘くて、でも少し胸が痛くなるような、不思議な香り。
「……これ、どこかで飲んだことがある気がします」
「きっと“思い出の味”ですよ」
「思い出、ですか?」
マスターは微笑んだまま、カウンター越しに言った。
「このお店に来られる方は、皆さんどこかで大切な何かを思い出して帰られます。星の光のように、いつかの夜を照らすものを」
その言葉の意味を考える前に、ドアの鈴がまた鳴った。
振り向くと、学生くらいの女の子が立っていた。
白いワンピースに、黒いコート。どこか懐かしい雰囲気をまとっている。
「こんばんは、マスター。いつものありますか?」
「もちろん。今日は星のショートケーキにしましたよ」
彼女は隣の席に座り、笑顔でケーキを受け取った。
ふと、こちらを見て小さく会釈する。 その笑顔が、どこか胸の奥をくすぐった。
「このお店、初めてですか?」
「ええ。偶然見つけたんです」
「偶然にしては、いい時間に来ましたね」
彼女はフォークを手に取りながら、まるで星を数えるような口調で言った。
「ここって、忘れものを思い出す場所なんですよ」
「……忘れもの?」
「うん。心の奥の、置いてきた気持ち。たとえば……」
彼女は少し考えて、笑った。
「たとえば、“あのときちゃんとありがとうって言えばよかった”とか」
その言葉に、胸がざわついた。
なぜだろう。
そう言われた瞬間、頭の奥にひとりの顔が浮かんだ。
大学の頃、ずっと支えてくれた友人。
悩んでいたとき、笑わせてくれた人。
でも、卒業の日にきちんと「ありがとう」が言えなかったまま、もう連絡も取っていない。
星のミルクティーの甘さが、少しだけしょっぱくなった。
「思い出しましたね」
マスターの声が、穏やかに響く。
「その人のことを」
「……どうして分かるんですか?」
「星は全部、誰かの記憶です。あなたのカップの中にも、ひとつ灯っている」
マスターは棚の上から小さな瓶を取り出した。
瓶の中には、淡く光る砂のようなものが入っている。
「これを少し、どうぞ。星の砂です」
スプーンで一粒、ミルクティーに落とすと、カップの中で小さな光がふわりと弾けた。
その光が、涙のように滲んだ。
気づけば、頬を伝うものがあった。
「……もう、会えない人なんです」
「それでも構いません。言葉は届きます。夜が明ける前に、心の中で伝えてみてください」
女の子が、静かにうなずいた。
「そうやって帰った人たちの光が、またこの店の夜空になるんです」
見上げると、壁の星々がほんの少し増えていた。
まるで、新しい光がひとつ加わったように。
その夜、外に出ると雪が降っていた。
いつの間にか、終電の時間はとっくに過ぎている。
けれど、不思議と寒くはなかった。
ふと振り返ると、さっきの喫茶店の明かりが小さく瞬いていた。
扉の前に、銀髪のマスターが立っていた気がした。
でも、次の瞬間にはもう、そこには何もなかった。
歩きながら、心の中で呟いた。
ありがとう。
白い息が夜空に溶けて、星に変わる。
その瞬間、どこかで鈴の音が小さく響いた気がした。
そして、誰かの声が重なる。
「夜更けにようこそ。またいつか」




