嫉妬。
ふと気付いて、上体を起こす。
香の煙が満ちていた。アンジャ族たちの服は鮮やかな装飾に彩られていて、その細やかで美しい編みが、天幕や絨毯に敷き詰められている。
ここは、アンジャ族たちの魔物討伐の拠点らしい。
「……先輩!」
すると、フォマの声がする。どうしたんだっけ。私はどうして、ここに居るんだっけ。頭に靄がかかって上手く思い出せない。
そこでやっと、私に起こったことを思い出した。そうだ、急に何かに引っ張られるようにして、私は彼女に会ったのだ。思わず、胃の中から何かがこみ上げてくる。必死に抑えて、深呼吸をする。
そうだ。あれを、あの変わり果てた彼女を、マティア・コルンと呼ぶことが出来るだろうか。体中が虫のような何かに覆われた彼女を。確かにカタチは人で、顔は女で、そして甘い声で囁いていた。けれどアレは、もはや人ではない。
マティアは、ベルに頭をメチャクチャにされて、壊れてしまった。壊れた彼女は、ベルを求め続けている。彼女はベルに壊されることを望んでいる。その彼女はきっと、ベルの匂いに、影のマナに、『黒水晶』に惹かれるようにエルフたちの集落にやって来たのだろう。その結果があの姿だ。
だとしたら。私は唾を飲み込む。黒水晶の魔力、つまりベルの魔力に飲み込まれた先にあるのは、あの姿だということだ。いや。私は頭を横にふる。違う。私が本当に気にしているのはそれなんだろうか。
いいや、否だ。断じて違う。私は別に、どんな姿になったって構わない。そうだ、あの日の地獄を思い出せ。虫を食い、鼠を食い、腹を下し、石を舐め、そして人を食ったあの日を思い出せ。あの地獄に私を突き落とした奴らの顔を思い出せ。
そうだ。私は決めた。ベルに誓った。私は全員殺すと決めたんだ。十二聖人を全員殺すと、決めた。
気づけば、私は目の前の『十二聖人』を押し倒していた。考えるまでもなく、右手には『鏡面湖畔』が出現して、それは目の前の小柄な少女の首に突きつけられている。
呼吸が荒くなる。手が震える。私は今、何をしようとした?
「……いいっすよ」
フォマの手が、私の右手を引き寄せる。
「うち、先輩になら殺されても良いっすよ」
「違う……。違うんです。どうして、私……」
おかしい。さっきから明らかに私の中の何かがおかしい。そして、気付く。確かに私の奥底には真っ黒なマナが渦を巻いていて、それはどろどろになって私の心に絡みついているのに、居ない。
ベルが、私の中にいない!
私は飛び退くようにしてフォマから離れた。思わず腰が木張りの床に叩きつけられて、痛みが走る。手から聖剣を取りこぼして、そして私は呆然とした。
居ない。確かに私の中にいた、あの少女がいない。ただ、彼女が居た痕跡だけが、真っ黒にこびり付いている。
「先輩? 大丈夫っすか?」
「……居ない。居ないんです」
「居ない? 何が……」
ベルが、と言おうとして、枯れた喉から出たのは咳だった。なんで私は、こんなに動揺しているんだろう。どうしてこんなに苦しいんだろう。まるで分からない。だって、これで良かったはずだ。私はベルに体を渡したくなんか無いし、私は真に聖なるクロイライトじゃないといけないのに。
違う。
そうだ、何もかも違う。そうだ、私は関係ない。だってそもそも、これは最初から、そういう契約だったはずじゃないか。私がベルのものになるんじゃない。ベルが私のものになるんだって。私がベルを使って、そして全員殺すんだって。
いつもより頭が冴えていた。ベルに任せきっていたマナの使い方も、手にとるように分かる。『紙細工』は使えないかも知れないけれど、影のマナなら好きなように動かせる気がした。ようやく気付いた。そうだったんだ。ベルは今まで、このマナが私に与える影響を抑えていた。けれど、どうして? ベルはすぐにでも私の体を自分のものにしたかったはずなのに。
「あら、ようやく気付いたのね。寝坊助さん」
そう声がして、そちらを向く。立っていたのは、まるで幼い少女のような魔女だった。
「……エステル」
「おはよう、リリンさん? 事情はよくわからないけど、あの『黒い繭』にあのお方を奪われちゃったみたいね」
「分かるんですか?」
「ええ。当たり前じゃない。……安心して良いわ。リリンさんが倒れた理由、アンジャ族には上手いこと説明しておいたから」
そう言って、エステルはさっきまで私が寝ていた寝台に腰掛ける。ぽすん、と音がしてホコリが舞った。
「結論から言えば、あの『黒い繭』は『黒水晶』の力を吸い取っている段階よ。……その様子だと、あの中身と対話したんじゃないかしら?」
「ええ。あの中身は、元第十二席のマティア・コルンでした。彼女はベルを強く求めていて……。そして、ひょっとすると私たちがアンジャ族の集落を訪れることを予見したのかも知れません」
「なるほど。あのお方の力に魅了されてしまった、くらいのシンプルな理由だったら話は簡単だったのだけど……。まあ良いわ。してやられたわね。きっと『黒い繭』の中身……マティアは、あのお方をずっと狙っていたんでしょう。……で」
エステルは、床にへたり込んだ私を見下ろしながら言う。
「……ねえ、リリンさん? あなたはあのお方の何なのかしら?」
「……どういうことですか?」
「私はあのお方の下僕。忠実なる配下。黒薔薇の魔女。だからあのお方のために命を懸けるし、たとえ悠久の時を生きたとしても、もう一度あのお方に会うために生きていけるわ」
エステルの顔が、ぐっと私の目の前に近づく。
「それで、リリンさん? あなたはどうなの? あのお方は貴女が大好きみたいだけど、貴女はあのお方のために何をできるの? 何をするの? 貴女が思っている以上に、あのお方を慕うものは多いわ。その力、その美貌、そのカリスマ。あのお方は、貴女の好きにできるような軽い女じゃないのよ。それを、貴女はどうしたいの?」
エステルの言葉は、もしかしたら正論なのかも知れない。確かにベルは魔王で、だから私の敵だった。けれど彼女を慕うものは、きっと多いのだろう。
そうか。
ようやく気付いた。ずっと私の中にあった、モヤモヤとした何か。そうだ。そういうことか。私は気付いてしまって、だからこそ腹が立っていた。『黒水晶』というカタチで世界中にベルの一部が散らばっているということは、ベルが私以外の誰かに所有されるということなんだ。
私は、それが許せなかったんだ。
嫉妬だ。
「ベルのことを慕っている人は、ええ。多いんでしょうね。でも、そんな事は私には関係ありません」
「関係ない?」
「他の誰がなんと言おうと、ベルは私のもの。あの奔放なところも、残虐なところも、容赦ないところも、人が苦しむさまを楽しめるところも、苦痛に歪む顔が好きなところも、可愛い性格も、ヤキモチを焼くところも、全部。全部、全部、全部。世界中に散らばった『黒水晶』も、全て」
私は、エステルの目を覗き返す。
「――全て、私のもの」
エステルはたじろいだ。少し息を吸って、そして立ち上がった。
「……あなたの考えは分かったわ。試すようなことを言って悪かったわね」
「ベルを取り戻します。どうすれば良いか分かりますか?」
「相手は『黒水晶』とあのお方の本体を取り込んだわ。あのお方の残り滓しか無い今のリリンさんに、黒い繭を倒すのは至難の業よ」
エステルがそう言うと、それに答えたのはフォマだった。
「『黒水晶』があるっす」
フォマの手に握られているのは、黒水晶のついた耳飾りだった。
「これがあれば、黒水晶の分の力は互角。少なくとも負け戦ではなくなるはずっす」
「……確かにそうかも知れないわね? でも、リリンさん。気付いているでしょう? あのお方が貴女の中にいない今、その力を取り込むことができるかしら? あのお方が貴女の精神に影響を与えないように、その力を堰き止めていたことは分かるでしょう?」
「関係ありません。ベルを取り戻す。ベルが誰のものか分からせる。そのためなら恐れることなんかない」
私はフォマに視線を向ける。
「フォマ。その耳飾りを渡してください」
気のせいだろうか。フォマの表情に少し陰りが見える。フォマは少し俯いて、やがて何かを決意したかのように顔を上げた。
「……先輩。耳飾りをつけるための穴、うちに開けさせてほしいっす」




