【幕間】後戻りできない
ロランド聖王国に人間たちが進出する前、この周辺はエルフのアンジャ族たちの土地だった。二千年前に初めてこの土地を訪れた聖ロランドは、彼らの名を借りて「アンジャ族の山」という意味で「アンザス山」という名前をこの山脈に与えたのだ。
古代エルフたちの神話では、世界の始まりはこのアンザスだという。かつて世界は平たい一枚の板で、それは水に満たされていた。そこに生まれた最初のアンジャ族が一羽のハクトウワシを世界に放つと、水の無い場所があった。そこが始まりの大地であり、このアンザスなのだ。
故にアンジャ族はハクトウワシを神の遣いとして神聖視しており、ハクトウワシを狩れば、彼らへの敵対を示すことになる。逆にそれさえ気をつけていれば、アンジャ族は極めて温厚な一族で、エルフたちの中でも人間との取引に肯定的な一族だ。
霊峰アンザス。エルフたちにとっては始まりの土地であり、私たち人間にとっては聖ロランドに縁深い苦難の土地。エルフたちは森に住まい、人は平地に住まう。古の時代の協定によって、それは定められていた。
鬱蒼と茂る森。できるだけ高度の高くならないルートを選べば、当然ながらエルフたちの領土を渡ることになる。ここで時間をかけるわけにもいかないから、彼らの礼儀に反さないよう進まなければならない。
「リリン先輩、一つだけ気になってたことがあるんすけど」
と、私より前を歩いて、梢を折りながら道を確保するフォマが言う。
「なんでしょう?」
私はたまたま村で手に入れた古い地図を見ながら、国境を渡るルートを探していた。幸いというか、ベルのお陰で地脈の流れが良くわかって、昔から使っている羅針盤も合わせて、道を探すのは容易だった。殿を歩くのはエステルで、これは単純に頑丈なので、急な不意打ちにも対応できるという意味での配役だ。如何に中身があの『黒薔薇の魔女』だったとしても、小さな子供の体で先頭を歩くのは難しい、という判断だ。
地図に目を落としたまま返せば、フォマも道を均しながら言う。
「マティア姉さんはどうしたんすか?」
「……ああ、そのことですか」
第十二席。マティア・コルン。私は彼女を殺していない。いや、殺せなかったと言うべきか。私はその時のことを思い出してうんざりする。
マティアの未来予知は、正確に言えば未来予知ではない。彼女は聖職者になる以前は魔導工学の専門家で、特にオートマトンと呼ばれる人形やゴーレムに魂を受け渡す術を得意としていたらしい。そんな彼女は実験の最中、自分自身を不老不死にするために、人間でない体を得ようとした。
その結果、マティアは失敗した。彼女の魂は魔導オートマトンの中ではなく、少し未来の自分の体に飛んでしまったのだ。彼女はそれ以来、少し未来の世界から、まるで操り人形のように自分の体を動かしている。
だから、彼女は未来が見えているわけではない。未来から、過去の体を動かしているのだ。
そんな彼女の頭の中を、ベルは覗いた。ベルの玩具箱から伸びる腕にはふたつの種類があって、今までベルに飲み込まれてきた人たちの恨みや呪いが、新しい人間を引きずり込もうとして伸びていく『人の手』と、ベルの体の一部とも言える、細長い軟体生物のような『触腕』の二種類だ。
これは『玩具箱』を通じて、ベルの精神体と(魔法的な世界を通すことで)直接つながっている。これを脳に直接押し付けて、そのマナの流れを読み取ることで、ベルは他人の記憶を読み取ることが出来る、というのは本人から教えてもらった。
さて、普通の人間は脳に宿る精神体で思考を巡らせるけれど、「今」のマティアが動かしているのは過去の自分の体だ。その整合性はマティアの繊細な魔術によって保たれていた。けれど、ベルの触腕はそんな繊細さを考慮なんかしない。表面をなぞるだけでは、思考なんて読み取れないから、ベルはそれを脳の奥まで突き刺して、乱暴にかき回す。だから普通の人間はおかしくなったり、壊れたり、死んだりする。
結論から言えば、マティアはおかしくなってしまった。けれど、それは普通の人の「おかしくなる」とは毛色が違っていた。
未来の自分が壊れても、マティア自身の今の精神体は正常で、だからこそマティアの脳は即座に「今、ここにある」バックアップから修復される。精神体と呼ばれるマナ構造はかなりよく出来ていて、自己を保存しようとする力が強い。(死んだ後もゴーストになって残ったりするのはこのため)いくら未来のマティアが壊されても、今のマティアがそれを正常に正す。そういう千日手のようなことが起こった。
マティアはいくら頭を弄られても壊れないし、いつまでもベルによって壊され続けることが出来てしまった。だから多分、きっとマティアは未来予知の力を失った。……というのはただの予想だ。もしかすると、精神が時間から解き放たれて、逆に自由になったりしているかも知れない。
ともあれ、マティアに言わせれば、ベルに脳みそをかき回されるのは「気持ちよかった」らしく、なんというか面倒なことになったので、なぜか私たちが逃げるように去ってきたのだ。
(ボクはどっちかというと嫌がられる方が好きだからなあ。ああいう手合はちょっと……。よく分からない)
さて。
これをどうフォマに説明すべきか。
「……結論から言えば、マティアのことは殺していません」
と言えば、「ホントっすか!」とフォマの明るい声が聞こえる。少し心が傷んだ。フォマは少し変わったところもあるけど、とても心優しい子だ。かつての仲間を殺すのは嫌だろう。
(え、リリン、それマジで言ってる?)
(もう、ベルまでそんなことを言うんですか? フォマは心優しい子です)
(嘘だ! リリンだって見たでしょ、あの指とか全部折られて殺されてた死体! あれ相当ボク寄りの趣味嗜好だと思うけど!)
(あんな状況でしたから、きっと事情があるのでしょう。……こうして私にもついて来てくれましたし)
(……つまりそれって、いや。……リリンが良いならボクは良いよ)
ベルは呆れた調子だ。本当に昔から、フォマは勘違いされやすい子だ。十二聖人たちも妙にフォマを怖がっている節があって、いつも言外に警告されていた。やれ「フォマは頭がおかしい」だの「フォマだけには気をつけろ」だの。あんなに心優しくて、人を慈しみ、滅私の心で戦える人間はいない。言葉遣いが少し威圧的だけれど、皆それで勘違いしているのだ。
(……なんて言うか、リリンは騙されやすいんじゃないかな)
(ベル)
(ごめん。なんでもないって。はいはい)
私はため息をつく。昔から皆フォマをそういうふうに悪し様に扱う。私が王国すべての敵になってしまった今も、フォマは私の味方でいてくれる。だから、私もフォマの味方でいてあげたい。
(……ちょっと。リリン)
(なんですか?)
(どれだけフォマちゃんが君のこと大好きだったとしても、きっといつか、フォマちゃんと敵対する日は来るよ)
(……急にどうしたんですか)
(でもさ、ボクは違うよ? ボクはリリンで、リリンはボクだ。ボクは絶対にリリンを裏切らない。ボクとリリンはずっと一緒だよ?)
ベルがこんなに何かを訴えるのは珍しい。なにか気に触るようなことでも言ってしまったのだろうか。
(リリン、忘れてないよね? 君とボクの約束)
(……ええ。忘れてなんか、いませんよ)
十二聖人を、全員殺す。
あの誓いがあるから、私たちは一つのもの。いいえ、ベルが私のもの。もしも私がフォマを殺せなかった時、ベルは私を諦めるだろうか。……それとも、私はベルを諦められるだろうか。
私はそんな考えを頭から振り払う。とにかく今は、国境を超えることを考えよう。
ふと、前を歩くフォマの足が止まった。
「……フォマ?」
「リリン先輩、エステル。これ見るっす」
その指先を見れば、草木が折れて、道になっている。獣道だ。
「獣道ね。で? どういうことよ」
「エステルって意外とアホっすよね」
「は? そう、喧嘩がお望みならいいわ。買ってあげる」
「へえ、うちとサシで? 自信過剰なんじゃないすか?」
なぜかこの二人は仲が悪い。いや、当然か。十二聖人と、魔女。本来なら敵同士だ。それぞれが私とベルのために、一時的に手を組んでいるだけだもの。仕方がないことだ。
(どーもそれだけじゃ無い気がするんだよなあ)
とベルは呑気そうだ。毎度こんな有様で、つまりこの場を止められるのは私しかいないという寸法だ。
「喧嘩は後にしてください。……フォマ、それで?」
「ごめんなさい、リリン先輩。これ、見てください。折れてる高さっす。動物が折る時はこうはならんす。人間がこの辺りにいる証拠っすよ」
「人間? ここはエルフたちの……。ああ、そういうことですか」
つまり、ここはエルフたちの狩場だ。もしかしたら、近くに集落があるのかも知れない。地図にはエルフたちの領域については記されているけれど、その中の氏族や集落については書かれていない。
「近くに、エルフたちの集落があるかも知れませんね。失礼のないように行きましょうか」
「さすがリリン先輩っす! どっかの魔女とは大違いっすね!」
「へえ、喧嘩かしら? いいわよ」
「やめてください。頼むから、本当に……」
私は少し困ってしまう。ただでさえ山越えは厳しく、しかも山道を使えない。こんな調子で、本当に帝国に渡ることは出来るのだろうか。
――けれど、このにぎやかな旅路は、少しだけ楽しい。




