嵐
アンジャ族たちは、その場所を精霊廟と名付ける。
一際大きな一枚岩が鎮座しており、その中央に削り取られた石階段。一枚岩の周囲に貼られた天幕は極彩色の様相を呈する。一枚岩を「ラッカラ」と言い、これは古代エルフたちの言葉でハクトウワシを意味する。ここは、アンジャ族たちにとっての世界の始まる場所だ。
一枚上の上に築かれた祭壇に座るのは、一人の老いたエルフだ。性別がわからぬほどやせ細った体。悠久の時を経て生きるその人こそ、アンジャ族の長だ。
もはやその体はヒト種としての活動を完全に終えており、苔がむし、若木が根を張っている。ただマナだけが生きているヒトと同じように循環し、それが人のかたちをしただけの石でないことを示している。
「偉大なるアンジャの頭よ、申し上げたいことがございます」
その前に跪くのは、イザンデの腕にしてラッカラの眼。アンジャ族の七の役職の二つを持つ、当代一の天才。すぐれた戦士であることを示す『腕』と、顕学であることを示す『眼』。アンジャ族の中でも一目置かれる優れた狩人。すなわち、アカシャだった。
美しい金の髪を風に流すアカシャ。森がこれほどまでにざわめくのは、アカシャの短い人生の中でたった一度。百年ほど前、まだ幼かった頃の話だ。ロランド聖王国の魔物たちが一斉に凶暴化したあの日以来。
跪くアカシャに、声がかかる。
「……ラッカラの眼よ。申せ」
「我らが客人、リリン一同は急ぐ旅だと、貴方様との謁見を断り、『繭』の討伐に向かいました」
その言葉に、辺りの高齢のエルフたちがざわめく。彼らはそれぞれの集落の長で、長老会の厚生委員たち。長老会というのは、アカシャに言わせれば頭の固い老人会だ。
「……急ぐ旅か。まさか、この影の潮流をもう一度見る日が来るとはな」
「はい。……百年前を思い出します」
「魔王。ベルナドット・ザス・カルトナージュ」
「天より墜ちた始祖の一人でしたか。次の宿主もまた、美しい少女でした」
「リリン。なるほど、聞いた名前だ。ロランドの子孫たちは、その少女を異端として追っていると、森が申しておる」
「だから、急いでいたのですね。どうしますか、捉えて王国に引き渡せば、貸しを作れるかと」
アカシャの言葉に、アンジャの頭は唸り声をあげる。
「ならぬ。我らの普遍の掟は調和と融和。ゆめゆめ忘れるな。ロランドの子孫はいささかアズヴァルだけを奉りすぎる。アズヴァルの与える安寧と停滞は人の子には心地よいものだが、それが招くのは世界と種の停滞、すなわち滅びだ。ベルナドットの齎す破壊と苦難があり、ようやく世界は前進する。枯れ木なくして若木は生まれぬ。木々の倒壊が齎す林上の光の冠が、森に新しき風を吹き込むのだ」
アカシャの頭はそうまくし立てる。アカシャはただ頭を下げた。
「承知いたしました。では、彼女らに私たちが干渉する必要は?」
「ない。我らはベルナドットの分霊を返還し、その見返りとして災難を打ち払っていただく。神霊に関わるとはそういうことだ。過不足があってはならぬ」
アンジャの頭はそう言ってから、「もう良い、下がれ」と告げる。アカシャは一礼し、ラッカラの祭壇から降りた。背中からは、長老会の老人たちのヒソヒソとした声が聞こえる。少しだけ不快だった。アカシャにしてみれば、集落の長たちは怠惰だ。何もせず、流れに身を任せ、それを自然との調和であると嘯く。
ふと、強い風に混じって冷たいものが頬に当たる。空を見上げれば、木立の向こう側で雲が渦巻いていた。
嵐が来る。
◆
風が強く吹いている。木々は強すぎる風に揺れ、葉が擦れる音がざわざわと不吉な音を立てる。
かつてアンジャ族の集落だった場所、その木々の合間に、『黒い繭』は鎮座していた。私は耳飾りを触る。本当は嵐が過ぎ去るまで待ちたいと思ったけれど、そんなことできなかった。私はベルを取り戻す。立ち止まってなんか居られない。まだまだ殺さなければならない相手は沢山いる。
私の我儘に付き合わせるのも気が引けて、誰にも言わずにやってきた。でも、あまり気負いはない。たぶん私だけで十分だ。だって、相手はベルの力を奪ったと言っても、所詮はたかが第十二席程度だ。
黒い繭から、むせ返るほどの影のマナが放たれている。繭からは真っ黒なマナがドロドロと地面に滴り、まるでベルの『玩具箱』のような水たまりになっている。
いつもよりも、視界が晴れ晴れとしている。感覚も鋭い。マナの流れも手にとるように分かる。前は不意打ちを食らったけれど、次は同じ轍は踏まない。同質のマナに長時間当てられると、「わたし」と「世界」の境界が曖昧になって、俗に言う「マナ酔い」になることは有名だ。まさかベルと同質のマナに襲われるなんて想定していなかったけど、分かっていれば気合でなんとかなる。
「マティア。ベルを返してもらいに来ました」
虚空から聖剣を抜く。もはや今の私にとってはただの丈夫な剣に過ぎないそれは、けれどそれで十分だった。聖剣の力なんか無くても、今の私にベルの力がある。
繭が胎動する。まるで巨大な心臓のように蠢き、一度鼓動するたびにビチャビチャと音を立てて真っ黒な影が繭から溢れ出す。
『き、き、来たんですね。で、でも、駄目です。ベルナドット様は、あ、あげられません』
「へえ、理由を聞いてもいいですか?」
繭が、割れる。真っ黒なマナの中から、ゾルゾルと気味の悪い音を立てて人形が体を起こす。真っ黒な長い髪、大きな瞳、高い背丈、大きな胸。その見た目は間違いなくマティア・コルンだったが、決定的に違う。背中から広がるのはまるで蝶のような真っ黒な羽。足元の影は、まるで沸騰したようにぐつぐつと波打つ。
『――ベルナドット様に、グチャグチャにしてほしいんです』
落雷。近くに落ちた。雨足が急に音を立て始め、ひっくり返したバケツのような大雨が急にやってきた。同時に焦げ臭い匂いもする。どうせこの雨ですぐに消えるだろうが、山火事だ。落雷のせいだろう。
「してもらえばいいじゃないですか。なんなら私がやっても構いません。だから、ベルは返しなさい」
『だ、駄目です。そんなことできません』
「……なぜ?」
『だ、だって……。駄目なものは、駄目です。だって、もう、貰っちゃいましたから。べ、ベルナドット様はわ、私のものです!』
今、なんて言った?
「……今、なんて言った?」
ベルが、マティアのもの? は? 私はよく分からなかった。意味がわからない。どこまで本気で言ってる? だって、誰が、どう考えたって、ベルは私のものだろう。耳鳴りがする。いや、耳鳴りじゃない。耳飾りだ。耳飾りが震えている。力が、流れてくる。奥底から、湧き上がる。影のマナ。
ベルの力だ。
ベルはいない。だから、この溢れ出る力を、全部使うのは私だ。腕にしたり、糸にしたり、そんな繊細なことは私には出来ない。だからシンプルに行く。ただ力を。ただ出力を。大抵の生き物は、剣で心臓を貫かれれば死ぬ。
踏み込んで、斬る。マティアは腕を十字にして防御をしようとしたが、容易い。腕ごと叩き切る。鈍い音。肉に剣が食い込む。
『いっ、ひっ、ぐ、うあああ!』
マティアは腕に剣を入れられ、苦悶の声を上げる。だが、まだ足りない。私は剣を押し込む。骨を断てなかった。想像以上に硬い。けれど、関係ない。押し込む。押し込めば、大体のものは折れる。
折れれば、剣が心臓に届く。
「思ったより頑丈じゃないですか。粘らないでくださいよ。面倒くさい! 折れろ! 折れろ! 折れろって言ってるだろうが!」
『痛い、いだっ、痛い痛い痛い!』
「死ね! 死ね! もう一度言ってみろ! ベルが、誰のものだって!?」
そのまま私はマティアを押し倒して、馬乗りになる。剣を持つ手に力を入れれば、ミシミシと言って、マティアの腕は折れた。骨はささくれだった木のように腕の断面から突き出す。そのまま押し込めば、その胸に剣が食い込んだ。
『い、痛い、痛いって! い、言ってるじゃ、無いですか!』
足元の沸騰する影から、無数の腕が飛び出る。それらはリリンの足を捉え、体に絡み、肩を掴み、腕を引く。ベルがよく使う、『玩具箱』だ。でも、だからどうした? その辺りの雑魚ならともかく、私にこんなものが効くと思った? 舐められている。我慢ならない。いつもの私なら思いもしないような苛烈な感情がどんどん溢れ出る。
「このっ、雑魚が……! あっ、ぐ、あああああ!」
絡みつく腕なんか、どうでも良い。まず殺す。目の前のこの女を殺す。ただでさえ十二聖人で、その上私のベルを奪おうとした。許せない。二度とそんな出過ぎたことを考えられないようにしてやる。もう二度と、十二聖人どもに私のものを奪わせてたまるものか。
押し込んだ剣をもう一度振りかぶる。力任せに叩きつける。
『ぐぁっ、うっ、うぇ』
「言ってみろ! ベルが、誰のものだって!?」
もう一度。
『ぐぅあっ、ああっ、うぇ』
「言ってみろ!」
叩きつけるたびに、血しぶきが飛ぶ。血は真赤だった。真っ黒な水溜りの上に、真赤な血が散乱していく。何度も叩くうちに、マティアは動かなくなった。
「……ベルは。ベルは、ベルは!」
肩で息をする。雨がうるさい。
「ベルは、私のものです」




