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新しい朝

 朝の光。急速に意識が戻って、アカシャは上体を跳ね上げた。


 周りを見ても、魔女の姿は何処にもない。体中が寝汗でびっしょりと濡れていて、心臓がすごい速さで脈打っている。アカシャは深呼吸をする。大丈夫。生きている。痛みもない。魔女もいない。


 恐る恐る、自分の腕を見る。そこにあるのは、昨日までと同じ、アカシャの腕だった。


 ひょっとしたら、たちの悪い悪夢だったのかも知れない。だって、そうだ。ずっとあの魔女を恐れていて、急にその監視から抜け出したから、ああいう悪い想像をしてしまったんだろう。


 アカシャはそう自分に言い聞かせる。腕や足にも傷跡はない。


 けれど、すぐにそれはアカシャの眼にもとまった。


 それはベッドのシーツだ。どす黒い血が滲みて、固まっている。朝、寝起きに見る光景としてはおおよそ最悪の部類だ。アカシャの脈拍が上がって、呼吸が浅くなる。アカシャは意識的に深呼吸をする。大丈夫。落ち着け。


 もう一度腕を見ても、アカシャの腕はいつもどおりだった。思い返せば、魔女も「元に戻してあげる」と言っていた気もする。だとすれば、恐ろしいことだった。昨晩、たしかにアカシャの腕は真っ黒な影のマナに蝕まれて、膨れ上がり、泡立ち、ねじれた。それですら、あの魔女は修復してしまえる。それだけの力を持っていながら、あくまでも魔王の配下の一人に過ぎない。


 だとしたら。


 アカシャはあの日のことを思い出す。雨上がりの大地を踏みしめて帰ってきた、あの日のリリン・アズ・クロイライト。影のある表情で、静かに笑っていた彼女のことを。


 魔王の力を完全に受け入れて、そして共存している。


 まるで有り得ない話だ。それに、ただの魔王ではない。史上最悪の魔王、ベルナドット・ザス・カルトナージュ。最も残虐で、最も神に近い魔王。その力と意識を手懐けるなんて。


 アンジャ族の掟は、世界の調停者であること。世界を偏らせないこと。だから、族長は魔王の復活を阻んではいけないと言っていた。ロランド聖王国が世界に光をもたらそうとするなら、影を拒んではいけないと。


 けれど、アカシャはそうは思えない。


 あの力は、光と釣り合いがとれるような、生易しいものではない。もっと暗く、もっと凶悪で、そして邪悪なものだ。あれが蘇ったら、それこそ世界の均衡が崩れてしまうのではなかろうか


 そこまで考えて、アカシャは慌ててその思考を振り払った。そんなことを考えてはいけない。もう、アカシャ自身の命ですら、もうすっかりアカシャの手を離れている。もう、アカシャが出来ることなんかありはしなかった。


 アカシャは頭痛を振り払うようにベッドから起きて、顔を洗うことにした。着替えやシーツの洗濯も考えなければいけなかったけれど、まずは頭を冷やしたかった。





 カリナがいつもより早く学院に向かったのは、気がはやっていたというのもあるけれど、それ以上に気持ちいい朝だったからだ。


 涼しい風が吹いて、空気は澄み渡っている。空は透き通るように高く、太陽は眩しい。理想的な朝だ。学院のカリキュラムは主に騎士団を目指すか、帝国立魔導院を目指すかで変わってくる。学院の生徒の平民たちは騎士団よりも魔導院を目指す。誰だって命の安全は保証されている方が良い。


 けれど、規律を守れて最低限の体力があれば良い騎士団と違って、魔導院は本物の天才が帝国じゅうから集まる場所だ。それこそ、平民から多少見どころのあるアホをかき集めただけの学院で、頭一つ程度も抜けられない人間には無理な進路だ。


 実家の鍵屋を継ごうとは思わない。魔導鍵の技術には自身があって、その関係で数理学も多少は分かる。でも、カリナはそれだけだ。きっとカリナは騎士団に行く。命の危険はあるけれど、平民が立身出世しようと考えるなら、それは必要なリスクだ。


 金で爵位を買うのも、命で爵位を買うのも、似たようなものだ。


 そのためには体力が必要だった。だから、カリナはこういう気持ちのいい朝は走ることにしている。学院の訓練場には水浴び場があるから、汗は学院で落とせる。


 学院に向かう途中、カリナは必然的に寮舎の前を通ることになる。そこに居たのは、籠いっぱいになるような洗濯物を運んでいるアカシャだった。


「アカシャ! おはよう」


 少し嬉しくなって、カリナは声をかける。かけてから、あまり自分らしくないかも知れない、とカリナは少し反省した。けれど、そういうことは気にしないとも決めたばかりだった。


 カリナの声に、アカシャが籠を抱えたまま振り向く。


「……ああ、カリナ。早いんだな」

「一日目からすごい量だな。洗濯? オレも運ぶの手伝うよ」

「あ、いや……」


 アカシャの目には戸惑いが浮かぶ。遠慮しているのだろうか。カリナは少しだけ踏み込んだ。


「遠慮しなくていいって」


 カリナは籠をつかもうとするが、アカシャはそれを拒んだ。


「いや。遠慮する。元はと言えば自分で蒔いた種で……。いや、大丈夫だ。ありがとう」


 アカシャはそう言って、歩いていこうとする。カリナは手を伸ばそうとしたが、やめた。本人があれだけ拒むなら、あまり聞かずに放っておく方が良いかも知れない。


 あの洗濯物の量はなんだろう。シーツ? だとしたら、あれだけ拒むのなら……。カリナはアカシャが寝ている間に「粗相」したのではないかと勘ぐって、頭を横に振った。いくらなんでも失礼過ぎる妄想だ。


「あ」


という声がして、カリナはアカシャに目線を戻す。籠いっぱいの洗濯物が、風のせいか、それとも石畳に躓いたのか。いくつかが落ちて、石畳の上に散らばる。落ちたいくつかの洗濯物に隠すように、丸められたシーツが詰められている。


 それは、真赤な血の色に染まっていた。


 カリナはそれを見て、すぐに目線をそらした。血? 女の子の日? もしかしたらアカシャは重いのかもしれない。いや、そんな感じじゃない。生理とかそういう量の血じゃない。


 アカシャは慌てたように洗濯物をかき集め、そして走っていく。カリナはそれを追いかけようとしたけれど、すぐに背後からの声が引きとめた。


「やめといたほうが良いっすよ」


 振り返れば、そこに居たのは桃色の髪に、翡翠色の瞳をした少女だった。学院の制服を着ているけれど、こんな少女が居ただろうか。こんな可愛い女の子が居たとして、それを知らないなんてことがあるだろうか。カリナはそこまで考えて、その疑問に意味はないと気付いた。


 それは言わば、勘のようなものだ。何か背中を撫でるような不穏な気配。前に感じたのはいつだっただろうか。そうだ、あの時。アカシャと一緒にパンケーキを食べた、あのお店に居た銀髪の美女。あの人と似た空気だ。


「……アンタ、誰?」

「はじめまして、ってことになるんすかね? ウチ、……。あ、いいや。名前とかいいっす。覚えないでね。カリナちゃんだったっすか? あーーー、良いっす。反応とか。ウチ、言いたいことだけ言って消えるんで」


 そう言う少女は真剣な表情をしている。


「まあ、カリナちゃんは知ってると思うっすけど、アカシャちゃんはなんてーか、面倒な魔女に目ェ付けられてるんすよ。でもね、倫理観もクソもねえ最悪な女っすけど、『あのお方』に牙を向けないやつを節操なく襲うようなやつでもないんす。結論から言えば、カリナちゃん、あんた、危ないっすよ」


 少女はその美しい顔に、何か仄暗いものを浮かばせている。


「ウチ、先輩以外のことはどーでも良いんすけど。でも、そうと知らずに底なし沼に踏み出そうとしているアホを引き留めるくらいの善性はあるんすよ。ほんと、セーシュンのいっときの感情に流されて、あんな超ヤバイ一級の魔女に目ェ付けられるなんてアホっすよ。マジで。忠告したっすからね」

「……質問、良いか」

「ハア。ウチの素性とか以外なら」

「……その制服、うちの生徒なのか?」


 カリナがそう聞くと、目の前の美少女は大口を開けて笑った。


「ウチのこれはコスプレっすよ」


 そう言って、桃色の美少女は手をひらひらと振って消えていった。

 

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