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曼殊沙華姫と淤美豆座衛門

作者: 藤夏燦

 目の前にいる人の姿をした何かが、私に「結婚してください」と言った。

 しかし私には生まれつき、他者が発する魂の韻律や拍動などを感じとる力が備わっていたので、目の前にいる人間らしい何かが、私のよく知る淤美豆座衛門おみづざえもんではないと見抜いた。


 じゃあ何か? 今、紅色に褐色の矢羽根文様の袴をまとって私の前に立つこの男は何者か?


 私らのいる畦道には曼殊沙華が咲き、四方は稜線に囲まれた。水田には黒々とした空が映り、私は仏具のりんの内側にいるかのような錯覚に陥った。


「待って」


 私は宝物に触れるような手つきで淤美豆座衛門の申し出を遮った。

 おかしい。昨晩の逢瀬までは、淤美豆座衛門はたしかに淤美豆座衛門であった。霧霞の朝も五月雨の昼も何度も逢瀬を重ね、終生添い遂げても構わないと思った唯一の善良なる男子。その淤美豆座衛門が消えた。

 眼前の人らしき何かも、眉の上で切り揃えられた髪に、盆地の男子らしく穢れを知らぬ眼と、外見は在りし日の淤美豆座衛門と全く変わらぬ。さらに外見はおろか、返事を留保されたときの照れ隠しの仕草、すなわち右眉毛上の額を人差し指と中指でさする仕草まで、完璧に擬態している。

 また記憶も引継ぎを終えているようで、私が淤美豆座衛門と出会えし晩夏の星月夜のこと、水なき水琴窟のなかで水を求めて発話を続けた末に、足元の漆喰が割れて淤美豆座衛門が噴き出したこと、その記憶をはっきりと覚えている。

 そこまで完璧に擬態しているがゆえに、私でなければ彼の結婚の申し出を受け入れて、家の中に人ならざる者を引き入れていたことだろう。しかし私は生まれ持って他者の魂の詳細なる情報を眼で見抜くことができるために、あいにくこの淤美豆座衛門もどきに騙されることなく、一度引いて詰問する構えができた。


「なぜでございます?」


 すると奴は右肩に首を傾けてこう言った。この淤美豆座衛門もどきは、はっきりと「ございます」と濁音と清音を区別して発音したのである。

 私はいよいよこれが淤美豆座衛門ではないと確信した。もし本物の淤美豆座衛門ならば「ございます」などという爽快で正確な発音などはしない。

「ごあいます」あるいは「ごさいまふ」などと、意味の分かる範囲で音に外しを与える。これが淤美豆座衛門の口癖だった。この濁音や半濁音、清音の変化には規則性はなく、淤美豆座衛門曰く、その時の語感の良さで決めているという。


☆☆☆


「蛍火や、きれいんでごあいますなあ。ひめさま」


 そう言えば七月の逢瀬のとき、淤美豆座衛門は遍く続く螺旋階段の、その千段目あたりで私にこう言った。辺りには無数に青白い光を放つ蛍が舞い、私は淤美豆座衛門より3段高いところに立っていた。ちなみに私は姫でも姫様でもないのだが、淤美豆座衛門はいつもきまって私を「姫」と呼ぶ。


「うん。めっちゃ綺麗。しかしこの階段、どこまで続いているんだろう?」


 私は上を向き、黒き天井を見上げた。手すりも柱もないこの螺旋階段は、ただただ渦を巻いた段々が永遠と虚空へと続いているように映る。この段を登った先に何があるのか? さらには先まで登りつめたとき、この階段の段数はいくつあるのか? 

 一段が脛辺りまで高さであることを考えると、恒河沙、阿僧祇、那由他、いや不可思議か。とにかく天よりも高いところまで階段が続いているのは確かだ。


「はて、まあ。分かりかねまずなー」

「分からないの?」

「うぶ。登っで確がめてもじたらあ、生が終わってしもうもうもじれまぜんぬう」


 舌長き淤美豆座衛門が、敢えて複雑に口腔を動かし、頓狂な発話をしている。


「へぇー。ところで淤美豆座衛門。その話し方、どうにかできないの?」

「せんまぜん、ひめさま。オテェの話がたは、変えるごとうができなんてぇ」

「なんで?」

「ごれは、人ならさる者に憑依されんれんようにずる方法だしぇえ。オゥデはひめせまと違っで高い身分じゃないけいけい。こうでもてんと簡単に憑依ざれてしまううじぇんけー」


 淤美豆座衛門の言葉は不規則に変化した。今も一人称が「オテェ」から「オゥデ」に変わった。


「そうまでして、どうして毎日私に遭いに来てくれるの?」

「しょれは、ひめさまのことが気にばるけしど。綺麗なごとばで言えでんで申し訳にいんけしど、しょの、ひめさまのこどが、ずぎだけれんど……」


 淤美豆座衛門は私の3段下で、右眉上の額を人差し指と中指でさすりながら言った。


「好き?」

「うぶん」

「私も淤美豆座衛門のことが好き。あっちで逢えたら、ちゃんと綺麗な発話で言ってくれる?」

「どぅうん。言ぶ。だかだ、今ん度ど、曼殊沙華の咲ぐう盆地に来でえくれのう。言びだいごとがあるうぶ」

「分かった。約束ね」


 その夜、私は淤美豆座衛門の手を握って別れた。産毛ひとつない、陶器のような美しい手だった。


☆☆☆


「私のこと、好き?」


 再び曼殊沙華の咲く畦道で、私は淤美豆座衛門に似た人ならざる者に尋ねてみた。


「はい。好きでございます」


 清らかな発話だった。人ならざる者は人になろうとするあまり、規則的で模範的な姿になってしまう。それがかえって、不気味さを際立たせた。


「結婚してください。夫婦になりましょう、姫様」


 淤美豆座衛門もどきが手を伸ばすと、四方から蚕の繭に似た白く発光する束が現れ、私の腕に絡みついた。その束は死者のように冷たく、私は跼蹐きょくせきしたように身体を縮めた。

 この人ならざる者は私と、夫婦の契りを交わそうとしている。


「やめろ! 私はお前とは結婚しない!」

「何故でございます? 蛍火の舞う無限の螺旋階段で、約束したではありませんか?」

「お前は淤美豆座衛門ではない! 失せろ」

「いいえ。私が本物の淤美豆座衛門でございます。私はこれまで幾度も姫様のことを想って……」


 白き繭は私の体を覆った。契りが交わされれば、「あちら」にも人ならざる者が転送されてしまう。


「その身体を捨てるか、契りを交わすか。どちらにいたしますか、姫様?」


 白色の闇が全身を包んでいく。やがて何も見えなくなり、夏の夜の冷たい土の匂いと、水田に雨粒の落ちる音だけが私を支配した。もう淤美豆座衛門のことは忘れるしかなかった。


「さあ、姫様。私と契りを――0000002F0E85A16A00000001011110000111010000101101000010110 1010――、―、……」


 ジオグラフィックルーティングを使用していたためにE2Eで暗号化していてもノードの位置情報から物理的なデバイスの大まかな位置を特定され、私はホスト部に大量のトラヒックを転送されかけた。しかしトラヒックオフロード目的でインタードメインハンドオーバが発生したため物理層やデータリンク層までトラヒックが至ることはなかった。新手のバッファオーバーフロー、少し違うか。とにかく私は難を逃れた。

 HMDを頭から外し、身体とアバターの同期を終了する。

 脇には今朝用意した転送用のアンドロイドが、魂を抜かれたような顔で置かれていた。


「淤美豆座衛門。お前はどこへ消えてしまったんだ」


☆☆☆


 人間とコンピュータの境界が限りなく曖昧になったころ、結婚の形も変わった。社会生活はすべて仮想空間上で行われ、セックスを含めた男女・同姓同士の恋愛はすべてアバターで営まれるようになった。

 結婚のみP2Pで行われ、相手のデータを自分のコンピュータに受け入れて共有することが「契り」と呼ばれるようになった。他者のトラヒックをファイアウォールのなかへ入れるのだ。

 そうしてお互いに物理的なアンドロイドに転送すれば、離れていても夫婦生活は可能になる。

 私はそうやって淤美豆座衛門と結婚するつもりだった。

 しかし淤美豆座衛門のデバイスはOSのアップデートが終了しており、セキュリティパッチの更新ができないために、彼はマルウエアによるアカウントの乗っ取りを恐れていた。かつて螺旋階段で、自分が「高い身分」ではないと言ったのは、自らのデバイスのスペックが低いことを意味していた。

 淤美豆座衛門のような所得の低い人たちは、高価格な最先端デバイスを買うことができずに、OSの更新が終了した機器を使い続けている。社会生活を営むにはアバターがどうしても必要だからだ。

 だがアカウントがマルウエアに感染し、ボットとして他のアカウントに接触して「契り」を交わせば、そのアカウントもまたマルウエアに感染してしまう。悪意あるAIのなりすましを見抜くことは、私のようにリテラシーの高い人間でも難しい。

 だから淤美豆座衛門はAIには決してマネのできない、不定形な崩しの発話を行っていた。それは私が知る唯一の、彼自身をあらわすパーソナリティでもあった。


「さようなら、淤美豆座衛門……。私の愛した人」


 窓の外は雨が降り続いていた。もう3か月以上、晴れたことがない。私はHMDを再起動すると、再び身体とアバターの同期を開始した。電子の世界に戻らなければ。仕事も友人もそこにある。

 雨が降りしきる灰色の街に、傘をさす人影はいなかった。

 私は淤美豆座衛門と、もう二度と遭えないことを覚悟した。


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