1話 二人の日常
朝7時に起こしてくれ、そう彼女は言った。だから今の時刻6時59分に寝ていても不思議はない。ただ完全に自分で起きる気がないのはどうだろう。目覚まし時計やアラームを使ってほしい。そんなことを思うときもある。
普段は凛々しい印象の強い女性だけど、寝ている姿は可愛らしい。長身で毅然とした態度からは想像しにくい、ピンク色のパジャマを愛用しているからだろうか。まあ、とにかく起こさないと。
「所長、起きてください」
「う~ん、あと5分……」
「それは絶対に起きない人間の言うセリフです」
元より一度で起きるとは思っていない。声を掛けながら身体を揺さぶる。何度か繰り返し、やっと目覚めてくれた。
「おはようございます、所長」
「……ああ、おはよう。ところで賢悟、今は営業時間外だ。所長はやめてほしい」
「失礼しました、知紗兎さん。頼まれた物、ありますよ」
「ほう。さっそく見せてくれ」
俺は知紗兎さんに紙の束を渡した。枚数は多くない。せいぜい数枚ほど。彼女は素早く視線を走らせる。感心したように頷いていた。
起きたばかりだけど、ちゃんと頭は回っているのだろう。
「天目知紗兎、26歳。都内の女子高を卒業。修業期間を経て探し屋を開業。数年で幾多もの依頼を解決。依頼者からの評判も高い。うん、こんな感じか」
「だいぶ省略していますけど、要約は間違っていないですよね」
彼女に頼まれたのは所員名簿の作成。今のは冒頭の部分である。従業者名簿とは別に、所内だけで管理するものを作成中だ。続きを読み始めた知紗兎さんは、満足そうに頷く。
「次は君の分だな。安海賢悟、24歳。地方の高校を卒業してから、一年間の浪人で中流大学を合格。三年後に自主退学し、現在は天目探し屋事務所でアルバイト中」
「プライベートな記載はしていませんから」
「それで構わない。メンバーの現住所や電話番号を把握したくてね」
ここは東京都練馬区にある一軒家で、知紗兎さんの住居兼事務所だ。俺は遠くに住んでいたけど、ちょっと前に事務所の近くへ引っ越した。そして転居先の住所を伝えると、せっかくなので名簿を作ることになったのだ。
「メンバーと言っても、俺と知紗兎さんの二人だけでしょう。増やしますか?」
「当面は不要だ。助手は間に合っている」
俺の負担が多いのですけど。主な仕事は書類作成に雑用全般、そして家事。外へ出るときは車の運転。あとは力仕事。中肉中背で体力も普通の俺だけど、さすがに知紗兎さんよりは筋力がある。他にも細々とした作業の担当だ。
「仕方ありませんね。それと依頼の内容をまとめたファイルは、少し時間が掛かりそうです」
「それは手すきの際で問題ない。ところで君の印象が強かった依頼は?」
「消えた宝石、先々月に起きた迷子の子猫、タイムカプセルの捜索でしょうか」
いずれも探している途中で、意外な事実が判明した依頼だった。そのため、よく覚えている。
俺が詳細を思い出していたら、知紗兎さんから冷ややかな視線を向けられた。
「三件とも全て、若くて綺麗な女が依頼人だったな」
「変な誤解をしないでください! 純粋に内容が特別だったからです!」
「ふふふ、冗談だよ」
目が笑っていない気がする。話を変えたい。
「とりあえず、そろそろ起きましょうか」
「……わかったよ。まず風呂に入る」
「すでに沸いていますよ」
依頼者が来る当日の朝、知紗兎さんの入浴は欠かせない習慣となっている。この建物は二階が彼女の住居であり、一階は主に仕事場だ。どちらにも風呂やトイレがある。風呂が二つあるのは、ちょっと珍しいと思う。
知紗兎さんが入浴中に、俺は朝食の準備をする。手の込んだ食事は無理なので、簡単に作れるものが多い。今日は野菜炒めと目玉焼き、それに味噌汁か。
二人で朝食を終えてから、互いに身支度を整える。知紗兎さんは髪の手入れ中。いつも思うけど、彼女の長い髪は綺麗だ。捜索中はチノパンにタータンチェックのジャケットを好み、動きやすいカジュアルな服装を心掛けているらしい。
依頼人が訪れるまで、まだ少し時間があるな。スマホを使い、ネットニュースを見た。ちょっと気になる記事を発見。
「知紗兎さん、例の件で続報があります」
「ああ、あれか。現代版七つの大罪事件だな」
最初は秘密裏に製造していた麻薬工場の内部告発である。その資料には『TD』の文字が書かれていた。次に違法労働を強いる企業。匿名の報告で発覚した。証拠のあった事務室に『CP』の文字。
さらに三件目だな。詐欺集団の大規模摘発。これも内部から連絡があったとか。その報告書には『AEW』と記載されていた。一連の事件で共通点として挙げられたことが、現代版七つの大罪。
TDは麻薬の利用を示す『taking drugs』
CPは貧困の誘発『causing poverty』
AEWは過剰な富の蓄積『Accumulating excessive wealth』
「麻薬製造に、他者に正当な対価を払わない企業、人の財産を奪う詐欺」
「そして新しく四件目が起きたのか。賢悟、内容は?」
「地方で権力を笠に着た横暴な一族がいました。ある協力者の指導に従って訴えた結果、完全な勝訴。その協力者は『CSI』と書かれた紙を残したそうです」
CSIは社会的不正『causing social injustice』
少し前から知紗兎さんは、本件に関心を持っていた。どうやら直感に引っ掛かるらしい。それで新しい情報が出まわったら、すぐ報告するよう頼まれているのだ。そのとき彼女は真剣な様子で、ただの興味本位とは思えなかった。
「ならば、その協力者から話を聞いたのだろう。何か分かったのか?」
「裁判が終わったときには、忽然と姿を消していたとか。当事者の記憶も曖昧で、本当に協力者がいたのかも不明です」
関係者全員が記憶障害を起こしたように、誰も思い出せなかったとか。
「ふむ、ネットの情報だけだと埒が明かない。使うぞ、賢悟」
「……少しだけですよ。これから依頼もあります」
「わかっている。だが私の千里を見通す目なら、詳細を掴めるかもしれない」
知紗兎さんは本気で言っている。彼女は特殊な能力を持つ人間だ。遠くの場所を見たり、未来を予知したりする力。千里眼や天眼通と呼ばれるもの。初めて聞いたときは、まったく信じなかった。しかし一年近く天目探し屋事務所で働き、今では彼女の力を疑っていない。
俺は近くに置いてあるスケッチブックを渡した。それを受け取り、知紗兎さんは両目を閉じる。再び目を開くと、そのまま数十秒ほど動きを止めた。そして一枚の絵を描き始める。木々に囲まれた空間。驚くほど精緻に描かれていた。でも中心は空白のまま。
「森の中でしょうか」
「おそらくは。ただ肝心の中央が見えなかったし、特徴的な風景でもない。今回は失敗だな」
「変わった植物も見当たりませんね」
天眼通といっても万能ではない。手掛かりが少なかったり、強く隠そうと思われたりすると精度が下がるとか。とりあえずスマホで絵の写真を撮っておく。
「こうなったら警察内の情報を調べよう」
「駄目です!」
「……少し見るだけだ」
俺は首を横に振る。
「それでも駄目ですよ。約束したでしょう、連続使用は控えると。あと捜査情報を勝手に見るのは、問題だと思います」
「はあ、わかったよ。君は倫理や常識に囚われ過ぎているな」
ここまで強く止める理由は、倫理観だけの問題ではない。短時間で頻繁に能力を使用すると、身体に負担が掛かるのだ。心配になった俺は、能力の使用にルールを設けるべきだと提案した。おおまかに言えば、私利私欲だけで使わないこと。また倫理に反する使用はしないこと。真剣に説得したからか、無事に了承を得られた。ちょっと不満そうだったけど。
また今日は新規の依頼人が来る予定だ。そっちに備えるためにも、使用を控えてほしい。
「頼みますから、貴女は少し常識を身につけてください」
「君には言われたくない。海外で冒険家を始めた知人に触発され、一浪して入った大学を辞めた男だろ。しかも訓練と称して国内の山に行き、遭難までした」
それから知紗兎さんは皮肉な笑みを浮かべ「常識人の行動とは思えない」と付け加えた。その点は、ちょっと反論しにくい。勢いだけで動いた自覚はある。だけど最後の言葉は聞き逃せない。
「遭難は知紗兎さんも一緒でしょう! 体力が尽きた貴女を、俺が懸命に背負って小屋まで歩いたのですよ」
「だけど正しい道を教えたのは私じゃないか!」
しばし見つめ合う。というか睨み合う。だけど、そこに険悪な雰囲気はない。
「あ! そろそろ依頼人を迎える準備をしないと」
「もう開業時間か。賢悟、お茶の用意を頼む」
「わかりました」
さっそく始めよう。おもてなしの心は大切である。お湯を沸かし、客用の菓子を取り出した。それと玄関や机が汚れていないか、しっかり確認する。
――依頼人が訪問したのは、約束の時間ちょうど。