後編 和室と写真
聡に大量のメッセージや写真を送ってきていた”こはるさん”は、会社で横領をしていたようでした。
「早よ警察に突き出し、その女。そんなん続けてたら、本人のためにもならへんで。」
「はわわわ。」
「この時点でパニックになってどうすんねん。いいから、すぐ上司に電話せえ。」
僕は、震える手でスマホを持ち、上司に連絡した。上司の連絡先を出すまでも、なかなか手が震えてタップできず、かよちゃんが横から何度か助けてくれた。
「しっかりしいや。」
そう言いながら手伝ってくれるかよちゃんの横顔が、また彼女になっていたので、余計に集中できなかったのではあるが。
数日後、僕は経過の報告のために、かよちゃんの家を訪れた。
「ありがとうございました。無事、社内の調査も入りまして、会社の方から警察にも相談しているようです。」
「よかったな。もう安心やろ。でも、大変やったな。」
かよちゃんは、いつもの和室でお茶を出し、僕の話を聞いてくれた。
”こはるさん”は、やはり経理部の人で、彼女のスマホには、僕の盗撮写真がいっぱいだった。かよちゃんの推測どおり、僕の机を囲むパーテーションに、カモフラージュされた小型カメラがしかけてあった。もう一つのペン型の隠しカメラと合わせて、度々僕の写真を撮っていたそうだ。
彼女の横領は少額ずつではあったが、トータルで車が買えるくらいの額にはなっていたと聞いた。当然、彼女は解雇になった。
さすがにスマホを買い換え、『あいち』のIDも変えた僕は、かよちゃんと新たに連絡先を交換していた。
「いやー。僕、横領の犯人なんて初めて見ましたよ。」
「普通はそんなに見いへんねん。」
「データは提出したんですけど、メッセージは記念に取っておけばよかったかなって。」
「なんでやねん。」
僕は、一口ごくりとお茶を飲んで、言った。
「しかし、どうして僕に、横領のことまで色々言ってきたんですかねえ。」
「あんたが無防備に返信とかするから、勘違いしたんやろ。」
かよちゃんは、大きなため息をひとつついた。そして、僕の方をじろりと見た。
「あんたなあ、自分がアホほど男前だっていうこと、もっと自覚したほうがええで。」
「えー、やだなあ。変なこと言うの止めてくださいよ、かよちゃん……。」
えへへへ、と笑ってかよちゃんの方を見ると、彼女の顔になっていた。じとっとした目が、迂闊な僕を叱ってくれているように思えた。
「いや、はい。気をつけます。」
そう言うと、かよちゃんは満足したようだった。にっこりと微笑んだ顔は、いつものかよちゃんに戻っていたが、この顔はこの顔で綺麗だなと思った。
──去年、最愛の夫を亡くした。
夫の部屋に仏壇を置き、その前で泣き暮らしていたら、いつの間にか仏壇が消えていた。驚いて部屋の中を見渡すと、窓の外に違和感があった。
なんじゃこりゃ。
見慣れた我が家の庭はなく、何だか小洒落た庭に変わっている。芝生の上に置かれた白いテーブルと椅子が、何となく、セレブ気取りの女のようで腹立たしい。
外に出てみると、家が洋館になっていた。
いや、違う。私が夫の部屋ごと、この洋館の中にやってきてしまったらしい。
通りがかりの女性が、庭で呆然としている私に気づき、にこやかに挨拶をした。
「こんにちは、山本さん。」
誰だ、山本って。
適当に話を合わせていると、どうも私は、この間引っ越してきた山本という名の人間、ということになっていた。
ならば、あのパターンか、と鏡まで走って行ったが、そこにあるのは、82年間付き合ってきた、見慣れた自分の顔だった。
転生でもなかった。
肩を落とし、途方に暮れているうちに夜になった。すると、玄関のインターホンが鳴った。
「夜分遅くすみません。橋崎です。回覧板なんですけど……。」
聞き覚えのある声がした。慌てて玄関まで走って行き、扉を勢いよく開けると、
「こ、こんばんは。」
情けなさそうな愛想笑いを浮かべた、若い頃の夫がいた。
私の夢なのか、パラレルワールドなのか、アホ可愛い夫を支え続けた神様からのご褒美なのか、それは分からない。
この時代の私は、まだ彼に出会っていない。
あと2年したら、私たちは職場で出会うのだ。
それまでは、私はこのまま彼と日々を過ごせるのだろうか。
若い私が現れた後はどうなるのだろう。この和室は我が家に戻り、元の寂しい生活が続くのだろうか。
子供を持たなかった私達には、お互いしかいなかった。願わくば、若い私と入れ替わったら、そのまま消えてしまいたい。
今日も若き日の夫は、回覧板を持ってきたところを私に捕まり、お茶を飲んでいる。
聞こえないように言っているらしいが、「うまー」という声が丸聞こえだ。
(何十年も一緒にいたからね。聡くんの好みは、よう知ってるのよ。)
聡は小顔で整った顔立ちを持ち、すらりと背が高い。外見だけなら、モデルや俳優と並んでも遜色ないだろう。素直で人当たりの良い性格もあり、彼に引きつけられてしまう女性は多い。
しかし、聡本人は、それに気づいていない。感性が個性的な彼は、女性たちの望むような行動はとれず、とんちんかんな対応をしてしまう。勝手に自分を好きになり、勝手に自分の言動に怒る女性たちに、聡はいつも戸惑い、怯えていた。
(私もこんなんやから、第一印象は怖かったと思うんやけど。)
私に対しては、聡は積極的にアプローチをしてくれた。変わった人だなと思いつつ、彼の可愛らしさに私も惹かれてしまったのだ。
にこにことお茶を飲む彼は、今も可愛く、愛しい。亡くなる前の日も、……ちゃん、お茶飲みたい、と言っていた。
──置いていかれたときは、寂しかったな。
「聡くん。もし、私がここで死ぬときは、あんたが看取ってや。」
何となく、そんなことを口にしてしまった。いくら将来の夫とはいえ、若い男性には重すぎる言葉に、しまった、と思った。
しかし、聡はけろりとして言った。
「まあ、たぶん、僕が発見する確率が高いですよね。」
「おい。発見て……。その時点で私、孤独死しとるやないの。」
「あ、そうか。そうなっちゃうか。」
あ、やっぱりこの人アホだ。
そう思っていると、聡が、真剣な目をして私をじっと見つめた。
「僕、かよちゃんの死ぬ姿は見たくないです。」
珍しく、きりっとした表情をしている。端正な顔立ちが際立ち、女の子が見たら、きゃあきゃあと騒ぎそうな感じだ。
「だから、……何となくですけど、そうなる前に見つけるような気はするんですよね。運命というか。」
「運命?」
どきっとした。聡は、このおばあちゃんの私にも、何かを感じてくれているのだろうか。
「かよちゃんが、パンやモチを詰まらせていたら、僕はその時ちょうど掃除機を持っているような、そんな運命を感じるんです。」
「……。」
「ちゃんと吸い出しますからね。救急車も呼べますよ、僕。」
──こいつ。
久々に謎の疲れを感じ、聡がお茶を飲み切ったところで、声をかけた。
「さ、もう帰り。明日も仕事なんやろ。」
「あー、そうだった。」
「何で、月曜日でその言葉が出るんや。」
頼むから、出会うまでクビになるなよと思い、背を押すと、聡はくるりと振り向いた。
「また、来ていいですか? 回覧板無しでも。」
お茶目当てか、もしくは、和室の居心地がいいんだろう。だって、自分の部屋なのだから。
「……寂しい一人世帯やからな。いつでもおいで。」
「やったー。」
聡は、子供みたいな声を出した。しかしその後、私の顔を見て、ぽかんとした表情で少し止まっていた。
「何や?」
「い、いえ。笑った顔が素敵だなと思って。」
「……急に、やめてや。」
少し顔が赤くなり、どぎまぎする聡を、玄関まで送り出した。玄関で靴を履くと、聡はスマホを取り出した。
「あ、あの。写真、撮っていいですか?」
「はあ? こんなおばあちゃんの写真撮って、どうすんの。」
「いや、ワンチャン……。」
何を考えているのかは分からないが、聡は年寄りの写真を撮って、馬鹿にして喜ぶタイプではない。
「……あんたも写って、1枚くれるなら、ええよ。」
「あ、じゃあ、1,2,3。」
聡はスマホのカメラを内向きに変え、ぐいっと私の肩を抱いた。男性の力だ。聡の香りが鼻をくすぐる。
パシャリ。
「1から始まったら、いつ撮るか分からんやろ……。」
恥ずかしくなって聡の腕から抜け出し、ぶつぶつと文句を言った。しかし、聡は気にしていない様子で、笑顔で撮った写真を確認していた。
「お?」
聡は、写真をなかなか見せてくれず、スマホを遠ざけたり近づけたり、横から覗いたりしていた。
「何してんの。早く送ってや。」
「あ、はい。」
聡は『あいち』で写真を送ってくれた。もらった写真を、自分のスマホで確認する。
「ん?」
不意を突かれて驚いた顔の、おばあちゃんの私が写っている。しかし、その隣の聡の顔は、目の前のものとは違っていた。
──おじいちゃんの顔だ。
一緒に歳を重ねてきた、懐かしい顔。
もう動かないのが信じられなくて、何度も泣きながら確かめた顔。
「……聡くん。ありがとうな。」
写真の中の聡は、満足そうな笑みを浮かべている。私は、上の方を向いた。
(もしかして、あんたがやってんの? これ。)
彼なりに、置いていった私を心配してくれているのだろうか。それとも、若き日の自分が心配で、私に託したのだろうか。
(まあ、私に出会うまでは、面倒見たげるわ。)
出会ってからも、それはもう色々いろいろあったなと、しみじみ思い出す。若い方の聡を見ると、スマホを見てニタニタしていた。
「あんたはこれでええんか?」
「えっ? いや、はい。十分です。これ以上は望みません!」
聡のスマホを覗き込むと、一瞬自分の髪が黒く見えたが、よく見れば白髪のままだった。聡自身は、若い姿で写っていた。
(……今さら、何が起きても驚かん。)
「ほなな。別に来るのは遅くてもええで。0時くらいまでは、動画見て起きとるから。」
「使いこなしてますね……。」
「あ、回覧板。ついでに隣に回しといて。」
「やっぱり……。まあ、いいですよ。お茶いただきましたし。」
こんな他愛無い話も、彼とだから、ただただ楽しい。
「じゃあ。また来ますねー。」
屈託ない笑顔の聡を送り出す。
彼と同じ世界で生きられる。それが今は、何より幸せだった。
後日、聡が、23時50分にインターホンを鳴らしたのは、また別の話。
最後までお読みいただいてありがとうございます! 少しでも、楽しんでいただけたなら幸いです。