真に聖なるアズヴァルの御下
「そうですか、なら死ね」
もしも、一度見ていなければ防げなかっただろう。フォマが居たはずの場所には人間一人分の質量の塩の柱。フォマはそこから一歩引いた場所に下がっていた。
「……危ないっすね」
「……あら、殺したと思ったんですけど」
塩の柱。魔法のたぐいだろうか。だが、それにしては挙動が怪しい。物理的な攻撃と違って、魔法は「起こり」を認知しなければ対処のしようがない。例えば火炎弾を放つ魔法なら、発射点がどこかを最初に確認する必要がある。もしもあの黒薔薇の魔女が相手なら、「茨に触れると花に変えられる」と認知しなければ、対処を誤る。これは対魔術師戦闘の基本だ。
だが……。
フォマは目の前の女を観察する。今の攻撃は「起こり」が分からなかった。少なくとも「微笑むこと」がトリガーになっているのは確実だ。今も、そしてさっき脱獄囚を塩の柱に変えたときも、彼女は微笑んでいた。
だが、それは早とちりかも知れない。魔術師にはそういう手合もいる。別に投げなくても良い石を投げたり、書かなくても良い紋を書いたり、しなくてもいい動きをすることで、相手に技の「起こり」を誤認させ、致命的な一撃をお見舞いして殺す。特にこういう「一撃必殺」の魔法を使う魔術師は、そうやって敵の油断を誘う。
フォマは深呼吸する。
今の攻撃を躱したのは、フォマのような死霊術師がよく使うテクニックの一つで、自分のストックしている死霊と自分の位置を入れ替えることで、敵の攻撃を肩代わりさせるものだ。
だが、位置を変えられるとわかれば、対処法は無数にある。少なくとも、この目の前の女は、次こそ確実にフォマを仕留めるだろう。
「あらあら、そういうことですか。あなた、神官かと思っていたんですけど……。死霊術師なんですね」
「神官の立場は返上したんで。……そういうあんたも、ウチが神官だったってよく分かるっすね」
「分かるに決まってるじゃない。あなた、洗礼を受けましたね。……洗礼名は、キルシュヴァッサー」
「……捨てた名前っす」
フォマは軽く返すが、その心の内では冷や汗が止まらなかった。死体に乗り移った相手のことを、フォマは邪悪なものか、それに類するものだと思っていた。例えば魔王のことを「お姉さま」と呼んでいたし、あるいはかつての魔王の手下なのかと。
だが、違う。
塩はそもそも、アズヴァル聖教を象徴するものだ。塩は聖なるもの。悪魔は塩を嫌い、聖なるものの加護を呼び寄せる。だからこそ、ロランド聖王国の王都の土は塩を多く含んでいる。王都はわざわざ農地にするには向かない場所に建てられたのだ。
「……あんた、何者っすか」
「どうして、下等な人間ごときに名乗る必要があるんですか? だってあなた、わたくしを知っているでしょう?」
その瞬間だった。一言で言えば勘だった。フォマは自分の心臓に鉛の釘を突き立てた。
何も起こらない。ただ、釘を突き立てた胸から赤い血が流れ落ちる。けれど、ありえないのだ。「何も起こらない」ことがありえない。それを一番理解していたのは、魔法を放ったマティアの体をした女だった。
「……何をしました?」
「へへ、当たりっすねえ。やっぱアンタ、『聖なるもの』ってわけだ。ウチも奥の手を切らせてもらうっすよ」
フォマのもつ釘は、鉛の釘。神の加護は、あらゆる金属に与えられる。特に銀と加護の相性はよく、エクソシストたちが銀の道具を用いるのはそのためだ。
だが、唯一。たった一つだけ、神の加護を受けない金属がある。それが鉛だ。
だからこそ異端審問は鉛の十字を下げる。そして、さらに魔術的な加工を付与したフォマの釘は「あらゆる神の加護」を打ち消す力を持つ。
「起こりの見えない魔法、つまり『エンチャント』ってわけっす。付与魔法だから、人に対して直接効果が出る。聖女を殺せる唯一の十二聖人、ってのがうちの売りなんすよ。……うちに、神聖魔法が効くとは思わんことっすね」
「へえ、生意気ですね。でも、心臓に釘なんて刺して、平気なのかは見どころですね」
平気などではない。これによって、フォマへの神聖魔法は無効化されるが、フォマが(というか、聖職者たちなら誰でもやっている)常に自分にかけている回復魔法も無効化されている。短期決戦でしかフォマに勝機はない。
「短期決戦は負けフラグなんすけどねえ……」
けれど、勝ち目はある。なぜなら、マティアの中に入った存在の正体について、フォマはなんとなく目星がついていた。だからこそ、まずは隙を作らなくては。
「うちも意外と勉強家なんすよ、こう見えて。十二聖人って仕組みができるよりもずっと前、ロランド聖王国では『教皇』がアズヴァル聖教を治めていた……。教皇ってのは要するに、その辺の依代にアズヴァル神を呼び降ろした奴っすよ」
「……ふうん、そこまで分かってるんですね」
ほとんど勘だが、それでもフォマは確信していた。
「あんた、アズヴァルっすね」
アズヴァル聖教の奉じる、創生の神。停滞とまどろみ、光と奇跡の女神。
突拍子のないフォマの言葉に、けれど目の前の女は口角を上げた。
「ええ。その通り。幻滅しましたか?」
「うんにゃ。ひとつだけ疑問なのは、どうして先輩とか魔王とかにぐっちゃぐちゃにされたマティアねーさんの遺体を使ったのか、ってことっすけど」
「そんなこと? たまたま具合が良かったんですよ。……そんなことはどうでも良いでしょう? あなたはあのクソ魔女の味方で、私はお姉さまの味方。つまり殺し合いです」
「いや、うちも魔王の味方なんすけどねえ……」
と、すぐにアズヴァルの魔法が飛ぶ。けれど、それは鉛の釘に弾かれる。それが合図だった。
アズヴァルは、魔王と決定的に違うところがある。それは決して空の上からこちら側に降りてきていない、ということだ。
魔王は完全に人間界にやってきて、人の世界に根をはやしている。けれど、リリン先輩から聞いた話では、アズヴァルは人間界に降りてくるほど人間を愛していない。だとすればアズヴァルは、神々の世界から何らかの魔法や奇跡を用いてマティアの肉体を動かしている。
つまり、マティアの体に釘を刺せば、すべて終わる。
「――全部、持ってけ!」
フォマは袖の内側からありったけの釘を投擲した。例え相手が神だとして、この量の釘をすべて撃ち落とすなんて不可能なはずだ。
大量の釘は熟練のコントロールでマティアの肉体に向かって殺到する。意外だったのは、アズヴァルが回避する素振りすら見せなかったことだ。釘はすべて、正確無比にマティアの肉体に突き刺さった。マティアの体はそのままゆっくりと地面に倒れる。
「……なんで躱さなかったんすか」
そう言って、フォマは自分の質問が無意味なことに気づく。だって、すでにこの死体はただの死体だ。釘が刺さっている限り、アズヴァルの依代になることは二度と無いだろう。
思いの外拍子抜けで、フォマはそのまま黒水晶を拾い上げる。
油断だろうか。それもあるかも知れない。アズヴァルは人間を慈しむが、それは人間を見下しているからだ。アズヴァルは人間のことを、『部屋に入った虫を見逃してあげる』みたいな、そういう愛し方をしている。そうだ。きっとアズヴァルは油断していた。
「油断してるのは、あなたではありませんか?」
死体が、喋った。
ゾッとしてフォマが振り返れば、思い切り振り抜かれた拳がフォマの鳩尾に入る。
凄まじい膂力。まるで巨大な魔物に体当りされたような破壊力だった。フォマの体はまっすぐに石の壁に衝突し、そのまま石の壁を破壊して、壁にめり込む。
「不愉快。不愉快です。このわたくしを計りましたね? このわたくしの器を、人間の分際で、計りましたね? ――不愉快」
二度目。次は蹴り。おそらく神の加護。引き上げられた筋力で放たれる、見た目以上の衝撃がフォマの腹にもう一度入る。胃の中身と血が混じったものが、フォマの口からあふれる。
「……ど、うし、て」
「どうして、鉛の釘が刺さったのに動けるか? 愚問ですね。わたくし、お姉さまをお救いするためにやってきたんですよ?」
もう一度、蹴り。次は心臓に突き立てた釘を目掛けて。
また、血が口からあふれる。フォマの焦点はもう合っていない。
「わたくし、ちゃんとこの世界にやってきたんです」
アズヴァルはフォマの頭を鷲掴んで、そのまま壁から引き抜いて、地面に投げ捨てる。フォマのうめき声。そのまま足でフォマの腹を踏みつける。
「不愉快。不愉快。不愉快。不愉快です。この釘を投げたってことは、わたくしが空の上にふんぞり返って、片手間に世界に干渉しに来たと思ったってことですよね? わたくしがお姉さまを救うために、椅子から動かないような怠惰な女だと、そう思ったってことですよね?」
そう聞きながら、アズヴァルは執拗にフォマの腹を踏みつける。まるで地団駄を踏んでいるようだった。
「不愉快! 不愉快! 不愉快! 苦しんで死になさい。あなたは苦しんでここで死ぬんです!」
フォマの意識は痛みで朦朧としていた。
思い出すのは、あの雨の日。異端審問官たちが全滅して、冷たい雨の中で死を待っていたあの日。美しい光の中で立っていた、リリン先輩。
……リリン先輩?
フォマの意識は、急速に覚醒する。違う。こんなところで死ねない。だって、フォマを殺すのは、十二聖人を殺すのは、リリン先輩でなくてはならない。
ここでフォマが死んだら、リリン先輩の目的が一つ、果たせなくなる。
フォマの目が、開く。
瞬間、フォマが這いつくばるその場に、巨大な門が出現する。フォマはこれを、『地獄の門』と呼んでいた。
「うちを殺すのは、アンタじゃない!」
門が開く。屍人の兵が鬨の声を上げる。




