交渉
フィリップの顔を見るリリンの表情。フィリップは思わず顔を背けそうになる。
けれどそうはしない。だってまだ、何も終わっていない。
「……なんだ、その、酷いザマは?」
魔王を殴り倒して、フィリップは残身をする。さしもの魔王と言えども、器のリリンは脳震盪でしばらく起きないだろう。黒薔薇の魔女もカリナのお陰で瀕死で倒れている。件のカリナは首を撥ねられた。これが問題で、もしもあの聖剣が本物なのだとしたら、時間との勝負だが生命をつなぎとめることは可能だろう。
だが、だからこそ、このタイミングが厄介だった。
できるだけ飄々と。フィリップは意識的に笑う。やる気のないオッサンを演じるのは得意だった。敵意を見せないように振る舞う。あまりにも相手が悪すぎる。弱みを見せたら一瞬で刈り取られる。
「いやー、フィルちじゃないすか。久しぶりっすねえ」
「十二聖人ともあろうものが、なんだその陰気臭いマナは」
「いや、ちょっと人間やめたんすよ」
人間を、やめた。フィリップはその言葉に思わず笑う。第二席に教会から拾われてきた時から、この女はいつもそうだった。人生を諦めきっている顔で、なんてことない顔をして自分自身をすりつぶす。「人間やめたんすよ」なんて、少なくとも、こんなに気軽に言っていい言葉ではないはずだ。
いや、それも違うかもしれないな。と、フィリップは自嘲する。十二聖人というどこかしらネジの吹っ飛んだ連中の中で、人間でいることに拘っているようなフィリップみたいなやつの方が変わり者だ。
自覚はあった。フィリップは昔からビビりだった。それを誤魔化すために体を鍛え、技を磨き、怖がられるような格好をしている。色眼鏡だって、弱気そうな目元を隠すためにかけ始めたものだった。
だからこそ、フィリップは勝てない。十二聖人の誰よりも弱かった。覚悟も、戦闘力も、何もかも。
「フォマちゃんなら、別に人間なんかやめなくたって、強いでしょ?」
「ははは、フィルちは相変わらず変なことに拘るっすね。単純に、リリン先輩の隣に居るためなら、こっちのが都合良いだけっすよ。強い弱いの話、してないじゃないすか」
都合がいい。ある意味、フィリップの在り方よりはずっと合理的で、分かりやすい理由だ。フィリップ自身ですら、自分が人間という在り方に拘る理由は未だにわからないのだ。
「なあ、フォマちゃん。交渉しないか?」
「交渉? 泣く子も黙る『日蝕』のフィリップが、随分呑気なこと言うじゃないすか。……あんたが殴ったそれ、リリン先輩なんすけど?」
笑顔。フィリップは昔からこの笑顔が本当に苦手だった。最悪だ。ジンが殺されたと聞いた時、真っ先に思い浮かんだのはフォマの笑顔だった。初めて会った時、この少女はまだ十二にならないガキで、それなのにビビっちまったことを覚えている。ガキ相手にビビって会うのを避けるなんて、本気で自分自身が情けなくなったものだったけれど、今ではフィリップの危険予知能力の証明だったと、むしろ誇らしいくらいだった。
明確な死の匂い。死の気配。おそらく、ほとんどの十二聖人にとって、フォマの笑顔とはそれらの類義語だ。
フィリップは今まで職業柄、いろいろなヤバイ奴を相手にしてきた。けれど、心の底から苦手なのはこの女だけだ。
「……リリンちゃんも、随分怖い女に好かれちまったもんだねえ」
「あんたが。あんたがリリン先輩を心配する権利があるんすか?」
「それは……。それもそうだ。アンドレイのやり方を黙認した責任は……、たしかに。そうだな」
情けない話だが、あの頃のフィリップは保身するので必死だった。十二聖人というポストが目の前にあって、それでアンドレイに噛み付く度胸なんかなかった。
だからこそ、リリンのことは気をかけていたつもりだった。次にアンドレイや第一席が何かしようとしたときは、止めるつもりだった。結果はコレだ。無力なことこの上ない。
「……なあ、フォマちゃん。リリンちゃんは今、幸せなのか」
「うちに、そんなこと分かるわけないっしょ。……いや。でも、先輩はくり返し言ってましたよ。『十二聖人は全員殺す』って」
そうか。フィリップは目頭が熱くなるのを感じた。せめて親代わりであろうとした時期もあったけれど、無駄だった。リリンは誰かに庇護されるほど弱い人間じゃない。結局何も救えていない。あまりにも無力だ。
あの心優しい少女に、そんなことを言わせてしまうこの世界が、自分が、どうしようもなく嫌だった。
「……そうか。フォマちゃんは、リリンちゃんを連れ帰りたい。こっちは、カリナちゃんを連れ帰りたい。利害は一致してるだろ? なあ、この辺で手打ちにしないか。知ってるだろ? オジサンは平和主義者なの」
「笑わせるっすね。うちとフィルち、百回やって百回うちが勝つっすよ。うちがその条件を飲む理由、あるっすか?」
「分かってんだろ? オジサンは分の悪いかけはしない。だってそうだろ、もしも本気でそう思ってんなら、フォマちゃんは無言でオジサンのことブチ殺せば良いだけだろ?」
フィリップは、スーツの胸ポケットの内側から黒い水晶のついたブローチを取り出す。
「これ。集めてんだろ? ……手痛いが、これで手打ちにしてくれ。コレ以上はない。今俺が出せる全部だ」
「あー。なるほど。『善き墓守たちの火葬会』の連中が言ってた黒水晶は二つだったから、どうもおかしいと思ってたんすよね。まさか片方回収されてたとは思わんかったっす。さすが」
フォマはゆっくりと近づいてきて、生気を感じさせない真っ白な手でネックレスを奪いとる。
「……本物っすね」
「当たり前だろ。交渉成立だ」
フィリップはカリナと聖剣を腰に吊るして、カリナの体と頭を軽々と抱える。
「フィルち、先輩も、その子も。いくらアンタが助けたところで、いや……。そもそも、助けられてすらいないすけど。どっちにしろ。娘さんの代わりにはならんすよ」
「……余計なお世話だ」
時間があるわけじゃない。早く戻って、処置をしなければ。幸い断面は綺麗だ。どんな経緯でこんなザマになったのかは分からないが、聖剣に選ばれた体なら、蘇生は難しくないはずだ。
フィリップの背後から、ため息が聞こえる。
「うちがフィルちを殺さなかったのは、別に交渉したかったからじゃないすよ」
フォマはまるで、近くの人に話しかけるくらいの声色で話している。フィリップは随分距離が離れているから、普通は聞こえない距離だ。ただ、フィリップはちょっとばかり人より耳が良い。だからどうしても聞こえてしまう。
「リリン先輩は、フィルちのこと父親代わりだと思ってたんすよ」
やめろ。聞かせないでくれ。フィリップは足を急ぐ。
「フィルちは、リリン先輩の味方だと思ってたのに」
うるさい。黙れ。最初からフィリップは十二聖人で、リリンを殺すことを知って、その計画に加担した。
「リリン先輩は、あんたが死んだら悲しむと思うっすよ」
なんで、裏切るような真似したんすか。そう言外に告げられているような気がして、フィリップは唇を噛んだ。正義とか、そんな青臭い言葉の意味がわからなくなって随分たった。正義とか、目の前の人を守るとか。そのために大義を捨てるとか。そんなことはフィリップにはできない。
フィリップは臆病者だ。世界と家族を天秤にかけた時、世界を選んでしまった臆病者だ。
クソ、あの女。フィリップは小さくつぶやく。
「……俺に聞かせるために言ったな」
でも、もう駄目なんだ。フィリップは知っていた。もう後戻りができないことも。贖罪に意味など無いことも。最初から決めていた。実の娘を殺したときから、世界のためにすべてを捨てると決めていた。
もう許されない罪は背負った。これ以上背負うことに躊躇なんかない。
「良いさ。リリンちゃん。殺しに来てくれよ。それで救われるなら、それで良い」
第一席の計画は、今のところ完璧に推移している。きっと世界は救われる。そうだ、合っているはずだ。いずれ何もかも燃え尽きる。だから。
空を見上げても星は見えない。ふと、帝都の中心街の方から煙が上がっているのが見える。始まった。戦争が始まる。
「アズヴァル様。どうか、お救いください」
こんなに空虚な祈りがあってたまるかよ、とフィリップがぼやいても、応えるものは居なかった。




