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雨の匂い

「これで良いのか」


 そう言ってアカシャが持ってきたのは、水が一杯に入った陶器と、縫い針だ。頑丈な布を扱うアンジャ族の針は、太く鋭い。


 耳飾りをつけるための穴。それを開ける時、そこから膿んでしまうという話は、フォマも聞いたことがあった。自分のせいでリリンが嫌な思いをするのは御免だから、しっかりと煮沸して清潔な針を使いという考えだった。


 フォマはその浅い陶器を火にかけて、その水の中に針を入れる。


「我はもう行く。この天幕をお前たちで使ってもらって構わん。……リリンの容態は大丈夫か」

「おかげさまで、さっき目が覚めたんすよ」

「それは良かった。あれ程のマナに当てられれば、気分が悪くなってしまうのも致し方あるまい。我も不用心だった。自分と同質のマナに当てられた人間がどうなるか、少し想像すればわかることだった」

「いやいや。仕方ないっすよ。リリン先輩がそんな倒れ方するなんて、うちらもちょっと想像出来なかったっす。……うちがしっかりしてれば良かった」

「……フォマと言ったな?」

「へ? はい、そっす。フォマっす」


 アカシャはその綺麗な顔をフォマに近づけて、目を覗き込む。


「な、なんすか?」

「不安があるならば言ってくれ。少なからず、我らはあの敵を打ち払うための(ともがら)だ。この森の先達として、お前たちの力になれる」


 その真剣な眼差しに、フォマは肩の力が抜けてしまった。フォマにとってはこの上なく重要で重大な話でも、彼女たちアンジャ族にとっては関係のない話だろう。


「いや、大丈夫っすよ。ちょっと色々あったんすよ」

「そうか。無理はするな。……ところで、族長への謁見が許された。お前たちを族長の元に案内したい」

「遠慮するっす。肩が凝るようなの、苦手なんすよ」

「……そうか。まあ、お前たちがそう言うなら無理強いはしない。深くは聞かぬが、何やら急ぐ旅であるようだからな」


 そう言い残すと、アカシャは足早にその場を立ち去った。


 何か歯切れの悪いような心地になって、フォマはモニョモニョと口を動かしていたが、やがてため息をついた。どうしてこんな気分なのか。理由は簡単で、それはリリンに関することだった。


 フォマはリリンが好きだった。それはフォマ自身が愚かだったせいもあって、フォマは列聖委員会という組織がどんな組織なのか、分かっていなかったのだ。その場の勢いで飛び出してきたけれど、そもそもリリンを苦しめた原因がフォマにもあることは確かで、だからこそフォマにリリンを引き留める資格も、リリンに何かを求める資格も無い。


 リリンがフォマに死ねと命じたらフォマは死ぬだろう。リリンがフォマを苦しめたいと言えば苦しむだろう。でも、リリンがいつもの痛切な表情でフォマに生きてほしいと願ったとしたら、その時は死にたくなるかも知れない。


 沸騰した水の中から、匙を使って針を引き上げる。結局フォマは自分が何をしたいのかもよく分からないまま、リリンの名前を呼んだ。





 天幕の下。異国情緒ある色とりどりのタペストリーに囲まれた寝台の上に、リリンは居た。目線はどこか遠くをぼうっと見つめていて、隙間から差し込む光は、その美しい銀色の髪を照らしている。


 やっぱり綺麗な人だな、とフォマは思った。


「リリン先輩」


 呼べば、夏の日の水底のような瞳が、フォマを捉える。無色透明だったリリンの顔の上に、笑顔が作られる。


「フォマ。随分かかっていたみたいですけど、アカシャさんですか?」

「そっす。まあ、うちが針の消毒してたのもあるんすけど」

「気にしなくてもいいのに。私は大丈夫ですよ。……多少なら、簡単に治るみたいですし」


 リリンの体は影のマナで少しずつ作り変えられている、というのは聞いていた。でも、フォマはその話を聞きたい気分ではなくて、曖昧に笑った。


 別に、リリンがリリンらしく生きてくれればそれで良い。その中にフォマの居場所が無かったとしても、フォマにとってはそれで良かった。けれど、それでも、嫉妬してしまう。リリンがリリンのために生きようとした時、どうしてフォマではなくて、魔王だったのだろう。


 フォマは誤魔化すように笑って、寝台のリリンの左隣に座る。


「先輩、開けますよ」

「お願いします」


 リリンは首を傾けて、その長い髪を除けるようにして、左耳を見せた。白い首筋が、すっと浮かび上がる。フォマは少しドギマギしながら、そっとその耳を触った。


 黒水晶の耳飾りは一つだけだから、開けなければならない穴も一つだけ。


「痛かったら、言ってほしいっす」

「大丈夫ですよ。もっと痛い経験、いくらでもしてますから」


 フォマはそれに答えようとして、上手い答えが思いつかなかったからやめた。


 針を手に取る。まだ少し熱い。リリンの耳は少し小さくて、可愛らしい。目を瞑って針を通されるのを待つリリンの姿はどこか艶っぽくて、フォマは少し恥ずかしかった。


 フォマは思う。こんなふうに、平和に、ただリリンの側にいることが出来たなら、どれだけ良かっただろう。でも、そうはならなかった。リリンは教会に攫われ、殺し合って、そして聖女と呼ばれてからも戦い続けた。フォマは家が嫌で出家して、その先でチヤホヤされて、なんとなくこれで良いと思っていた。


 奪われ続けたリリンと、ただ環境を甘受していたフォマ。きっと並んで歩くことなんか出来ないし、もしそうでなかったら、魔物たちの亡骸で出来た小高い丘に立つ、返り血に濡れたあの日のリリンに会うこともなかった。


 針の先をリリンの耳たぶに押し付けると、すっと針は通っていった。


「んっ」


 リリンが痛みに耐えるような声を漏らす。赤い血がぷっくりとにじみ出る。針を抜いて、その血を布で拭う。


「……開いたっすよ」

「フォマ、付けてください」


 リリンは左耳を見せる格好のままでフォマに言う。フォマは頷いて、耳飾りを手に取る。リリンの体が少しずつ作り変えられているというのは本当らしく、すでに穴は半分くらいの大きさになっている。


 耳飾りを、耳に開いた穴に通す。真っ黒な水晶は、リリンの銀の髪によく映えた。


「リリン先輩、つきましたよ」

「……どうですか?」


 リリンはそう言って、左耳を見せるように髪をかきあげた。どうって、どういう意味だろう。フォマは少し困って、「似合ってるっすよ」と答えた。


 少しうっとりとしてリリンは左耳の重みを手で触っていた。その姿を見ていると、フォマはどんどん胸が苦しくなっていくのを感じた。リリンに顔を見せなように、フォマは顔をそらす。嫌だ。


 嫌だ。リリンの側に居られないことが。リリンにはもっと大事なものがあることが。それならいっそリリンに殺してほしかった。けれど、それも駄目だった。いつからこんなに弱くなってしまったんだろう、とフォマは思う。どこかおかしい。自分はこんな人間だったろうか。こんなに我儘で、嫉妬深かっただろうか。フォマはリリンに背中を向けて、外に出ていた。


「フォマ?」


 リリンの声が背中からしたけれど、聞こえないふりをして走った。天幕から抜け出す。少しだけ先に行ったところで、急に背中を引っ張られた。


「ちょっとあなた、何処行くのよ」

「……エステル」

「フォマ、あなた泣いてるの?」


 フォマはすぐにエステルの手を振りほどき、顔を背けた。けれど、エステルはもう一度背中を掴む。


「耳飾りをリリンさんに付けるんじゃなかったの? ……何が有ったかは知らないけど、それは『黒い繭』を殺した後じゃ駄目なのかしら?」


 どうしようもなくなって、フォマはその場にへたり込んだ。エステルはそんなフォマを見て、ため息をつく。温かい感触がフォマを包んだ。エステルが抱きしめてくれているのだと気付いた。


「あなた、どうしようも無い子ね。どこに魔女に慰められる聖職者がいるのよ」

「別に、泣いてないっす」

「はいはい。そうね。あなたは泣いてないわ」


 森の木立を揺らす風が強くなる。もうすぐ、雨が降る。

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