しあわせな未来のために
たぶん、カリナは優しい子だ。
まだ荷ほどきの終わらない、閑散とした寮。そのベッドの上に寝転がって、アカシャはそんなことを考えていた。だからこそ、彼女をアカシャの事情に巻き込んではいけない。
木々の少ない帝都の風は、森よりも強い。開けたままの窓から吹き込む夜風は、するするとアカシャの部屋に流れ込んでくる。なぜかカリナのことを考えると、自然と心が安らいだ。
銀色の月が出ていた。
「あら、楽しそうじゃない」
急に、目の前に魔女が現れた。開け放たれた窓枠に、文字通り出現した。
「……ヒッ!」
アカシャは思わず飛び退き、後退りする。月を背負って、影になった表情は見えない。けれど、見間違えるわけがない。エステル・レカンフルール。
「そんなに怖がらないでよ。少しは傷つくのよ? ……まあ良いわ。今日から学院生活だったのね。とっても楽しそうだったじゃない」
見ていたのか、と言おうとしたけれど、アカシャの口は上手く動かなかった。未だに体に染み付いている。あの、生きたまま物言わぬ花束にされる感触。ただ自分が無力に変えられていく感覚。逃げたくても、腰が抜けて逃げられない。
「まあ、良いわ。アンジャ族の族長さんに言われて、あなたを元に戻してあげたけど……。正直、ワタシはまだあなたのことが許せないのよね」
「ゆっ、許してください! も、もう二度とあんなことは言わない! リリン様とベルナドット様に逆らおうなんて……!」
「そういう話じゃないのよ。言葉だったら何だって言えるわ。特に、追い詰められた時はそう」
もう逆らう気なんてない。それがアカシャの本心だった。完全に足腰の力が抜けて、動く気配もない。もしも寝る前に厠に言っていなければ、失禁していたかも知れない。
「あなたにチャンスをあげるわ。……自由になるチャンス」
窓枠に座っていた小さな魔女は飛び降りて、ゆっくりと近づいてくる。そして、その指がアカシャの首筋を撫でた。
この首には、エステルによって魔術が仕込まれている。アンザス山脈を抜けて帝国に来る途中、夜中、皆が寝静まっている中でかけられた。エステルが少し念じるだけで、首の中に埋め込まれた魔術が起動して、鋭い茨がアカシャの体の中でのたうち回る。
最初はアカシャにも反抗心があったけれど、何度も血を吐いて、そんな気持ちは無くなってしまった。この茨は首から体中に伸びて、アカシャの体を再生しながら傷付け続けることができる。もう、あんな苦しみを味わいたくはない。
だけど、本当にこの眼の前の魔女は、アカシャを開放したりするのだろうか。一度神経を逆撫でてしまったが最後、二度と開放されることなんてないと諦めていた。
「ワタシ、少し気を揉んでいることがあるの」
そういうエステルを、アカシャは怪訝に見つめるしか無かった。気を揉む? この魔女であれば、どんな不安材料があったとしても、すぐに排除するだろう。
そんなアカシャの視線を感じたのか、エステルがアカシャの眼を覗き込む。背筋に冷たいものが這い上がって、アカシャの体は恐怖でガクガクと震える。
「ねえ、リリンさんとあのお方を見ていて、思うことはない? あんなにお互いに思い合って、通じているのに……。二人は触れ合うことができないの。今日だって、あなたも会ったでしょう? 二人は通じ合っているかも知れないけど、ワタシ、あのお方が当たり前の幸せを享受できないのは……問題だと思うのよ」
正直に言って、アカシャは恐怖で話の半分も聞けていなかった。自然と眼からは涙が溢れてくる。
「でもね、この前リリンさんとお話していたら、とっても素敵な話を聞いたのよ。『黒水晶』の力で、影の世界で二人は手をつないで、こっちまで歩いてきたんですって。ロマンチックよね……」
すると、キラキラした表情で上を向いていたエステルが、不意にアカシャの顔を見る。
「思わない?」
「えっ!?」
「は――?」
唐突に顔を曇らせるエステルを前に、アカシャは気付く。肯定しなければいけない。
「おっ、思います! すごく、思います!」
「そうよね! やっぱりそう思うわよね!」
そう言って無邪気に笑う様は、中身が年相応の童女だったら、どれだけ平和な光景だったことだろうか。けれど、あの中身は魔女だ。それも、史上最悪の部類。
「ともかくね、たとえあのお方の体が物理的に失われていても……。情報は残っているって言うことなのよ。リリンさんはそれまで知らなかったはずだから、きっと、あのお方の魂の中か……、もしくは、黒水晶。そのどちらか」
それでね、と、魔女は楽しそうに語る。
「情報があるってことは、もう一度作り直せるってことなのよ。ほら、たとえばこの世界に一冊しかない本が焼けてしまっても、誰かが写本を作っていたり、暗唱したりしていたら、もう一度作り直せるじゃない。それと同じことをして、あの二人に幸せなひとときをプレゼントしようと思うのよ!」
そう言って目を輝かせるエステルに、アカシャは丁寧に言葉を選んで応答する。
「……それは、とても、素敵、ですね」
「そうでしょう!? ……でもね、問題があるのよ。影のマナはリリンさんがたくさん集めてくれているから問題ないのだけど……。材料がね、足りないのよ。いいえ、人のカタチを作るだけなら、その辺から魔力のよく馴染んだ子供を一人二人連れてくれば問題ないんだけど……。それまでに、うまくいくようにテストが必要でしょう?」
ぞくりと。アカシャの背に冷や汗が流れる。雲行きが怪しい。
「……だからね、あなたの体で実験させてほしいのよ」
叫びだして逃げようとしたけれど、アカシャの体はピクリとも動かなかった。その代わり、恐怖で体中から冷や汗が吹き出して、毛穴が開き、涙が出て、体が震えて、奥歯がガチガチを鳴る。叫び声の代わりに、唾混じりの空気が肺から漏れる。
「いっ、いっ、いっ、嫌、たすっ、たっ、たすっ、けっけて、くだっくっ」
「もう、そんなに怖がらないでよ。別に、あなたの体を変えちゃうわけじゃないのよ。あなたみたいな低俗なエルフの体、あの御方の体の材料にできるわけないじゃない」
「じっ、じゃっ、じゃあ」
じゃあ、どうするつもりなんですか。アカシャがそう質問しようと口を必死に動かしている間に、エステルがアカシャの手を掴む。その手と反対の手には注射器があった。アカシャが腕を振りほどこうとしても、エステルの手を振りほどくことが出来ない。
「やっ、やめっ、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「もう、そんなに怖がること無いのに。大丈夫よ。あなたが壊れちゃうことは……多分無いわよ」
やめて、と言う前に注射器の針がアカシャの手に突き刺さった。その注射器に入っているのは、真っ黒な油のような液体。見たことがある。影のマナだった。
叫び声を上げるまでもなく、注射器を打ち込まれたアカシャの右腕は真っ黒に膨れ上がり、肉が蠢く。あまりの痛みに声を上げそうになったが、それよりも早くエステルの茨がアカシャをベッドに磔にして、口を塞ぐように巻き付いた。茨の棘の痛みもあったはずだったけれど、注射器を討たれた腕の痛みにかき消される。
「ふーん、反応が思ったより強く出たわね。やっぱり影のマナは他より馴染みづらいのかしら? もっと簡単に肉を変成させられたら楽なんだけれど……。今日はこれだけよ。大丈夫よ、どれだけやりたくても、ちゃんと反応を見ないと実験にならないんだから。あ、あと痛かったら気を失ったほうが楽よ? 安心していいわ。あなたが起きる頃には、ちゃんと元通りにしておいてあげるから」
エステルの言葉が、ただの音としてアカシャの耳を通り抜けていく。痛い。苦しい。なんで、どうしてこんな目に合わなければ行けないんだろう。
あまりの痛みのせいか、次第に痛覚が麻痺して、何も感じなくなる。ただ、自分の腕がブクブクと泡立っているのだけが見える。
そして、アカシャは気を失った。




