3 あの日の夢
14歳の時、不意に前世の記憶を思い出した。そして、自分に待ち受ける未来を知ってしまい、絶望をした。
この世界が前世の私が読んだとあるライトノベルの世界であること、私がその物語の悪役であること、その悪役は物語のヒーローである王太子に断罪されることを思い出した。
小説は前編、中編、後編の3部作構成になっていた。私が覚えているのは、主人公の男爵令嬢と王太子が結ばれる恋愛メインの前編と、王太子妃となった主人公が仲間を集めて魔王を倒す旅に出る中編の二つだった。
私は前編の悪役だった。王太子の婚約者で、婚約者と親しくなる男爵令嬢が許せなくて、彼女にいろんな嫌がらせをしていた。その結果、愛する王太子に断罪された。
前世の記憶を得た時、私は既にプラターノ様を愛していた。前世を思い出したからと言って、その想いがする消えることはなかった。
悪女にはなりたくなかった。けれど、私が一切の悪事を働かなかったとしても、でも物語の強制力というものによって、断罪される未来は変えられないという可能性もあった。
そもそも、この世界に物語の強制力が働くかどうかと、プラターノ様と親しくなった女性に私が嫉妬しないかどうかは別の問題だった。
きっと、私が生き延びる条件は嫉妬をしないことなのだろうと考えた。そんなことは無理だと知っていた。
絶望に堕ちそうになっているせいか、前世の記憶を得た後から、私はプラターノ様を怒らせることが増えた。私がどれだけ愛しても、プラターノ様は私を愛してくれないことを思い知らされる日々が始まった。婚約破棄されないことだけが救いだった。
未来に期待することはできないと理解した。
せめて、プラターノ様から断罪される未来だけは避けたかった。愛する人に断罪されるなんて、想像するだけで心が壊れそうだった。
頼れるものは、人ならざるものの力だと思った。この世界には神も天使も悪魔もいると言い伝えられている。小説でも魔物や魔族は出てきた。
人ならざるものに願いを叶えてもらうしかないと思った。
歴史書を読んで、過去に天使召喚に成功した魔方陣を使って、召喚魔法を実行した。けれど、私の前に現れたのは天使ではなかった。
「おや、俺を召喚する条件を揃えたのが幼い少女だったとは……へぇ、なるほど、一つの魂に二人分の人格が混ざり合っているのか」
魔方陣から現れた人に似た形をした存在と目が合った時、呼吸を忘れた。それは天使を召喚できなかった絶望からか、目の前に現れた存在の余りもの美貌に気圧されてしまったからかは分からない。
二十代後半の男性のような出で立ちをしたその存在は、伝承に聞く悪魔の姿と一致する、黒い髪と赤い瞳と赤黒い二本の角を備えていた。
「……あ……悪魔?」
「そうだ。お前が召喚したのだろう。何を不思議がっている?」
己を悪魔と認めたその人に、何故か恐怖心は沸いてこなかった。伝承では常に、悪魔は目の前に現れただけで、心臓が握り潰されるような感覚に陥るほどの恐怖を覚えると言われていた。
けれど、実際に目の前にいる悪魔は、表情も声も穏やかで、佇まいもどの高位貴族よりも優美で、初見の衝撃は和らいでいき、心がゆっくりと落ち着いていった。
「天使を……私は天使を召喚しようとしたんです」
悪魔の視線が私から外れる。その視線の先を追いかけると、私が散らかした書物達があった。
「なるほど。書物で学び、過去に天使を召喚した魔方陣を用いたのか」
「は、はい。でも、あなたが悪魔なら、私は魔方陣を書き間違えているってことですよね?」
「いや、お前がここに書いた魔方陣は、そこに書いてある天使を召喚したという魔方陣と同じだ」
「じゃあ、何で……?」
私が悪役令嬢だから天使を喚べなかったんじゃないかって嫌な可能性が頭に浮かんでくる。
「そもそも人間が魔法で召喚する対象を悪魔か天使かのどちらかに制限することは不可能だ。召喚に応じて現れるのは基本悪魔だ。天使が現れないのが普通のことだと認識した方がいい」
「では、この文献に記載されている天使を召喚したという話は嘘だということですか?」
「さあな。どちらであれ、お前が天使を召喚したいと思った時にとる手段が変わることはない」
天使が出るか、悪魔が出るかは運次第ということだろうか。
魔法にはいくつか種類がある。代表的な魔法は6つあり、多くの人が使える火魔法、水魔法、風魔法、土魔法の4つと、ごく一部の人だけが使える聖魔法と闇魔法の2つだ。先の4つを精霊が、聖魔法を天使が、闇魔法を悪魔が司っている。
小説の中で、悪役令嬢は闇魔法を使っていた。闇魔法を使える人間は聖魔法を使えず、聖魔法を使える人間は闇魔法を使えない。
史実の召喚者は聖魔法を使う人間だったから天使を召喚できて、今ここでは悪役令嬢である私の闇魔法に共鳴して悪魔が召喚されたということではないの?
「それで?お前は天使を喚び出して何をするつもりだったんだ?」
悪魔は変わらず穏やかに話を続ける。一体何恐怖を感じたらいいのか分からないくらいで、伝承は偽りを記していたのではないかと思えるほどだった。
「私が将来、嫉妬に狂ってある令嬢に暴力を奮ったら、天使に私を断罪してほしいとお願いしたかったんです」
「憎い人間がいるのか?」
「いえ、今はまだいません。けど、将来、憎むことになる人がいるんです」
「……事の一部を切り取って話しているといったところか。初めから順に話せ」
悪魔は私の話に呆れているようだった。でも、怒ってはないないみたい。
初めから、となると、私が前世の記憶を思い出したところから話さなくてはいけなくなる。いや、この世界で読んだ小説ってことにしたらいいのかもしれない。でも、ある小説と自分の境遇が重なっているから、いつか自分も同じようになるなんて話したら、現実とフィクションの区別がついていない不安定な人間と思われそうだ。
「話すかどうか悩んでいるのか?荒唐無稽な話かどうかなど気にする必要はない。現に、一つの魂に二人分の人格が混ざり合うという特異な事態がお前に起こっているのだから、それを俺が信じないということはない」
「……待ってください。どうして私に二人分の人格があると分かるんですか?」
「その程度のことは見れば分かる。悪魔ならできる者が多いが、人間には必要ない力だ」
「そうでしょうか?」
そんな力があるなら、私みたいな人間が一人で思い悩まずに済むのに。
「魂の状態を見たとして、人間の生命維持活動には何の影響もないだろう」
「……必要って、生きるか死ぬかの基準でってことですか?」
「そうだ」
その論理でいくなら、悪魔は生きるために他人の魂を見る必要があるってことになる。やっぱり悪魔は恐ろしい生き物ということだろうか。
「基本的悪魔が好むのは愉快な話だ。突飛な話だからなどと気にせずに話してみろ」
目の前にいるのは人ならざるもの。私なんかじゃ太刀打ちできない強者。私の常識とは別の次元で生きている存在。あれやこれやと気にするだけ無駄なのかもしれない。
私は大人しく前世の記憶を得たこと、この世界が前世で読んだ小説と一致することを話した。
「前世なるものの話は興味深いが、小説に関しては然程だな」
ふわふわと中に浮かびながら、私の話を聞き終えた悪魔が感想を口にする。
何もないところで脚を組んで肘をつくよな姿は、まるでそこに本当に椅子があるかのようだった。なんとも優雅で、王侯貴族よりも悪魔の方が高貴な存在なのだろうかなんて思えてくる。
「小説のお前は王太子に殺されると言ったな。そうはならないようにと努力する気はないのか?」
「もちろん、できるかぎりのことはするつもりです。でも、頑張ってもどうにもならない可能性もあります。だから、その時のためにどうにかしておきたいんです」
でも、天使を召喚することができないなら、私には打つ手がない。
断罪されたくないだけならすぐに逃げてしまえばいいのだろうけど、私は少しでも長くプラターノ様と共にいたかった。
「たとえ、この召喚に天使が応じたとして、お前はその望みを叶えることはできない」
「どうしてですか?天使は神様の御使いなのですよね?私が身勝手なお願いをするから叶えてくれないんですか?」
「望みの内容は関係ない。お前も言った通り、天使は神の使いだ。人間の願いを叶えるために存在していない。天使が望みを叶えてくれるなどというのは人間の思い違いだ」
「そんな……じゃあ、どうしたら……」
頼みの綱として縋ろうとしたものが幻だった。悪魔は変わらず淡々としている。当然だ。私の絶望なんて、この人には関係ないのだから。
「お前は天使に断罪を頼むつもりだと言ったな。王太子に断罪されなければ、どうなってもかまわないということか?」
「はい、そうです」
愛する人にされるのでなければきっと耐えられる。どうせ死ぬのなら、ほんの僅かでもいいから心に救いが欲しい。
「ならば、俺がお前の望みを叶えてやろう」
「え……」
「お前が嫉妬に狂い暴力を奮った時、俺がその魂を貰う。そうすれば王太子に断罪されたくないというお前の願いは叶うだろう?」
そう言って微笑む悪魔の美しさに魅了されたかのように、私は悪魔と契約を交わした。