神聖でない彼女の話・後
占術師たちは、最初、私の言葉を聞いても動くことはありませんでした。
しばらくして、口を開きます。
「……恐れながら。世は乱れ、魔物は人の世に巣食い、神は憂いておいでです。それを救えるのはあなたしか居りません」
「急にそんな話をされても、困ります。私は私を育ててくれた人に恩返しがしたい。ここには何もありません。食べ物も、知識も、安全も。明日への希望も。夢も。そんな中で私が食べるに困らず、知識を得て、安全に育ち、希望と夢を胸に生きてこれたのは、母たちと、祖父と呼べる人たちのおかげです。神が、神官が、貴族が、王が、私たちに何をしてくれましたか」
断る理由は、スラスラと出てきました。最初から私は、誰かではなく自分のために生きていたかった。
「私は、私を救ってくれた、いちばん身近な人のために生きます。だから、皆さんの提案には首を立てには触れません。……どうか、お引取りを」
占術師たちのうち、一番奥の一人が身を乗り出しましたが、それを一番手前の一人が手で制します。おそらく、ずっと喋っていた彼が一番偉い人だったのでしょう。
「リリン様。ですが我々も、ここですごすごと引き返すわけにもいかぬのです。どうかお考えを。あまり言いたくはありませんが、こんな場所で一生を朽ち果て、使い果たすのと、正教会の宮殿で暮らすこと。どちらが良いかを忘れないでいただきたい」
不思議と、その正教会の宮殿の暮らし、というのは魅力的に思えませんでした。ビルの言葉がなければ揺れていたかもしれません。けれど、彼はこう言っていました。「自分自身の人生を手に入れろ」と。
「何を言われようと、私の気持ちは覆りません」
「そうですか。我々は一つの週が終わった頃、もう一度同じことを訪ねに参ります。どうかそれまでに、お考え直しを」
「何度来ようと同じです」
私がそう言い切ると、占術師たちはそのまま、あてが外れたといった様子で帰っていきました。このとき、私は本気で、この場所に骨を埋める覚悟でした。今まで一度だって、ビルが間違えたことはなかったから。
けれど、占術師が最後に残した言葉が、私の心に刺さって抜けなくなりました。彼らは最後に、こう言い残したのです。
「誰に何を吹き込まれたは知りませぬが、裏切り者の言葉を信用してはなりませぬぞ」
と。
◆
それから一週間が立ちました。雨は止む気配がなく、むしろ風は強まるばかり。嵐がマナの乱れを引き起こすこと、豪雨のさなかの稲光は、マナの偏重が起こす魔導現象であることを、私はビルから教わって知っていました。
その日、あまりにも事は突然でした。スラム街に稲光が落ち、その稲光が、スラムの下水に淀んだ腐ったマナに命を与えました。生まれたのは、多くの魔物の群れ。
もちろん、当時の私はそんなことを知る由もありませんでした。ただ、街中から響く悲鳴と、良くない空気が私を動かしました。
そして、魔物たちは私の住む娼館にまでやってきました。私は母とともに逃げました。王都の門の中にさえ入ることができれば、王国の騎士や魔術師たちが助けてくれるはずだったからです。
しかし、現実は非情でした。長く続いた雨のせいか、それとも稲光のせいか。スラムから王都に伸びる橋は完全に崩落していました。ですが、私たちの後ろに続く他の人たちはそれを知りません。雨のせいで荒れた川に飛び込んだが最後、きっと生きて帰れないことは誰にもわかりました。
ですが、魔物から逃げる者たちは、次々と食われ、死んでいきます。
魔物から逃げたい一心で川に向かうもの。
川に落ちまいと魔物の方へ動くもの。
となれば、結果は悲惨なものでした。人々は魔物に食われ、人々は川におちていき、そして、そのどちらでもない者は誰かと揉め合い、人に踏まれて死んでいきました。
私の母は、一人が私をかばって死に、一人は行方知れず、もう二人は私の目の前で魔物に食われました。ビルにはついぞ会いませんでしたが、あの地獄で、一人の老人が生き延びているとはとても思えませんでした。
人々が死に絶え、家族も失い、私は一人、崩れ落ちた煉瓦塀の後ろで息を潜めました。冷たい雨は私の体温を奪いましたが、そのおかげで、熱を見る魔物たちの目は欺くことができました。
そんな私のもとにやってきた人が居ました。
王立占術院の占術師です。
「主よ。約束のときです。答えをうかがいに参りました」
「どうして、もっと早く来てくれなかったんですか」
「我らはこれを知っていました。だからこそ、それよりも早く、貴方の元へ参ったのです」
それは、反論の余地のない言葉でした。確かに、彼らは私に忠告していました。
それが、私を苦しめました。
もしもあのとき、私が銀のロザリオを手にしていたら。私の運命は変わっていたのかもしれない。
四人の母は、ビルは、死ななくて済んだかもしれない。
だから私はロザリオを手にしました。
その時、私は誓ったのです。全ての魔物を抹消し、世界に平和を取り戻すことを。
◆
焚き木が、パチパチと音を鳴らす。リリンが薪を焚べてやれば、弱くなっていた火がもう一度力強さを取り戻した。
「リリンが聖女になったわけは、まあ。分かったけど」
「まだ何か?」
「君はもう十分に、魔物に立ち向かう力を持っているじゃないか。どうして聖剣を求めるの?」
「……それこそが、私怨の私怨たる所以です。私はビルを許さない」
許さない。おおよそ聖女の言葉ではない。ボクは驚いて、リリンに聞き返す。
「許さない? リリンはその、ビルという老人に感謝しているように聞こえたけど」
「ええ。私はあの男を信じていたがゆえに、選択を間違った」
「それだけじゃないように聞こえる」
「……そうです。あの男は、最初から私を騙していた」
ボクは眉をひそめる。いや、小鳥の姿のボクに眉はないけれど、そういう心境だった。
「騙す?」
「ええ。ビルは教会を追放された大罪人の背教者。銀の聖剣の在り処を秘匿し、決してそれを抜いてはならぬと、聖女を二度と生み出してはならぬと、そう主張し続けて教会を追い出された罪人だったのです。考えてみればおかしな話です。あれほどの教養を持った人間がスラムにやってくる理由」
リリンは唇をなめて、まくしたてるように言った。
「彼が私にあんな事を言ったのも、私にいろいろなことを教えてくれたのも、全て教会に逆らうためだった。私が感じていた恩も、喜びも、情も、すべてウソだった! だから、私は自分自身の弱さを断ち切るため、なんとしても銀の聖剣を見つけ出し、過去の因縁を断ち切らなければいけないんです」
一通り言い終わった後、リリンは「すみません、少し興奮してしまって」と誤り、俯いた。
聖剣に封じられていた身からすると、その話はなんだかチグハグに聞こえる。聖剣を抜いたらボクが復活するわけだから、教会のやり方のほうがよっぽど背教的だ。
まあ、ともあれ教会が聖剣を手に入れたいなら好都合。久々に人間とウィンウィンの関係だ。人間は聖剣を手に入れられて嬉しい。ボクはもう一度人間を苦しめることができて嬉しい。完璧だ。
そう考えてみると、人間たちの気持ちも少しわかってくる。確かに、今までのボクは人間を苦しめることばかり考えていた。それではいけないのだ。人間からしてみたら、ボクは邪魔者でしかない。
けれど今回の場合は違う。たしかにボクはこれから人間を苦しめたり、殺してみたり、拷問してみたり、うまいこと新しい遊びに使ってみたりするつもりだけど、今回は人間にも得がある。銀の聖剣を手に入れられる、という得だ。これぞまさしく助け合いの精神。
「それじゃあ、リリン。なんとしても銀の聖剣を手に入れなきゃね」
「……そうですね。ありがとう、精霊さん」
ボクは微笑む。いや、小鳥の姿のボクは微笑めないけど、そういう心境だった。
ほら、とボクは指をさす。木々が揺れ、真っ赤な炎みたいな朝日が、東の方から木々の間をぬって走ってくる。
「夜明けだ」