蟲
テントの中に入り込んだ虫は、外に出ることがなかなか出来ない。
私は、迷い込んだ。緑の空間である。緑と言えば、葉の色であり、草の色であり……。けれどこの緑からは、自然の匂いが全くしないのである。
私は、数秒前まで空を飛んでいた。右にはマーガレット、左にはルピナス。鮮やかに囲まれたその間をスリル満点に飛び回っていた。すると、いきなり目の前に緑色の隔たりが現れた。右にズレても左にズレても、その緑色の壁にぶち当たってしまう。つついてもつついても、出ることができない。これはもしかしたら、噂に聞いていたムシトリカゴとやらの中かもしれぬ。その考えは私を恐怖へ陥れた。ムシトリカゴ。この前、蝶々のアヤノという小娘がこれに捕まえられて、行方不明になった。私はもう、生きて帰れないのかもしれない。
私が絶望していたその時。
「やぁ、あなたも迷い込んでしまったようですね」
右上から声が聞こえた。足の長い虫がいた。
「ここはなんなのでしょうか。ムシトリカゴとやらの中なのでしょうか。私はどうなってしまうのですか。」
藁にもすがる思いで聞いた。
「まぁまぁ、落ち着きなさい。ここは、テントという空間なんですよ」
彼は、壁につかまってお尻をヒクヒクさせながら答えた。一見して、歳は40前後。メガネを掛けており、いかにもインテリジェントといった雰囲気だ。
「テント……とはなんでしょうか?」
「人間が布で作った、巨大な虫取り網です」
「では、私は捕まってしまった、ということですか」
「まぁ、そういうことになるでしょう。しかし、テントは虫の鑑賞でしか使わないらしく、大きな逃げ口があるのです」
私はとても安心した。
「そうなのですね。では、私は逃げられるのですね」
インテリジェントはニコッと微笑むと、右へ右へとズレていく。
「こうやって、逃げ口を探していくんです」
私はインテリジェントの後をついて行った。
「この面ではないようですね」
テントには、4方面あるらしい。1方面の右、左、上、下をさがして出口が見つからなかったら、次の面に移るのだ。
「あとこれを3回もやらなきゃいけないなんて、けっこう辛いですね。」
「本当、辛いですね。でも、きっと見つかります。」
彼がいると、心強い。
「そうですね。頑張ります。」
出口はなかなか見つからなかった。
「うぅーん。」
インテリジェントも唸っている。
「この面ではないようですね」
「4方面、これで全て探しましたよね?」
私は彼に確認した。不安がどんどん降り積もってゆく。
「と、なると……。」
小さい声で、ごちゃごちゃ何かを言っている。
と、その時、突然、大きな叫び声が聞こえた。
「9).c)6yb(gdjd_ks:n_u#」
私には理解できない言語だった。
「危ない!攻撃が来ます!!このままでは捕らえられてしまいますよ!!」
インテリジェントはそう叫ぶと、上に向かって急上昇した。私もそれに、ついて行こうとした。が、出来なかった。私には、それについていけるだけの体力と羽力が無かったのだった。
白い煙が私を包む。
とたんに体調が悪くなり、何も考えられなくなった。
気がつくと、私は地面に寝転がっていた。辺りは真っ暗。いつの間にか夜が来ていたようだ。
上を見上げると、インテリジェントが私の近くを周回していた。
「おや、やっと起きましたか」
「あの、私は……あのあとどうなったのでしょうか」
「あなたは、虫除けスプレーを直にくらってしまったのです。しかし、運がよかった。あなたの落ちた場所が偶然にも逃げ口だったのです」
「そう、だったんですね」
「あなたが生きててよかったです」
彼はそう言ってニコッと微笑んだ。
私が起きるまでの間、彼は私を守ってくれていたのだろうか。
彼に心から感謝した。
「では、私はこれで失敬」
彼は丁寧にお辞儀をしてどこかへ去っていった。
「本当にありがとうございました!」
私もそろそろどこかへ帰ろう。
寝床を探しに暗闇の中を飛んでいた時、ある強い光が見えた。あれは、なんだろう。ピカピカと赤く光っている。光に寄せられ、グングンと近づいていくと、今度は真っ黒な壁にぶつかった。ん?これは……。
私は、再びテントの中に迷い込んでしまったのであった。そしてまた、素敵な誰かに出会うのだ。