第五話 冥府の女王ペルセポネの物語( 2/2 )
ペルセポネは、女子更衣室で与瀬ノ屋のユニフォームに着替えた。
緑を基調とした清潔感のある制服だった。
「これがこの戦場での戦闘服というわけか」
声を発したところで小娘には聞こえないだろうが、気を引き締める意味で自分の耳へ発信するのは重要な事である。
ペルセポネは制服の帽子の角度を確認すると、鏡の前で自分の服装に乱れがないかを確認した。
小娘が歓喜の声をあげている。
薄々気づいてはいたが、自分の顔や髪型と着ている服が天界にいた頃とは違うことを確認した。
姿は神のそれではなく、人間そのものだった。
弱体化された事で容姿にも変化があったようだ。
先程、ここのボスには手のひらの親指を折り曲げて見せた。
数字の四である。
これは義弟の考えで、下手に言葉を覚えるよりはこのようなハンドシグナルの方が明確に意思の疎通が出来るという事らしい。
アルバイトで数字の四。シフトで四時間。欲しい金額が四千円。
どちらに取られても服を買うのに必要な金額は稼ぐことが出来るのと、数字の五ではジャンケンのパーやハイタッチなどと間違えられると話がややこしくなるからだ。
この小娘が目の前にいる時にパーなど出そうものなら、先ほどの私が採用された流れでハイタッチをされかねない。
そうなったら、その後でどのくらい働きたいかを聞かれた時に、またパーを出してしまえば話が進まないし、ふざけているのかとその場でクビになりかねない。
そういった諸々の配慮の上での、四である。
流石、私が召喚した人間だけあってよく出来る。
ペルセポネは、鏡の自分の顔を見ながらニヤリと微笑んだ。
小娘は、言葉の理解できない私にホワイトボードに図を書いて説明してくれた。
お客さんが食券機でメニューを注文する。
注文したメニューをボスと小娘が用意する。
それをお客さんに配膳するのが私の担当する仕事のようだ。
配膳の際には、お客さんに対して「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」というのがルールらしい。
私は、試しに腹に力を入れて声を出した。
「オマタセシマシタ!ゴユックリドウゾ!」
小娘は満面の笑みで手を叩いて喜んでいる。さすが私だ。
そうこうしているうちに時間が来たようだ。
小娘が時計を確認し、現場へ出る。
先ほどとはうってかわって店内はお客さんで溢れていた。
それをボスが一人で対応していた。
急いではいたが、焦ってはいなかった。
感情を表に出さず一生懸命、それでいて客たちに振る舞う自然な笑顔。
この戦場で何年働き続ければ、このような表情が出来るものなのだろうか。
私はボスを睨みつける。
早く私もこうならなければ…。
小娘が私に砕けた敬礼をしてきた。
頑張れという事だろう。お互い頑張ろう。
私は打ち合わせ通りにキッチンへ向かい、配膳と書かれたテーブルの上に置かれた三つのお盆を確認した。
牛丼が三つ並んでいる。
甘辛い香りを放つ牛肉の中から、厚く切られた玉ねぎが顔を出していた。
牛の上で妖艶な何かが舞っている。悪魔の囁きだろうか。
冥界の女王が悪魔如きに誘惑されるのか。
嗚呼、ずっと見ていたい。
というか食べたい━━三秒間、立ち止まった後で正気に戻った私は、お盆の上に牛丼と一緒に乗せられている紙を確認した。
いかんいかん、これも神の力を失ったからか。だからこんな誘惑を受けるのか…。危うく客の牛丼にこの場で手をつけるところだったぞ。
紙には8と書かれていた。
同じ番号のカウンターへ配膳を行う。そして、
「オマタセシマシタ!ゴユックリドウゾ!」
スーツを着た客は無反応だったが、黙々と牛丼を食べ始めた。
どうやら問題なさそうだ。
私は客に対してニッコリ笑うと、次のテーブルへ配膳を行った。
気付けばニ時間が経過していた。
配膳に慣れてきた私は、微々たるものだが皿洗いなども手伝う余裕も出てきた。
それを見ていたボスは、小娘に話すと奥の事務所の方へ入っていった。
おそらく休憩だろう。
私の働きぶりを見て安心したという事だろうか。…ふ。
事件はボスが休憩に入ってから起こった。
いつも通りの「お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」を言った後に、客が何かを訴えてきたのだが、私には言葉が分からなかった。
言葉が通じないのを察してか、客は仕草とメニュー表で説明してくれた。
どうやら牛丼と一緒に注文したサイドメニューが違うらしい。
客のお盆に乗っているのは卵だが、注文したのは味噌汁のようだ。
私はチラリと小娘の方を見ると、露骨に慌てふためきながら厨房でバタバタやっていた。
明らかに焦っている。ここで更に間違いを指摘すれば、あれは錯乱しかねない。牛丼を供給できる者がいなくなってしまえばお終いだ。
しかし、ボスには今は休んでもらわなければならない。
でなければ私が雇われた意味もないだろう。
私がこの国の人間に放つことのできる言葉は三つのみ。
そのうちのどれを選ぶかでこの場を乗り切れるかが決まる。
私は客の目を見ながらボスのような自然な笑顔、それでいて真摯な態度でその一言を放った。
「ココデハタラカセテクダサイ!」
その瞬間、その場が凍りついた━━ような気がした。
客は驚いた顔をしていたが、周りを見て萎縮し、笑顔で右手でグッドのハンドサインを私に見せた。
どうやらこれでいいらしい。
この後この手法は三回使った。
あの小娘、一人で厨房に立つのはまだまだのようだ。
私は最初の計画通りに四時間の労働を終え、ボスからは封筒に入ったお金を受け取った。
五千札が一枚と、百円玉が二つ。
封筒にはもう一枚紙が入っていたが、字が読めない私には分からなかったので、ひとまずこれはあの全裸の男に聞く事にしよう。