前編 回覧板とお茶
回覧板がまだ残っている地方の町で、口の悪い関西弁おばあちゃんと天然系男子が和室で話しているだけのお話です。気楽に楽しんでいただけば幸いです。
「聡、また回覧板お願い。」
「何で、母さん昼に回さないの?」
橋崎聡は、口を尖らせて母親に言った。
自分は仕事から帰ってきたばかりで、もう21時だ。
「実家暮らしが文句言わない。あんた、山本さんと仲いいでしょ。」
「仲良くないよ。お茶くれるだけだよ。それに、こんな遅い時間に行ったら迷惑だろ。」
「あんたなら大丈夫よ。ね、お願い。」
母親は、手を合わせて聡に頼んだ。
「だってえ。山本さん、私だと妙にカタいのよ。何だかやりにくくて。」
「僕の時は、そんなことないけどな。」
「じゃ、よろしくね。帰ってきたらご飯食べていいから。」
断ったら、飯を抜く気だったのか。
聡はしぶしぶ回覧板を持ち、重い足取りながらも、隣の家に向かった。
空腹だし、せっかく帰ってきたところで出かけるのも、ひどく億劫だ。振り返ると、笑顔で母親が手を振っており、妙に腹が立った。
聡の家の隣には、こぢんまりとした洋館があった。
(ポストをつけてくれたらいいのに。)
聡は、鉄でできた瀟洒な門の前に立った。この家には、表札もポストもなく、郵便物などはどうしているのだろうと思う。
聡は一息つくと、門柱についたインターホンを、しっかりと押した。
「誰や。」
ジジジという機械音の向こうに、ぶっきらぼうな関西弁が聞こえた。
「すみません、橋崎です。回覧板を持ってきました。」
「入り。」
聡は、門のロックを外し、中へ入った。石を並べた小道が、玄関まで続いている。
玄関の扉まで来ると、チェーンを外し、内鍵をガチャリと開ける音がした。
「聡くんか。」
山本さんは、僕の祖母が生きていれば同じ年くらいのおばあちゃんだった。最近になって、この洋館に突然引っ越してきた。
「そうでえす。」
「……。」
ふざけてみたが、いまいち受けなかった。なかったことにして、回覧板を差し出す。
「山本さん。これ、回覧板。」
「かよちゃんとお呼び。」
「なんで。」
「かわいいやんか。」
山本さん改めかよちゃんは、ここに来るごとに距離を詰めてくる。それなら、さっきのだって、笑ってくれたって良さそうなものだ。
僕は、かよちゃん、回覧板だよと言い直した。
かよちゃんは、少し怖い顔をして、ぎりぎりと唇を噛みしめながら回覧板を確認していた。どうせこのままハンコを押して、僕に次の家に回させる気だ。
そんなことを考えていると、かよちゃんがふと顔を上げ、僕の顔をじっと見た。
「何やあんた、顔色悪いな。」
母さんはやりにくいと言ったが、かよちゃんは親切な方だと思う。
かよちゃんは、僕の体調の変化によく気がつく。そして、
「お茶淹れたげるから、飲み。」
こうやって、お茶を淹れてくれるのだ。
かよちゃんがいつも過ごしている和室に通され、年代物の座布団に座る。僕はこの和室が好きで、自然とくつろいでしまう。外見は普通の洋館なのに、こんな和室があるなんて不思議な気がする。
かよちゃんは、慣れた手つきで急須に茶葉を入れ、湯を注いだ。時間を計り、2つの湯呑みに等分にお茶を入れる。そのうち一つを僕に差し出してくれた。
「ほれ。」
「いただきます。」
ごくり。
「うまー。」
相変わらず、うまい。ついつい大きな声が出そうになり、慌てて口を押さえた。
湯気の向こうに、かよちゃんの顔が見える。
(あっ……。)
まただ。
僕の前にいるのは、年配の女性、いわゆるおばあちゃんだ。
だけど、その顔が時々別人に見える。
つるりとした肌、黒目がちのぱっちりとした目、ピンク色の唇。かよちゃんと同じくひっつめた髪は、真っ黒でつやつやとしている。
少し気の強そうな感じのするその顔立ちが、僕の目をとらえて離さない。
いやもう、どタイプなのである。
彼女は誰なのだろう。若き日のかよちゃんなんだろうか。似ていなくもない気がするが、若い時の顔って、年取ったら重なって見えるものなのだろうか。
この人が目の前に現れたら、いくら生まれてこの方お付き合いをしたことのない僕でも、当たって砕けに行くだろう。
しかし、それを今するわけにはいかない。実際に、目の前にいるのはかよちゃんだ。いくら、人生の大先輩だとしても、急に孫のような成人男性から迫られたら怖いだろう。
あれ、僕はなぜ、かよちゃんに迫ることを考えていたんだっけ。
頭がこんがらがってきたとき、かよちゃんから声をかけられた。
「何か、しょうもないこと考えてるやろ。」
「いや、いたって真剣でして。」
「真剣にしょうもないこと考えてるやろっていう意味や。」
かよちゃんは、ため息をついた。もう、かよちゃんの顔は、いつもと同じに戻っていた。
「まあでも、顔色が悪いのは本当やで。アメちゃんも食べるか。」
「あ、いただきます。かよちゃんはゆっくり食べないとだめですよ。喉を詰まらせたら大変ですから。」
「そんなんしたことないわ。」
回覧板を持ってきたときに、青ざめたかよちゃんを発見するなんて嫌だ。
「ふぁふぇふぇふぉふぉふぃふぁひぃふぁんふぇふふぇほ。」
「アメを同時に3つ食うな。そして、そのまま喋れると思うな。」
「ふふぃふぁふぇん。」
僕は、アメをバリバリと噛み砕いた。
「いやー、お腹空いてるもんで。3つくらい入れないと食べた気しなくて。」
「早よ喋れ。」
喋るなと言ったり、喋れと言ったり。
年齢のためなのか、関西人だからなのか。
「……アメが、どうしたんや。」
あ、聞きとれてる。
「いやね、最近会社の机の上に、アメとかチョコとか置いてあることがあってですね。」
「ふうん。」
「たまに、付箋もついてて、『お疲れ様です!』とか書いてあるんですよ。」
「ほん。」
「女の人の字なんですけど、僕、その字の人知らなくて。」
かよちゃんは、自分もお茶を飲みながら、僕の話を淡々と聞いている。
「ほんで、あんたそれをどうしてるんや。」
「え、捨ててるに決まってるじゃないですか。」
「……。」
かよちゃんの動きが止まった。
「気持ち悪いですもん。何入ってるか分からないし。知らない人だし。全部、ゴミ箱に直行ですよ。」
そう、疲れているのはこのせいなのだ。
「手作りやなくて、個別包装のやつなんやろ。」
「そうですけど。」
「毒殺される心当たりでもあるんか。」
「いや、ないですけど……。」
今日、残業中にトイレから帰ってきたら、またお菓子が置いてあった。いつもの通り、ざっと集めてそのままゴミ箱に捨てたら、なぜか女子社員3人に絡まれた。
「調子乗らないでよね。」
「あんた、人の心がないの?」
「最低。」
今日の残業の半分は、説教で終わった気がする。残業代を申請するのも心苦しく、泣く泣くそのまま帰ってきた。
「女性に絡まれやすいのは昔からですから、もういいんですけどね。」
僕はため息をついたが、かよちゃんは、それ以上に大きいため息をついた。
「その中に、あんたに気があるやつがおったんやろ。」
「うえ?」
「ずっと差し入れしてたのに、全然気づかない上に目の前で捨てたから、怒ってんやろ。」
「差し入れぇ?」
かよちゃんから意外な答えを聞いて、びっくりした。
「好意やろ、どう考えても。」
「えー。だったら、なんであんな気持ち悪いことするんですか。直接言ってくれたらいいのに。」
「あんたがそう考えるとは、思ってもなかったんやろうな。」
かよちゃんがそう言うと、また、かよちゃんの顔が揺らぎ、彼女の顔が見えた。少し呆れたような目がたまらない。
思わず見とれていたら、かよちゃんに変な顔をされた。
気を取り直してお茶を飲み干すと、かよちゃんがおかわりを入れてくれた。話をしていたら、大分時間が経った気がする。今の時間いつだろう、とスマホを取り出すと、アプリの通知が目に止まった。
「じゃあ、知らない人から僕の写真が送られてくるのも、好意なんですかねえ。」
僕が何となく言うと、かよちゃんが、いきなりお茶を吹いた。ムセか、誤嚥か、大丈夫か。
「いや、それは違うやろ……。」
かよちゃんは、口をぬぐい、テーブルをふきんでちゃっちゃと拭きながら言った。
よかった。お茶は、吹き出しただけだったみたいだ。
「知らん人から写真が勝手に送られてくるのは、色々おかしいやろ。」
「やっぱり、そうですよねえ。」
「スマホに送られてくるんか。」
「はい。えーと、今はアプリっていうのがあってですね。手紙みたいなものとか、写真とか、そのまま送れるんですよ。」
「馬鹿にすな。SNSくらい分かるで。」
確かに、かよちゃんはスマホを使いこなしている。この間は、左手でフリック入力をしているのを見た。
回覧板とか、本当はいらないんじゃないだろうか。
お読みいただいてありがとうございます。次は中編です。全3話なので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。