青空
午前十時、町はずれの丘にある気象観測所は、今日も静かに風を受けていた。
扉を押して入ると、古い床材がぎしりと鳴る。その音に応えるように、窓際で雲を見ていた冬真が振り返った。
「いらっしゃい……今日も来たんだ」
「うん」
翠は靴を脱ぎながら答えた。
「空、今日すっごくきれいだよ。冬真の好きな、抜けるみたいな青」
冬真は照れ隠しのように咳払いをし、観測ノートを閉じた。
この観測所に翠が通うようになったのは、去年の春。学校から少し離れたこの丘が、彼女の秘密の寄り道になってからだった。
「青空ってさ、よく“どこまでも続く”って言うけどさ」
翠は窓辺に腰をかけ、目を細めて言った。
「実際には続いてないよね。空って、地球のほんの薄い膜なんでしょ」
「そうだよ。厚さなんて、せいぜい指何本ぶんかってくらいだ。青だって、空が青いんじゃなくて……」
「光の散乱、でしょ?」
「そう。それを言われると説明することがなくなる」
冬真は苦笑し、手元の双眼鏡を置いた。
翠はそれを見てくすりと笑った。
「でもさ、分かってても、やっぱり青空を見ると好きになるんだよ。理由は、ないけど」
その横顔は、風に揺れる草のように軽くて、触れれば壊れてしまいそうに見えた。
「冬真は? なんで空が好きなの」
「……決まってるだろ。境界がないからだよ」
その言葉は、観測所の空気にゆっくりとしみこんだ。
翠が何か言おうとして口を開いたが、冬真が続けた。
「地面には境界が多すぎる。土地、道、線路、屋根。どこにも線がある。でも空だけは、どこに線を引いても意味がない。人間が決めても、風が消しちまう」
「ふーん」
翠は視線を上げた。
「じゃあ、空って自由の象徴なんだね」
「いや。俺はむしろ逆だと思う」
「逆?」
「空は、自分の形を持ってない。ただ光と風で見えてるだけの、透明な場所だ。だから、自由に“してもらってる”だけなんだよ。雲にも風にも、光にも」
翠はしばらく黙って青を眺めていた。
冬真はその沈黙を責めることもせず、ただ同じ方向に目を向けた。
「……ねえ、冬真」
「ん?」
「私、去年の夏にさ。空が怖くなった時期があったの」
冬真は目を細めた。翠が自分から過去を話すのは珍しい。
少女は足をぶらぶらさせながら続けた。
「母さんが入院して、家と病院を行ったり来たりしてた時。帰り道で空を見上げると、広すぎて、全部なくなっちゃいそうで。私がひとりぼっちになって、上に吸い込まれちゃうみたいで……」
冬真は息を呑んだ。
翠は笑っているように見えたが、その声の端は小さく震えている。
「今は?」
「大丈夫。今は好き。青空を見ると、なんか“今日も大丈夫だよ”って言われてるみたいでさ」
「それは……誰に言われてるんだろうな」
「さあ。でも、空って誰かひとりのものじゃないし。勝手に誰かを思い出してもいいじゃん」
冬真は、窓からそよぐ風を感じながら、そっと言った。
「じゃあ、俺も勝手に思い出していいのかな」
「なにを?」
「今日の空を見るたびに……ここで話したこと」
翠はぱちりとまばたきをし、口元がゆるんだ。
「いいよ。むしろ、忘れないでよ」
「忘れない。多分、空がある限り」
観測所の奥で古い気圧計が小さく鳴った。
外では、風が丘をすべる音がする。
青空は変わらず広がり、雲はゆっくりと形を変えていた。
「ねえ、冬真」
「なんだ」
「今日の空……ちょっとだけ、私のために青くなってる気がする」
「そんなことあるか」
「あるよ。だって、私いま、すごく気分いいもん」
冬真は肩をすくめた。
けれど、その表情はどこか誇らしげだった。
「じゃあ、俺の観測の記録にも書いとくよ。『本日、空は機嫌良し』って」
「なにそれ。観測じゃないじゃん」
「いいんだよ。空の機嫌くらい、誰が測ったっていい」
翠は立ち上がり、扉へ向かった。
「午後の授業あるから、そろそろ戻るね。今日の青、ちゃんと見ててよ」
「任せろ」
「また来るから」
翠の背中が光の中に消えていく。
冬真は静かに窓を開けた。青い世界が、一気に観測所の中へ流れ込んでくる。
どこまでも続かず、どこにも境界を持たない青。
けれどその青は、誰かの心に一瞬だけ寄り添うために、今日も広がっている。
冬真はゆっくりとノートを開いた。
「本日、空は機嫌良し」
そう書いた文字が、風に揺れながら静かに光った。




