ごぶさたの十字架
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
町を歩いていて、景色の中に溶け込まずぽつんと建つもの、君は見たことがあるかい?
別に大きな建物とは限らない。時季外れかもしれないし、場違いかもしれない。そこに至るまでの経緯を知らないために、僕たちが勝手に思い込んでいるのかもしれないな。
僕が家の近辺で目にするのが、教会の十字架だ。
家から少し歩くと環状道路にぶつかる。車通りが多くて、食べ物屋さんも多く並び、そこだけ抜き出せば賑わっている都会そのもの。
それがわずか10メートルも脇へそれれば、ザリガニでも釣れるかと思うほど、短い草を茂らせる、のどかな小川が顔を出す。
もし橋が架かっていなければ、それこそ境目を持たず、地域を移ったかのような気持ちさえした。
そして僕の考える教会などは日本のお寺などと同じ。静かな山の中にあって、たたずむべきものというイメージがあったんだ。
それが世俗の色濃い一軒家たちと肩を並べ、門戸を開いている姿は、なんとも不思議な印象を受けたんだよ。
その教会について以前、少し不思議なことが起こったんだ。
神の御業かどうか、信徒ではない僕には知るよしもないけれど、聞いてみないかい?
件の教会の掲げる十字架が傾いている、という話を聞いたのは、台風が通り過ぎた翌日の学校でのこと。あの晩は、本来満月が出るはずだったが、その光どころかみじんも空がのぞかない荒天だった。
見る限りでは、いかにも硬い素材で作られていそうな十字架。それが強風にあおられてぽっきり折れるのはともかく、傾くのは珍しいことではないか。
教会は学校からも、僕の家からも徒歩10分ほど。下校際、少し足を伸ばして僕は現地へ向かってみた。
先ほど「門戸を開く」といったけれど、実は僕はかの教会の入り口を知らない。
環状道路側からは家々の壁に阻まれているから、川側から回り込むのだろう、とは思う。
川と道路をつなぐ細道はいくつかあるが、そのどこを脇へそれても、教会にはたどり着けない。そうなると川の方から道路に着かず、突き当たる道のどこかにあるのだろう。
用も興味もなければ、たとえ自らの隣に住む者だろうと知らない、分からない。いわんや歩いて10分先の建物相手をや。
生まれてこのかた、僕はその教会を道路側から眺めるばかりだった。
他の屋根たちからにゅっと頭を出す十字架は、昨日の台風のたまものと思しき、大きい枯葉を一枚、張りつけている。
ちょうど縦と横の交差点。そこを隠すように、向かって右上から左下にかけて、袈裟を思わせる身に着けかただ。
「とんだ和洋折衷もあったもんだな」と思いつつ、僕は道路側から見ての真正面へ。定規を取り出して、十字架に角度を合わせてみる。
人差し指を立てたとき、君の指は真っすぐか?
僕は……ほら、ご覧のとおり、爪の先にかけて軽く反っていくだろう? あの時見た十字架も同じだった。
交差点よりやや下から、かすかに右へヨレていく。定規と比べると、ミリ単位ののけぞりではあった。まるで見えないローキックを脇に食らった瞬間を、撮影したかのようだね。
屋根にくっつく土台はしっかりしているように見えるのに、上がこの様子とは、よっぽど風が強かったのか。
いぶかしく思いながらも、その日はいったん家に引き上げたんだよ。
いつになったら、教会の人はこのことに気づいて対処するのか。
個人的な興味から、僕は放課後に時間があると毎回、例の教会の十字架を観察しにいった。
まだ子供だったからね。処置がされていなければ、自分のような子供が気づいていることに気づかず、放っているニブチンな大人と、あざけってやりたい思惑もあった。
実際、十字架は変わらずに傾いたまま。それどころか、落ち葉の袈裟も変わらずそこに張り付き続けていたんだ。
見張り続けて数日は、予定通りそのことを面白がっていた。
しかし、笑いものにしたくて、いつも見やっているから気づけたのかもしれない。
日を追うごとに、十字架の反りは大きくなっている。
一日の変化はごくごく小さいものだ。肉眼どころか、僕のように定規をあてがったとしても、意識しなければ問題視しないだろう。
しかし一週間もすれば、はっきり違和感を覚えた。
両腕を広げるかのような十字の横は、明らかに右へ傾ぎ、左がやや上向いている。上方もまた体操のワンシーンのように、右へ身体をそらしつつある。
そして、あの枯葉の袈裟も健在だ。
台風は去り、ここ一週間は晴天続き。陽の照りもよく、たとえその身と十字架の間に湿り気をため込んでいたとしても、それらを吐き出して乾いてしまうに十分な時間を経たはずだ。
それがどうして、未練がましくしがみついていられる?
はじめに話を持ってきたクラスメート、その周りの子の中にもちらほら、十字架の異様さに気づき出す子もいた。
朝学活の前に、ちょっとした話題になったのだけど、ある女の子がこう話す。
「世界にはね、月イチでしかここに来られない者もいるんだよ。
ときに何年、何十年、それよりもっともっと、久しぶりの者もいる。彼らが好いてくれているほど、起こる変化も大きいんだよ」
すい星とかの話か、と聞いている誰かが返すと、彼女はこっくりうなずいた。
「気持ちはあおずけされるほど、高まるもの。邪魔をされたら荒れ狂うもの。
騒がずそっとしておいた方がいいと思うよ」
元より内向的な子の長台詞だ。
みんな珍しく思いながらも、どこまで本気で聞いていたか分からない。
彼女のいう、騒ぐ気配とやらを察してか。十字架の反りはこれまで以上に緩やかで、簡単には判別できないペースになる。それでも、完全に止まることはなかった。
二週間、三週間……ほぼ斜め45度に傾いたそれの姿を、自分たち以外の多くの人も認めていたことだろう。
そしておおよそ一カ月後。再びの満月の晩。
集まりからの帰りだった僕は、たまたま例の教会の前を通りかかる。いつものように、環状線側からだ。
足元まで来たとき、頭上から大きくきしみが聞こえて、つい仰ぎ見てしまう。
十字架の上部の反りは、一気に極端になった。
本来のてっぺんは、ほぼ真横に寝ている。身体の側面を伸ばす運動さながらだ。
しかし、左手に当たるだろう十字の横は、一緒に反らない。むしろ反対側の、元あるべき横の位置へ戻ろうとしている。
結果、上部と左手が大きく開脚。裂けんばかりの谷が、その合間に生まれることになった。
袈裟としてかかる落ち葉は、変わらないポジション。なおも張り付き、谷底を支える格好になったその形は、ハンモックのたわみを思わせる。
ハンモック。そう連想して、僕はようやく思い至った。
寝床だ。横向く上部は枕、左手は寝台。
人の図体には小さすぎるが、ものによっては十分すぎる大きさのベッドが、そこにはできあがっている。
おりしも、雲に隠れがちだった月の姿がのぞき始めた。
一カ月ぶりの満月。その光が道路へ注がれていくにつれ、十字架の谷のきしみは大きくなっていく。
何度も揺らされ、そのたび広げられて。谷は少しずつ「平面」になっていく。
ベッドかハンモックと化した十字架は、再三の揺れによく耐えるも、ついにひときわ大きい震えと共に、ぺりっと小さい音が。
白い肌からこぼれ、見ている僕の肩をすり抜け、アスファルトへ落ちゆくかけら。それは白く塗られた木材だったんだ。
およそ2分程度続いたきしみ。
ちょうど月がまた雲へ覆われだすと、ぴたりと止んでしまった。
そればかりじゃない。これまで傾きっぱなしだった十字架が、バネでも仕込んでいるかのごとく、びよんと本来の姿勢へ立ち戻る。
同時に、枯葉もはがれた。
もはやお役御免とばかりの切り捨て方。これまでのしがみつきがウソのように、ひらりと裏表を見せて舞うや、ない風に吹かれるまま、家々の並びへ消えていく。
戻った十字架の左上、先ほどまで谷になっていたその部分は、変わらず板がはげたまま。
先の「訪れ」が幻でないことを物語っていた。
けれど、それを見られた人は僕以外にわずかしかいない。
翌日にはもう、十字架は青シートに隠され、数日後に取り払われてときには新品になっていたのだから。
これまで放っておかれたのが、信じられないくらいの機敏な対応だったよ。