1 悪役令嬢と成る
優しさとはあくまで主観だと思います。
こことは違う世界のとある小説の中に、オランジェ・キトルスという公爵令嬢がいた。見るものを不快にさせるような陰鬱な暗みのある赤い髪と灰色の瞳のややつり上がった目が特徴の悪役令嬢。それが私だった。
小説と同じような悲惨な結末を迎えないようにと頑張ってきたのに。私なりに、ずっと、頑張っていたつもりだった。
だけど私は、今日もまた失態を犯してしまった。王家主催の王宮でのパーティーという大事な会だというのに。
「お前がか弱き者に暴力を奮うような非道な女だったとはな!王太子の婚約者として相応しくない行いしかできないのか?反省をしろ!」
愛する人の怒鳴り声を聞きながら、もう何もかも終わりなのだと悟り、絶望に暮れる。勢いよく私を突き飛ばした婚約者の顔は憎しみで満ちていた。
こんなことばかりだ。本当は優しい婚約者は忌々しい目で私を睨みつけて叱ることばかりだ。私の婚約者は小説の通り、王太子であるプラターノ・ロギエス様だった。婚約者がどれだけ不出来な令嬢であっても優しいプラターノ様は決して私を見捨てたりはしなかった。だからこそ私は、プラターノ様の優しさに応えようとあらゆる努力をしてきた。だけど、いくら頑張っても、いくら尽くしても、私は彼の手を煩わせて不況を買ってしまう。私は、少しだって彼に愛してもらえない。
それなのにどうして彼のために何もしていない男爵令嬢が、私の婚約者から守られるように腰を抱かれて、労るような眼差しを向けられてるの?どうして?何で?
もうダメだ。逃れられない。怒鳴られて、突き飛ばされて、地面に倒れ込んだら、流石に希望なんて抱けない。
プラターノ様に抱かれながら楽しそうな顔で私を見下ろす少女が、少年達が褒めそやしているような純粋無垢な存在なはずがない。そんなことを私が口にしても誰も信じてなどくれない。頑張って生きてきたのに、気づけば私は小説のとおり悪名高い令嬢になっていたのだから。
「何をボーっとしている!今、自分が何をすべきなのかも分からないのか!早く彼女に謝れ!」
プラターノ様に突き飛ばされて地面に打ち付けた身体を動かそうとしても、立ち上がることができない。けれど、衆目のあるこの場で、王太子の婚約者としてこれ以上醜態を晒すわけにはいかない。上手く力の入らない身体をどうにか動かし、プラターノ様と男爵令嬢に向かって土下座をした。
「ペルシア男爵令嬢、暴力を奮ってしまったこと、お詫び申し上げます」
嗚呼、どうして私が謝らなければいけないの?確かに私は彼女の頬を思い切り叩いた。それが暴力に当たり、どのようなことがあっても暴力が等しく悪いものであるのは分かる。けれど、どうして私が悪者にならなければいけないの?
「最近のお前の素行の悪さは社交界でも噂になっている。王太子の婚約者という立場でありながら嘆かわしい。……俺が直々に罰を与えよう。こいつを俺の部屋に連れて行け。公爵令息が一緒に出席していたな。オランジェは今夜公爵邸に帰らないと伝えろ」
「その必要はありません、プラターノ殿下」
パーティーという状況でありながら、談笑する人々の声が消え、静かになっていた会場に穏やかな声が通った。
「……お兄様」
「タンゴール、聞いていたのか。手間が省けた。そういうことだ」
「そういうこととは何でしょう?」
プラターノ様に問いかけながら、私の実兄であるタンゴール・キトルスは地面に突っ付す私の手を取り肩を抱いて立ち上がらせてくれた。小声で「遅くなってごめんね」と私を心配もしてくれた。
「今夜、オランジェは王宮に泊まる」
「承服いたしかねます」
「俺とオランジェは婚約者だ。文句はないはずだ」
「確かに殿下と我が妹は婚約関係にありますが、あくまで婚約者です。お相手が殿下であろうと婚前の貴族令嬢が男の元に泊まるなど言語道断。オランジェは公爵邸に連れて帰らせていただきます」
「王太子の命に背くというのか?」
「聞き入れていただけないのであれば、陛下に直訴いたします」
「……チッ。仕方ない。夜には公爵邸に帰そう。オランジェ、すぐに俺の部屋に来い」
「私も同行させていただきます。お怒りの殿下に大事な妹を預けるというのは兄として心配ですから」
お兄様の言葉で空気が張り詰めたように感じた。お兄様は私に関してのみ非常に心配性で、私に関することだけはたとえその言動が無礼であることも承知の上で、王太子殿下であるプラターノ様を相手にしても引き下がらないことが多い。プラターノ様もお兄様の性質を理解しているのか、お兄様の意見は聞き入れられる。……違うわね。お兄様は優秀だから意見を聞く価値があるけれど、私は拙劣だから話を聞く価値がないんだわ。
「つまりお前は王太子が信用ならないと言いたいんだな?」
「妹のこととなると過分に心配してしまうのが兄というもの。どうかこの心を殿下にもご理解いただけると幸いです」
プラターノ様とお兄様がお互い譲れず見つめ合われる。パーティーの参加者は皆固唾を飲んで結末を見届けようとしている。
日が落ちてしまうのではないかと思えるくらいに長く感じた見つめ合いの後、プラターノ様が私に視線を向けた。愛する人と目が合ったというのに、思わずビクッと身体が怖がった。
「お前はどうする?」
「わっ、私ですか?」
この後どうするかを私に決めろと言うことなの?プラターノ様が私に意見を求めていらっしゃるの?珍しいことが起きて、驚き戸惑う。私はどう答えるべきなの?
困り果てる私の頬にそっと手を添えられ、私はゆっくりとお兄様と目を合わせられた。
「オランジェ。どうかお前を心配する兄の気持ちを分かっておくれ」
「お兄様……」
息もかかるほど近い距離で私を見つめるお兄様の瞳に背筋が凍るような感覚を覚えた。お兄様は度々私のことを心配しすぎて、闇に落ちたかのような怖い目をされる。だからと言って何かが起こるわけではないのだろうけど、その度に決して逆らってはいけないと警鐘がなっている気分になる。
「プラターノ様、お兄様の同行をお許しください」
「私の可愛いオランジェ、分かってくれて嬉しいよ」
私の返答を聞いて、お兄様が喜色に満ちた声で私を抱きしめる。きっとこれでよかったのだ。
「そうか」
そう思っていたのに、底冷えするようなプラターノ様のお声が聞こえて、心臓が潰れてしまいそうな感覚に襲われる。嗚呼、私はまた間違えてしまった。間違えて、プラターノ様をご不快にさせてしまった。
「今日はもう帰ってよい。明日、改めて俺が公爵邸にオランジェを迎えに行く。タンゴールの同行は許可しない。分かったな?」
「殿下!」
「う、承りました、プラターノ様」
「オランジェ!」
結局、お兄様と私は一足先にパーティーを退席することになった。
私はまた、プラターノ様の婚約者として正しい行いをすることができなかった。反省をしなければいけないと言うのに、帰り際にあの男爵令嬢がプラターノ様に抱きつく姿が視界に入って、腸が煮えくり返った。
どうして、婚約者である私が許されない行為をあの女がしているの?あの女が私のプラターノ様を誑かしているのよ。憎いと思うのは当然のことじゃない。憎んで何が悪いと言うの?このようなことを思うのは、私が悪役令嬢だからと言うの?
帰りの馬車でお兄様がずっと私を心配してくださる。悪役令嬢のオランジェを兄のタンゴールが心配するのは、小説でも同じだった。
もう、何もかも終わる。これ以上何を考えても仕方ない。結局私は、プラターノ様に愛される資格のない、不出来な悪役令嬢にしかなれなかったのね。