夜明け
「……ミルイ」
声がする方を見れば、そこに居たのはミルイの父、カンタラだった。彼はエステルを見つけて、その場でホッとしたようにへたり込んだ。
「良かった。ミルイ……。生きていた」
「……お父さん」
エステルの中には、まだ『ミルイ』が残っている。けれど、今のミルイは決定的にミルイとは違う。カンタラは、気が抜けてしまったのだろう。その場に座り込んだまま、悲痛な笑顔を作った。
「さあ、帰ろう。ミルイ。母さんも、タンタ兄さんも、ミナイも。……死んじまったけど。父さんがいる。畑もある。……大丈夫だ。だから家に帰ろう」
ここに来る途中、カンタラはフォマが作った悲惨な死体たちを見てきたことだろう。その中には、きっと彼の子どもたちも混ざっていた。それを見た彼が、一体どんな気持ちでここまで歩いてきたことか。
けれど……。私はエステルを見る。彼女はもう、ミルイじゃない。魔王ベルナドット・ザス・カルトナージュの配下。『黒薔薇』のエステル・レカンフルール。どうしようもなく、あの家には戻れない。
顔をこわばらせるミルイ。それを見て、カンタラは何かに気付いたようだった。俯いて、肩をすぼめた。
「……ミルイ。俺はな、良い父親じゃなかったかも知れねえ」
「そんなことは無いわ!」
思わず、といった風にエステルが叫ぶ。けれど、それはもう、エステルだった。ミルイが混じったエステルの言葉。カンタラは悲しそうな顔をして、今にも泣いてしまいそうだった。
「もう、ミルイは居ないんだな」
「居るわ。確かに変わってしまったけど、ミルイはちゃんと、ここに居る」
「お前の母さんは」
カンタラは、エステルの言葉を遮った。
「母さんは……。酷い女だった。でもな、それは俺にだって問題がなかったわけじゃないんだ。俺と母さんが結婚したのは、まだ俺が十七のときだ。見合い婚だ。でも、子供はずっと生まれなかった。ずっとだ。それで、何となくだが、俺は分かってたんだ。きっと、子供が出来ねえ病気なんだって。そういうのがあるのはよ、ナーヤ婆が言ってたのを覚えてたんだ」
カンタラは項垂れた。表情は見えないけれど、嗚咽を飲み込みながら話しているのは分かった。
「母さんは美人だったんだ。リリンさんほどとは行かないけどよ、この村じゃ一番の別嬪で、それは俺の自慢だった。だけどよ。……いや、だからこそ、きっと村長は、母さんに目を付けたんだろう。いつからか、家の稼ぎじゃ変えないような高い反物とか、綺麗な細工とかを身につけるようになって、その出処を聞いても口を濁すんだ。心配しなくていい、何も問題ない。母さんはそう言ってた」
そんな時だったんだ、と言うカンタラの声が震える。皆、静まり返っていた。
「そんな時、一番上の兄……。タンタが生まれた。あの時の俺は、無邪気に喜んでた。やっと子供が出来たって。それからは、二人の兄さんたちが生まれてな。でもよ、その頃には、俺も何となく気づき始めたんだ。……三人とも、皆、俺の子供じゃないんじゃないかって」
エステルは、言葉を失って立ち尽くしている。私とフォマはもう、それこそ部外者だ。何かを言えるような雰囲気じゃなかった。
「疑いが確信に変わったのはな、ミルイ。お前が生まれたときだよ。お前が生まれてくる時、そりゃあ難産でさ。母さんは生死の縁をさまよって、それで、産婆さんにも、ちゃんと生まれてこれねえかも知れねえって、そう言われてよ。ホントなら俺は色々感じなきゃいけなかったのに、その時の俺はよ、あろうことか、……嬉しいと、思ったんだ」
なかなか子供の生まれない両親の間に初めて子供が生まれた時、その子供が流産したり、生まれてもすぐ死んでしまったり、という話は私も聞いたことがあった。だとすれば、カンタラの気持ちは想像できた。本当の子供。初めて生まれてきた子供。
「俺はよ、駄目な父親だったんだ。お前の兄さんたちが、たとえ俺の子供じゃなかったとしても、血がつながって無くても、俺はちゃんと父親をやれると思ってた。けどよ、生まれてきたミルイはもう死にかけてて、それでも生きようと泣いていて、それで、それが俺の本当の子供だって思ったら……、俺は、駄目な父親だった。……それで俺は、魔女に頼ったんだ」
魔女。ナーヤ婆という名前は何度も聞いた。そしてそれが、本当に魔女だったことも。その魔女こそが、エステルの前の体。異端審問官たちに殺された、魔女のナーヤだ。
「魔女の魔術は、恐ろしいほどよく効いた。誰だって死んじまうと思ってた、小さな小さなミルイは、あっという間に元気になって、人より早く喋れるようになって、人より早く歩けるようになった。俺は神に感謝した。……いや、おかしいな。魔女に感謝した。でも、母さんや兄さんたちは違ったんだ。みんなはミルイを……恐れてた。俺は隠してるつもりだったけど、でも、きっと意味はなかったんだよな」
そう言って、カンタラはエステルに笑いかける。その笑顔は痛々しすぎて、とても見ていられなかった。
「何となく、知っていたんだ。俺がまだ小さい頃。今のミルイよりずっと小さい時の話だよ。俺の父さん……。ミルイは会ったことがないだろうが、ミルイのお祖父ちゃんだ。ミルイのお祖父ちゃんは、まだ小さい頃のナーヤを知ってた。明るくて、優しくて、でも、少し間の抜けた人だったらしい。それがある日、急にヘマすることが無くなって、誰も知らない薬草を調合しだして、賢くなった。……それを悪魔憑きだと皆怖がったらしい。……でも、何となく分かった。きっとナーヤも、その前も、ずっとそうやって、魔女は生き続けてるんだな」
カンタラは、エステルの目を見た。ミルイではなくて、その瞳の奥にある、今の彼女を直視した。
「ミルイじゃないんだろう。もうミルイじゃないなら、あなたはナーヤ婆だ」
「……そう名乗っていた時期もあったわ」
「ナーヤ婆。一つだけ、言わせてほしい」
カンタラの顔からは、何も分からなかった。怒りとか、悲しみとか、困惑とか、いろいろな感情がゴチャゴチャに絡まっていて、分からない。
カンタラは、地面に膝をついたままエステルに詰め寄って、それで。
「――ミルイの命を救ってくれて、ありがとうございます」
それで、深々と頭を下げた。
「俺はずっと、この村で生きてきて、この村で死ぬんだと思っていました。それはきっとその通りで、同じような毎日がずっと続いて、いろいろな苦しみとか、辛さとか、そういうのにも慣れていくんだと思ってました。でも、ミルイが生まれて、やっと俺は、幸せだと思えた。ミルイが生きてくれることが、嬉しかった。……だから、束の間でも。……ありがとうございます」
カンタラは、泣いていた。下げた頭から雫が滴って、地面を濡らした。
エステルはカンタラの前にしゃがんで、目線の高さを合わせた。
「ワタシは、そんなに感謝されるようなことはしてないわ。……ワタシは自分のために、いずれ自分の体にするためにミルイを助けたんだもの」
「けれど、ミルイはまだ、そこに居るんでしょう? ……じゃあ、俺は、それで十分です」
エステルは困ったように微笑んで、立ち上がった。
「ワタシは、ミルイのお願いを叶えるわ。それがミルイとの約束だから」
エステルは、私とフォマの手を握る。
「行きましょう。早く国境を超えないといけないんでしょう?」
「……良いんですか。これが最後になるかも知れないのに」
「うちはそもそも、話が良くわかってないっす」
「良いのよ。そうしないと、ワタシがミルイに引っ張られちゃう」
そういうこともあるんだろうか。
(リリンだってボクに引っ張られまくりだもんね?)
(ベルだって、私に引っ張られてるんじゃないんですか?)
(あ! リリンの癖に生意気!)
ぐいぐいと私たちとフォマの手を引くエステルに任せて、この場から去ろうとする私たち。その背中に、カンタラの声がかかる。
「最後に!」
エステルの足が止まる。私とフォマは躓きそうになって、体を立て直す。カンタラの声がする。
「最後に一つだけ、欲が出ました。ミルイが居るなら満足って言ってしまいましたけど。……一つだけ、聞きたいことが」
エステルは振り向かない。その背中は、登ってくる朝日の逆光になって、真っ暗だった。
「ミルイは、幸せでしたか」
ミルイは、朝日の方を向いたまま、掠れる声で絞り出した。
「――お父さんの娘に生まれて、幸せだったよ」




