裏切り
何度かの日没を超え、リリンはついにコントラット大森林の最奥に至った。その証拠に、あたりの木々は真っ白に漂白され、土は白み、空を覆うのは白い煙めいたマナの奔流。
停滞とまどろみのコントラット大森林の最奥。眠りと凪の聖剣、あらゆるマナの流れを停止させる『鏡面湖畔』によって、植物と土からマナの流れは失われ、真っ白な世界が広がっている。
風もなく、寒くもなく、熱くもない。その剣の名前の通り、湖は完全に凪いで、まるで鏡のように真っ白な世界を写す。その湖面の真ん中、水晶の丘に銀に輝く聖剣はあった。
「あれが、銀の聖剣」
「そう。かつて魔王ベルナドット・ザス・カルトナージュを封印した聖剣。眠りと凪を司る……」
「鏡面湖畔」
水晶の丘には、同じような結晶の道が続いている。少し歩けば、リリンの目の前に聖剣があった。
「ほら、リリン。これが君のお目当てのものだよ」
「これがあれば、魔物たちを……」
「ほら、はやく。リリン。それを抜いて」
リリンはボクに急かされて、意を決して銀の聖剣に手を触れる。瞬間、聖剣に刻まれた文様が青白く輝き、水晶の丘全体に刻まれた魔法陣がマナを帯びる。あの水晶こそ、ボクをこの森に縛るための触媒。そして、あの銀の聖剣こそがボクを繋ぎ止める楔!
「妖精さん! なんだか嫌な予感が……!」
「気にしちゃだめ! はやくその聖剣を抜いて!」
「ですが……!」
「君の目的を思い出すんだ。なんのためにここまで来たんだ!」
だめだ。気付いてはいけない。気付くなリリン! 何も考えなくていい。
「何も考えなくていいんだよ、リリン。それを抜くだけ。その剣を抜くだけで、君はその剣を手に入れられる! はやく!」
「ですが、嫌な魔力が流れているんです! この剣を抜いたら、何かとんでもないことが起きるような……!」
まずい。ボクは焦っていた。リリンの体は最高だと言ったけれど、それが裏目に出た。リリンの魔力感受性はかなりのものだ。ボクの薄暗い影の魔力を感じ取ってしまっている。しっかりと抑えていたつもりだけど、封印の水晶ともなればそうもいかないらしい。
ボクは少し考えて。言う。
できるだけ、彼女のトラウマを撫でるように。
「急ぐんだ。リリン。何を戸惑っているんだい? 何を恐れているんだい? 君はそうやって、昔も大事なものを失ったんだろう。今ここで君が手をこまねいて、選択を先送りにして、次は何を失うつもり?」
リリンの顔が曇る。
「ねえリリン。ボクはここまで君を導いたよ。君の話も聞いてあげた。どうしてボクの言葉が信じられないの?」
「ですが……」
「ボクはリリンのこと信じていたのに。ボクはリリンのこと、友達だと思っていたのに」
ボクはできるだけ、悲しそうな声色を使う。リリンは優しい。その同情を煽るように。
「リリンは、ボクのことを信じてくれないんだね……」
青白い魔力の中、リリンは息を呑んだ。
「……妖精さん、ごめんなさい」
リリンは口を結んで。
「私が間違っていました。あなたのことを、信じます」
かかった。
リリンはそのまま、意を決して剣の柄を握る力を強める。そしてそのまま、一息。水晶とボクを繋ぎ止める銀の聖剣を抜き放った。
ボクは笑いを堪えることができなかった。完璧だ。魔力が奔り、水晶に刻まれた封印の文様が力を失っていく。ボクの意識が自由になっていく。あたりを停滞させていた聖剣の力が途絶え、一気に森の魔力が動き出す。止めていた息をまたし直すように、凄まじい勢いの魔力の奔流が生まれ、ボクたちのまわりを一気に駆け巡る。
これだけの魔力の流れがあれば、マナが侵されても抵抗することなんてできない。完璧な舞台! さしもの聖女といえども、魔王であるボクの魔力を前に、この乱れたマナの中で抵抗することは不可能だ。
「……妖精さん、どうして笑ってるんですか」
「妖精さん、じゃないんだよ。ぼくの名前は」
水晶から、真っ黒いマナがこぼれ落ち、無色透明の湖を黒く染めていく。水の上に墨を垂らしたように、その黒いマナは湖を満たしていく。ボクの意識はそのマナを動かすことが出来る。
ボクの意識が真っ黒な影の形を作っていく。ボクの意識は黒いマナに同調して、意識を失った小鳥の体は湖に落ちる。落ちたその体は、真っ黒な湖に沈んでいった。
「ねえ、このマナの色。分かる? きれいな色でしょ」
「腐ったマナの色……?」
「あんな汚い色と一緒にしないでよ。これはね、腐ったマナなんかじゃない。最初から真っ黒な、正真正銘、純粋な影の魔力」
リリンの顔が、絶望に染まっていく。信じたものにまた裏切られて、今にも泣き出しそうな、怒りと恐怖が混じった素敵な顔。
ああ、最高だ。その顔が見たかったんだ。
「ねえ、リリン。君はボクの名前を知っているでしょう?」
ボクはマナでできた手で彼女の頬を撫でる。足元のマナ溜まりから、数万のボクの腕が伸びて、彼女の足を絡め取る。もう逃さないよ、リリン。
「……あなたは。魔王。史上最悪の魔王、ベルナドット・ザス・カルトナージュ!」
「そう。ボクこそが、史上最悪で最強で、イチバン美しくてカッコいい、大魔王ベルナドット・ザス・カルトナージュ! でもちょっと水臭いじゃないか。ボクたち、もう友達でしょ? ベルちゃんって呼んでよ」
リリンは、振り絞るように声を出す。
「……あなたは、自分が復活するために私を利用したんですか」
「そうだよ。でも、別にアンフェアではないよね? 君だって知っていたじゃないか。その聖剣はかつてボクを封印したんだって。聖剣がここにあるなら、ボクだってここに封印されているに決まってるじゃないか」
リリンは足から崩れ落ちる。リリンは涙を流していた。光のない、絶望な顔。ああ、ゾクゾクする。でも、こんなものじゃないよね。ボクはもっともっと、人の絶望する顔が見たい! ボクはリリンに寄り添い、抱きしめる。
「大丈夫だよ、リリン。可愛そうなリリン。でもね、大丈夫だよ。これから君が苦しむことはないんだ。だって、今から君の体は、ボクのものになるんだ。素敵でしょ? 今まで奪われる側だった君は、やっと奪う側になれるんだよ」
リリンは答えない。真っ黒なマナが、ボクの意識が、リリンの体にまとわりつく。リリンの体中を覆ったボクの意識は、彼女の体中から、彼女の中に染み込んでいく。
案の定、リリンに抵抗する力は無かった。ボクの意識はスルスルとリリンの体の中に入っていく。マナを、意識を巡らせる。リリンの体中に、影のマナを循環させる。意識が混ざり合い、混濁する。リリンの意識を蹂躙して、この体をボクにしなきゃ。
だんだん意識が朦朧としてくる。影のマナが満ちていくのを感じる。ああ、きた。
とった。
リリンの体に意識が定着したのを感じる。そこでリリンの意識は途切れた。
◆
声がする。
「いいえ」
誰の声?
「いいえ。いいえ。いいえ!」
この声は。
「いいえ、とらせません」
リリンの声。いや。
「私の体は、あなたには渡さない!」
――リリンの声。