神聖でない彼女の話・前
コントラット大森林は広大で、その最奥にいたろうとすれば、数日はかかるであろうことは確実だった。夜が深ければ瘴気は濃くなり、光は届かず、乱れたマナは羅針盤を狂わせる。日が落ちたなら、素直に火を焚いて眠るのが定石だ。
森は夜でもにぎやかだ。硬い羽の虫たちはこれからが本番だし、それを狙う夜行性の鳥たちが歌い出す。月の光も届かない真っ暗な闇の中に、小さな薪がパチパチと音を鳴らす。
腐臭。魔物の亡骸がそこら中に転がっている。リリンは強かった。襲いかかるありとあらゆる魔物を一刀両断にして、自身は傷一つない。シスター服のあちこちに返り血がついているが、深い黒の中で血は目立たない。ただ、鉄っぽい生臭さが立ち込めている。
その薄暗いセンチメンタルな空気が、彼女に口走らせたのかもしれない。
「なぜ、私を聖剣に導くのですか」
リリンは、ぼそりとつぶやいた。きっとボクに話しかけたんだろう。正直に言うわけにも行かないので、ボクは少し困ってしまった。あまり策を弄してボロが出るのも嫌だったので、都合の悪いところだけを隠して、できるだけ正直に言うことにした。
「ボクはねえ、聖剣といっしょに、ずっとこの森にいるんだよ。でも、それってつまらないでしょ? 外の世界に出たいんだ」
「では、聖剣を持っていってくれるなら、私でなくても良かったのでは?」
「うーん、正直そのつもりだったけど。……君みたいな強い人なら、もっと良い」
正直に言う。ボクはリリンが来てくれて、本当に最高の気分なのだ。
「逆にさ、リリンはどうして、魔物を倒すの?」
「私が聖女だから」
「違うじゃん。君は聖女にならず、魔物も倒さず、ただ静かに、自分のために生きていく選択肢だってあったはずじゃない」
「それは……違います。この世に真に聖なる血統、クロイライトはただ一人。私が戦わなければ、全ての人が傷ついていきます」
わからない。モヤモヤする。ボクを封印した『彼女』もそうだった。どうして、他人の分まで背負うのだろう。どうして、自分のために生きていけないのだろう。人間の短い命の中で、どうしてそんな愚かな選択しかできないのだろう。
「綺麗事じゃないか、そんなの」
ボクがそうこぼすと、リリンは笑った。
「ええ、綺麗事かもしれません。……実を言えば、最初は私怨だったんです」
「へえ」
興味があった。ボクは続きを促す。
「私怨って、どんな?」
「私は……、十四歳になるまで、自分にクロイライトの血が流れていることを知りませんでした。私は捨て子でした。王都のスラム街……、エルメスの娼館で、四人の血のつながらない母に育てられました」
人間の風習はよくわからない。スラム、というのが王様に見捨てられた可愛そうな人たちが身を寄せ合って暮らしている場所だ、というのは知っていたけれど、それだけだ。
ボクが口をはさむまもなく、リリンは話す。
「ビル、という老人がいました。彼はスラムの人の中でも特に異質で……。とてもいろいろなことを知っている人でした。歴史、魔術、科学、医学、礼儀作法……。彼はいろいろなことを教えてくれましたし、助けてくれました。たとえば娼館で育てられた私に、性的な……ちょっかいをかけようとする人がいました。それでも、私が何一つ苦しまずに育ったのは、彼が影で手を回してくれていたからだと知りました。四人の母と、一人の祖父。それが私にとっての世界でした」
なんとなく。なんとなく、人間たちはボクと違う価値観で生きているんだろうな、と思った。人間は弱い。弱いから、お互いに助け合って生きている。
「ある日、私のところに、王立占術院の占星術師だという人たちがやってきました。私が、クロイライトの血を引く最後の生き残りだと……」
リリンは語る。その日のことを。
◆
その日は、大雨でした。スラム街にある家は全部つぎはぎで、こんな日は家の中まで雨漏りするんです。母たちは皆夜の仕事をしていましたから、昼間に雨漏りの下に桶を置くのは私の仕事でした。
昼間はいつも、ビルに勉強を教わっていました。私はビルのおかげで色々なことを知って、礼儀作法も身につけて……。母たちは「リリンはきっと、お貴族様の愛妾になって、私たちよりずっと素敵な暮らしができるわ」と言っていました。私も、そうなるんだと思っていました。
ビルはスラムでは変わり者だったけど、薬に詳しくて、スラムの皆の怪我や病気を直してくれていたから、一目置かれる人でした。だから、私にお店のお客さんを絶対に近づかせなかった母も、ビルの所で勉強するのは許してくれていたんだと思います。それに、ビルは魔術師でしたから。見た目は初老だけれど、きっと、もっと長生きしていたんだと思います。だから私に手は出さないだろうと、母たちは思っていたのかも。
それで、いつもは穏やかなビルが、その日に限って、大雨の中、息を切らして私たちの家までやってきたんです。私は動揺しました。
「リリン! リリンはいるか!」
「どうしたんですか、ビルさん。こんな大雨なのに……」
「まずいことが起きる。良いか、よく聞け。これからお前のところに、王立占術院を名乗る男たちがやってくるはずだ。彼らの言うことに耳を貸してはならない。良いか、絶対にだ。リリン」
こんなに焦ったビルは久しぶりでした。ビルは占いにも長けていましたから、もしかしたら、不吉な未来を見たのかもしれない、と。その時は思っていました。
「俺は奴らと会うわけには行かない。けれど奴らは、お前にいろいろなことを吹き込むだろう。それらを聞くのは……。いや、リリン、お前にはそれを聞く権利がある。だが、考えろ。お前がどう生きたいのかを考えろ。このスラムを見ろ。スラムに生きているものは皆、苦しんでいる。一日のパンを食うにも難儀で、明日のことを考える余裕もない。彼らを救う力のある貴族は、王は、聖職者たちは何をしているかを考えろ」
ビルはそうまくし立てて、何かに急かされるように背を向けます。そして、去り際にこう言いました。
「良いか。俺が、お前に知識と戦うすべを教えたのは、お前がお前自身の人生を手に入れるためだ。知恵や力を、誰かのために使わせるためじゃない。それをどうか、忘れないでくれ」
その時から、胸にザワザワとしたものがあって、けれど、私にはそれが何なのか、よく分かっていませんでした。
そしてしばらくして、雨の中、ビルが言った通りの人たちがやってきました。ローブを身にまとい、深くフードを被り、王国の紋章が刻まれた杖を持った男たち。
「リリン様とお見受けします。お迎えに上がりました。我らが主よ」
そう言って、フードの男たちは私の前で、雨と泥に汚れるのも厭わずにひざまずきました。
「我らは、王立占術院の占術師。どうか驚かずに聞いていただきたい。あなたは真に聖なるクロイライトの血統。あなた様の真名はリリン・アズ・クロイライト。今、世は魔物によって乱れています」
そして、懐から、大切そうに小箱を取り出します。その中には、美しいシルクに包まれた銀に輝くロザリオがありました。それはロランド聖王国の住民ならば誰もが知る、聖女の証。真に聖なるクロイライトの証。
「どうか、我らのために戦っていただきたい」
そう言って、彼らは私の前に跪くのでした。
現実感が無かった、というには、あまりにも私は冷静でした。ビルの態度と、明らかに本物であろう占術師たちと、聖女の証である銀のロザリオ。このスラムで、腐ったまま人生を終えるなんてまっぴらごめんでした。もしも自分が聖女になったら、育ててくれた母たちや、ビルや、あるいはこの場所に、恩返しができるかもしれないとも思いました。
けれど、ビルのあの差し迫った表情。
私の答えは決まっていました。
「いいえ。謹んでお断りいたします」