力
目の前のベルナドットが真っ黒な衝撃を放った瞬間、カリナの目の前には何重もの光の壁が開かれた。アズヴァル様が開いた壁だ。それでも衝撃は殺しきれず、カリナの体は宙に吹き飛ぶ。
『どうしてまたその女を庇うのですか、お姉さま!』
アズヴァルが言う。お姉さまとはひょっとして、魔王のことなのだろうか。けれどカリナにはその意味を精査する余裕がない。魔女相手にあった「勝てる」という手応えがまったくない。
「いい加減しつこいよ、アズヴァルちゃん。ボクは好きでここに居る。空には帰らない」
爆風の後ろから突然姿が現れる。吹きすさぶ風に髪が広がる。鋭い剣。躱せない。
衝撃。甲高い音がなる。光の壁。すぐに返す刃で聖剣を振り抜く。金属音。剣の腹で受けられた。だめだ、完全に読まれている。
そうだ、はなから受けきるとか、戦うとか、考えるべきじゃない。そうだ、相手は魔王。それも聖女の体を手に入れた相手。つまるところ完全な格上。
「アズヴァル様! 逃げよう。今のオレじゃ勝てない!」
『なにを言っているんですか! まだ魔女を殺せていません!』
「でも、魔王が相手じゃ……!」
『何のために、人間にわたくしの力を預けたと思っているのですか!』
瞬間、横腹に打撃を感じる。蹴りだ。凄まじい力。胃の中身が口の中に広がる。その衝撃で真横に吹き飛ぶ。痛みの中で体勢を整えたいところだけれど、力が入らない。そのまま地面に叩きつけられる。
痛い、と言おうとして、声の代わりに液体が喉の奥から出てきた。吐瀉物だと思ったけど、違う。真赤だ。内蔵をやられた。
聖剣を支え代わりにして立ち上がる。足が震える。逃げられるか。いや、アズヴァル様はそれを望んでいない。でも、どうする? 魔女だけなら、何とかなっていた。でも、魔王がこんなに強いなんて聞いていない。それに、あの剣は? もしかして聖剣?
「うーん、やっぱり出力が足りないや」
真っ黒な影が、カリナに向かってゆっくりと歩いてくる。悠然と。凛として。一歩ずつ。
「……その剣は、聖剣なのか?」
「おっ、分かっちゃう? そうそう。昔ボクを封印した聖剣でね。名前を……なんだっけ。あ、そうそう。それ。『鏡面湖畔』」
魔王は時折なにかと話しているようだった。もしかして、カリナには見えていないものがあるのだろうか。周囲に目を配らせるが、分からない。そもそも、よく魔術師連中が言う『マナを感じ取る』というやつの練度がカリナには決定的に不足している。
「アズヴァル様、撤退しよう。魔王で、聖女の体で、それも聖剣だ。オレはただの学院の生徒だ。勝てるわけがない!」
『あなたには聖剣がある』
「向こうも聖剣だろ!」
ん? と魔王がこちらに目線を向ける。構えようとするが、体が痛む。足にうまく力が入らない。見れば、左足があらぬ方向に曲がっている。クソ、こんなところで終われないのに。
「んー? 君、なんか勘違いしてない? これ、たしかに聖剣だけど、ボクにもリリンにも使えないよ。だって、そこの女神サマが愛想つかしちゃったからね」
そんな。聖剣を使わずにこの強さ? 純粋に練度も出力も足りなすぎる。もう十分だ。魔女を退けられることは立証できた。アカシャを連れて何処かに逃げよう。そうすれば、きっとなんとかなる。そのはずだ。
衝撃。
遅れて、蹴られたのだと気づいた。内蔵が揺さぶられるようだ。体が少しだけ宙に浮いて、そのまま床に倒れる。動けない。痛みはもうすでに感じなくて、どこが蹴られたのか分からない。でもたぶん、腹を蹴られた。体に力が入らない。まずい。
「良い格好じゃん。最高だね。やっぱり無力に地べたに這いずる女の子って興奮する。ね、リリンはどう思う? ……えへへ。ほんと? 嬉しいなあ」
魔王は「なにか」と話しながら、カリナに顔を近づける。まるで作り物のように整った顔だった。
「……ねえ、君はどうしてエステルを殺そうとしてたの?」
『あの売女がお姉さまをたぶらかすから!』
「うん、アズヴァルちゃんは黙ってよっか」
そのまま、魔王の手がカリナの腹に添えられる。
「痛くしてゴメンね? でも、君が悪いんだから。君がエステルをいじめたりしなければ、ボクは君なんか知らなかったのに」
「……違う。最初に手を出したのは、そっちだ。アカシャをあんな風にしてたのは、お前たちじゃないか!」
「ん? アカシャ? ……あ、君、この間パンケーキ食べに来てた子か。……ああ、なるほど。エステル、アカシャちゃんで実験してたのか」
ふむ、と魔王は可愛らしい仕草で考える。
「それはボク、初耳だなあ。ねえ、エステル。それ、ほんと?」
魔王が聞けば、後ろから満身創痍の魔女がやってくる。茨は焼き焦げ、足元も覚束ない。クソ、魔王さえいなければ殺しきれたのに。
「……ええ。本当です、ベルナドット様。ワタシは、アカシャの体を使って実験を。ですが、ですが! 違います。ワタシはあなたの、新しい体を作るために……!」
「体? どうして?」
「だって、だって……。本当は、ベルナドット様と、リリンさんが、手を取り合って、二人で、笑っているところが、見たかった、から……」
風が吹く。声はなかった。カリナにとって、恐怖の象徴だった魔女が見せるその表情も、無言で空を見つめる魔王の顔も、理解からは程遠いものだった。
その静寂の中、最初に声を上げたのはアズヴァル様だ。
『ふざけるな』
手に握った聖剣から、「光」がカリナの中に入り込んでくる。まさか、これは、アズヴァル様? 頭が痛い。耳鳴りがする。視界が遠のく。駄目だ。どうして?
聖剣から手を離そうとする。けれど駄目だ。離せない。
意識を手放す。
◆
『ふざけるな』
目の前の女の子が持った聖剣が、喋る。ベルの話の通りなら、あの声の主こそアズヴァルなのだろう。どうやらエステルにも因縁があるみたいだ。
この女の子が怒る理由は、分かる。友達が傷つけられて怒るのは当然だ。じゃあ、アズヴァルはどうして怒っているんだろうか。だって、分からない。怒りたいのはこっちだ。私が十二聖人どもにあんな目に遭わされている間、この神様は一体何をしてくれた。
信仰も、聖書も、すべて嘘っぱちだった。
『ふざけるな』
もう一度聞こえたその声は、女の子の口から聞こえた。
『ふざけるなよ、クソ売女……!』
明らかに、今までと動きが違った。女の子は、いや、アズヴァルは凄まじい速度で間合いを詰める。馬鹿な、足を折ったはずなのに! 受ける。さっきまでの棒振りとはわけが違う。正しく踏み込まれた、力の乗った剣戟。
(気をつけて、ベル! アズヴァルが憑依しています!)
(分かってる!)
ベルは鮮やかにその攻撃を受け流す。
(でも、長くは持たないよ、アレ。神サマが神サマのままで取り付くには、器の強度が足りなすぎる。すぐにでも行動不能になる)
なるほど。だったら問題ない。適当に流して、守って、時間切れで勝手に向こうが自滅して終わりだ。ベルがそのへんを間違うわけがない。
『どけ! そこをどいてください、お姉さま! その無礼な売女を殺せない!』
「だから、しつこいよ。アズヴァルちゃん。エステルはボクの大事な配下」
『その女がいるから、お姉さまは帰ってこないんでしょう! こんな薄汚い地上に、お姉さまを縛ってるんでしょう!』
「違う。ボクは自分の意志でここに居る」
『嘘です! お姉さまはわたくしを見捨てたりしない!』
「いいや。違う。何度だって言うよ。ボクは君が嫌いだ」
急に、アズヴァルが剣に込めていた力が抜ける。
『……嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! お姉さまはそんなこと言わない! わたくしを見捨てたりしない!』
「嘘じゃない」
『違う! ……そうか。その器ですね? その器がそんなことを言っているんですね? 仕方のないことです。お姉さまは素晴らしいから、お姉さまを手放したくなくて、そんな演技をしているんですね。おかしいと思いました。お姉さまの器に意識が残ってるなんておかしいと』
双眸が、私を見た。
『まずは、あなたを殺さないといけないということですね?』
アズヴァルの言葉に応えたのは、ベルだった。
「は?」
ベルがそう言うと同時に、アズヴァルの体が地面に叩きつけられる。影の力だろうか。速すぎて何も見えなかった。でも、分かる。ベルは怒っている。
「言って良いことと悪いことがあるんだけど?」
ベルは容赦なく、剣を少女の右腕に突き立てた。怒ってる。普段のベルなら、こんな雑な痛めつけ方はしない。
「ねえ、それ本気で言ってる?」
剣を傷口でゆっくりとかき回す。怒ってる! ベルが私のために怒ってる! どうしよう。私は高揚していた。すごく嬉しい。
『違う、お姉さまはわたくしを傷つけたりしない』
「聞いてるんだけど? 答えてよ」
『嫌だ嫌だ嫌だ。痛い。痛いです。痛いですお姉さま!』
「……聞いてるんだけど?」
『お前は、お姉さまじゃない! お姉さまはわたくしを嫌いなわけ……!』
「ほんと、めんどくさ」
ベルはため息をついて、そのまま首を撥ねた。
「……ごめんねリリン。こいつ頭おかしいんだよ」
ううん。ベルが怒ってくれて、嬉しかった。私はそう答えようとして、その前に意識が揺れた。アズヴァル? 違う。純粋な物理攻撃。頭を殴られた! まずい、急所に入って、脳が揺さぶられる。意識が落ちる。落ちかける意識の中で、敵を視界に収める。
私の背後。居たのは男。
知っている。私はこの男を知っている。大柄で、剃り込んだ頭に色眼鏡。
第五席。フィリップ・アクアビット!
「……いや、悪いね。オジサン、気配消すのだけは得意なんだよ」
私は意識を手放した。




