河川敷の決闘 女子高生ユズカの場合
「マジで来たんだな」
約束通り橋の下の河川敷に姿を見せたユズカを、カツムラの獣じみた笑顔が迎えた。
「頭のおかしい女だぜ」
「お前はケツの穴の小さい男だけどな、カツムラ」
ユズカの言い放った言葉に、カツムラの周囲にいた男たちが一斉に彼女を見る。
まるでアイドルのような可憐な容姿のユズカの口から躊躇いもなくそんな言葉が出てきたことにぎょっとしたようだった。
一瞬顔を強ばらせたカツムラは、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべた。
「せっかく来るならそんなだせえジャージじゃなくて、短いスカート履いてこいよ」
「だせえのはお前だ。そのパーカー、駅前の福田屋でおんなじやつ売ってたぞ」
母親世代というよりも祖母世代が御用達の洋品店の名前を出されて、カツムラの顔が歪む。
「適当なこと言ってんじゃねえ、福田屋なんかにあるわけねえだろ」
「どうでもいいんだ、お前のダサパーカーなんか」
自分から振っておいて容赦なくそう切り捨てると、ユズカは学校指定ジャージの袖を捲る。
「さあやろうぜ、カツムラ。まさかそいつらに手伝ってもらう気じゃねえだろうな」
あたしはどっちでもいいけど、と言ってユズカは挑発的にぺろりと唇を舐めた。
カツムラは鼻で笑う。
「女一人相手にするのに、人の手なんか借りねえよ。こいつらは証人だ」
「証人?」
ユズカはわずかに眉を寄せた。
「何の」
「決まってるだろ。俺が汚ねえ手を使ったとか何とか、後からお前に都合のいいことを言わせねえための証人だよ」
カツムラは顎をしゃくってみせる。仲間の男子生徒がすでにスマホをかざして録画を始めていた。
「女が泣きゃそれだけで信じるやつも大勢いるからな。証拠は押さえとくぜ、こっちはお前の要求通りに付き合ってやってるんだからよ」
「つまんねえ心配すんな」
ユズカは肩をすくめた。
「そんなこと言うくらいなら、最初からこんなところに来るかよ」
自分と同じ蒼神高校に通う幼馴染のリンタロウがいじめに遭っていることをユズカが知ったのは、つい一週間前のことだ。
目立たないところで腹や肩を殴られたり、カバンを後ろに放り投げられたり、クラスメイト達の前で下品な言葉でからかわれたり。それが段々エスカレートしてきているのだという。
いじめの主犯格は、リンタロウと同じクラスのカツムラという大柄の男子生徒だった。
「あたし、頭に来たからさ。そのカツムラってやつに言っちゃったんだよね。だせえことしてんじゃねえって」
放課後の屋上。
柵に両腕を預けて校庭を見下ろしながら、ユズカはため息をつく。
「そしたら、お前には関係ねえとか何とかごちゃごちゃ言うからさあ。めんどくせえやつだなと思って、それなら一週間後にあたしとお前で決闘だって言っちゃった。タイマン張って、あたしが勝ったらもうリンタロウに一切構うなって」
「ははは」
柵にもたれかかって空を仰いだまま話を聞いていたトウマは、遠慮のない笑い声をあげた。
「お前らしいな。その時、リンタロウもいたのか?」
「ううん」
ユズカは首を振る。
「リンタロウはもう美術室に行っちゃったあと。だからあいつは、あたしとカツムラとのことは何にも知らない」
「そうか。そのカツムラってやつもリンタロウの描く絵を見たら、いじめようなんて気にもならねえと思うんだけどな」
「あいつにリンタロウの描く絵の凄さなんて分かんないって。半分ゴリラみたいなやつだもん、両方のだめなところだけ受け継いで、人間の知性もゴリラの純粋さも持ち合わせてないんだから」
「お前は本当に口が回るよな」
トウマは楽しそうに目を細める。
「そのカツムラっての、ゴリラみたいなやつなのか」
「まあ、ガタイはいいよね。中学までは柔道部だったらしいよ。でも、高校の部活にはついていけなくてすぐに辞めちゃったような半端もんだよ」
「ふうん」
「だからさ、トウマ」
ユズカはトウマの横顔に手を合わせて拝んでみせる。
「ボクシングのパンチ、教えてよ。あいつをぶっ飛ばすための」
「一週間でか」
呆れた顔で自分を見るトウマに、ユズカは微笑む。
「知ってるでしょ、あたしの運動神経の良さ」
「やめとけ」
トウマは首を振った。
「なんでよ」
「ボクシングって、階級が細かく分かれてるのは知ってるだろ。柔道も体重別に分かれてるけど、それよりもずっと細かく」
「うん」
「それが何でかっていうとな、パンチの重さは体重にめちゃくちゃ左右されるからなんだよ。一階級の違いなんてたかが1キロかそこらなのに、全然重さが違うんだ」
そう言って、トウマは軽く左腕を突き出した。と見えた時にはもう左腕は胸元に戻っていた。まるでばね仕掛けのようなスピードのジャブ。
「そいつとお前の体重差は何キロある? 10キロ、20キロ、もっとか? それをお前のパンチでぶっ飛ばすのは現実的じゃねえよ、ユズカ」
「むう」
ユズカは頬を膨らませた。
リンタロウとトウマ。
この高校でリンカと同じ中学出身なのは、彼ら二人だけだ。
いつもおどおどしていて、何をするのもとろいけれど、絵画に関しては天才的な才能を持つリンタロウ。
小五から通っているボクシングジムではプロとも互角のスパーリングをし、現役高校生プロボクサーを目指しているトウマ。
そして、誰もが振り返るような容姿に恵まれながら、その口の悪さと突っ走りすぎる性格で、がっかり美少女の異名をほしいままにするユズカ。
三人は、奇しくも小学校からの腐れ縁だ。
だからこそユズカには、リンタロウがカツムラのようなやつにいじめられていることが我慢できない。
「それならあたしが一週間後にカツムラにぼこぼこにされてもいいって言うんだね、トウマは」
ユズカはトウマの横顔を睨んだ。
「あいつ、あたしのことエロい目で見てたから、負けたら何されるか分かんないんだけど。取り巻きみたいな奴らだっているし」
「んなこと言ったって、俺だってケンカなんかしたらプロになれねえし」
そう言いかけて、トウマはふと何かを思いついた顔をした。
「そういやお前、手首のスナップがやたらと強かったよな」
「まあね」
ユズカは中学時代にソフトボール部でならした腕を振り上げる。
この高校のソフトボール部は、部員の減少で去年廃部になってしまっていた。それを知らずに入ってきたのはユズカのリサーチ不足だ。
「肩も柔らかいよな」
「うん。だって女の子だもん」
アイドルのような甘い声で答えるユズカに、トウマは嫌な顔をする。
「やめろ、気持ちわりい」
「なんでよ。この声すごく評判いいんですけど」
不満そうなユズカに構わず、トウマは呟いた。
「じゃあ、あれやってみるか」
ユズカは目を輝かせる。
「なになに、やるよ。教えて」
「そしたら俺がジム行く前に、毎日練習な」
トウマは言った。
「ちゃんと動ける身体にして来いよ」
ユズカとカツムラは向かい合う。
誰も来ない、河川敷の橋の下。
決闘ならこれ以上にぴったりの場所はないだろうと、ユズカの独断で選んだ。
二人を囲む三人の男子生徒は、カツムラの取り巻きだ。
その内の一人が、笑みを浮かべてずっとスマホを構えている。
ユズカが脇を締めて両拳を構えたのを見て、カツムラはにやりと笑った。
「お前、4組のハヤシと仲がいいんだろ。例のボクサー気取りの」
カツムラはトウマの苗字を口にした。
「あいつからボクシング習って、それで俺に勝てる気になってるんだろ」
まさかカツムラがトウマのことを知っているとは思わなかった。ユズカの驚いた顔を見て、カツムラは上機嫌に笑う。
「ばかが。女がちょっとパンチ教わったくらいで、柔道やってた俺に勝てるかよ」
そう言って、腰を落とす。
「ぼこぼこにしてやるよ」
「よし、お前リンタロウと柔道に謝れ」
ユズカの言葉にカツムラが意表を突かれた顔をした。
「あ?」
「リンタロウと柔道に謝れっつってんだ、ばか」
ユズカは言った。
「お前なんかに関係あるような顔されて、柔道だって迷惑してるに決まってんだろ」
「てめえ」
カツムラが顔を歪める。
「もういいや、合図しろ」
カツムラに言われ、取り巻きの一人がスマホを操作した。
かあん、というゴングを模した電子音が響く。
勝負開始。
それと同時に、ユズカは思い切り踏み込んだ。
びびったら負け。勝負は、最初の出会いがしらの一発だ。
トウマに、繰り返しそう言われていた。
踏み込んできたユズカを見て、カツムラは内心ほくそ笑む。
やっぱりそうきたか。
ボクシングを少し習っただけでやれることなんて、たかが知れてる。
どうせ右ストレートか、せいぜいワンツーでも打ってくるか。
突っ込んできたユズカの右肩がぐっと前に押し出されるのを見て、カツムラは確信する。
ほら、右ストレートだ。
素早く両手を自分の顎の前に出してガードする。
まっすぐに伸びてくる拳を捕まれば、後は投げ飛ばすも押さえ込むも思いのままだ。
やっぱ押さえ込みがいいな。
脳裏をよぎる卑猥な妄想に、カツムラの頬は緩んだ。
ユズカの肩が回る。だが、パンチが飛んでこない。
あれ、と思った瞬間だった。
真横から、ユズカの拳がカツムラの顎に突き刺さった。
かつて日本の格闘技界でその名を馳せたウクライナ出身の格闘家がいた。
自分よりも大きな身体を持つ相手を、見慣れない軌道のパンチで次々になぎ倒していく姿に、観客たちは熱狂した。
当時の日本ではウクライナという国は身近ではなかったから、まるでストレートを打つような肩の回し方で打ちこむその強烈なフックは、こう呼ばれた。
ロシアンフック、と。
「いってぇぇ!」
鈍い音とともにそう叫んだのは、殴ったユズカの方だった。
まともにフックを喰らったカツムラの巨体がぐらりと揺れたのを見て、周囲の取り巻きたちは言葉を失う。
「おらあああ!」
怒声を上げて、ユズカが再度拳を振り上げる。
その大声が、失神しかけていたカツムラの意識を呼び戻した。
なんだ、俺は今パンチをもらったのか?
どこから? どんなパンチを?
意識の外から来たパンチに、カツムラは実際の威力以上のダメージを受けていた。
だが般若のような形相で迫るユズカを見て、カツムラの心に湧き起こったのは屈辱から来る怒りだった。
てめえ、殴りやがったな。このアマ。
ぶっ殺してやる。
血走った眼でユズカを見た、その瞬間だった。
「ユズカ、大事なことを教えてやるよ」
最後の練習の後のトウマの言葉を、ユズカは思い出していた。
「明日は、殺す気で行け」
「分かってるよ」
ユズカは頷いて、拳を握り締める。
「カツムラ、ぶっ殺す」
「そうじゃねえよ」
トウマは苦笑する。
「いいか。殺す気で行くってことは、その後のことなんか何も考えないってことだ。こんなに殴っても大丈夫かな、とか、こんなに殴られたら一生傷が残るかも、とかそういうことを全部忘れて、ただ相手を思いっきりぶん殴ることだけを考えるんだ」
ぶっ殺す。
カツムラを見据えるユズカの目が、何よりも雄弁にその一言だけを告げていた。
その目を見た瞬間、カツムラは自分の背筋が凍り、両足がぐにゃりと力を失うのを感じた。
こいつ、マジだ。
マジで俺を殺そうとしてる。
そう気付いたら、怒りなどどこかへ吹っ飛んでしまった。
「ひいっ」
無様な悲鳴を上げて腰から地面に崩れ落ちると、そのままカツムラは亀のように丸まった。
「てめえ、こらあ!」
飛びかかったユズカが、カツムラの背中を何度も殴りつける。だが、カツムラは低く呻くばかりで顔を上げようともしない。
取り巻きたちが呆然と見守る中、ユズカは不意に後ろから羽交い絞めにされた。
「そこまでだ、ユズカ」
トウマだった。
「お前の勝ちだ」
「放せ、トウマ!」
暴れるユズカを、トウマは離さなかった。
「勝ったんだよ、お前が」
しばらくもがいた後でようやく諦めたユズカは、トウマの腕を振り払うとカツムラの前に立った。
「てめえ、カツムラ。二度とリンタロウに関わるんじゃねえぞ」
背中を丸めたままのカツムラの頭が二度、縦に動いた。
「よし」
ユズカが周囲をじろりと睨むと、取り巻きたちが慌てて下を向く。動画を撮っていた生徒も、もうスマホを下ろしていた。
「文句があったらいつでも来い」
ユズカは最後にそう言って、河川敷を後にした。
後ろを歩くトウマが、くくく、と笑う。
「拳、痛めただろ」
「うるさいな、いいんだよ別に」
落ち着いてくると、右の拳がじんじんと痛くなってきていた。
「あたし、もう人は殴らない」
「そうしろ」
「後はトウマがリングで殴るのを見ることにする」
「そうしろ」
トウマの澄ました顔が悔しくて、ユズカはやっぱりこいつも殴ろうかと思う。