異端
花束。
寡黙で、美しくて、きっと世界の嫌なものが、全部花束になったなら。それはどんなに楽しいことだろう。そうだ。もともとは、そうだった。エステルはようやく、魂の同調を取り戻す。思い出す。
ただの路傍の雑草だった一輪の花が、黒薔薇の魔女になったのは。エステルになったのは。あなたのお陰だったんだ。
その貴い名を、決して人前で呼ぶことなかれ。その名は支配者の名。その名は王の名。呼べば呪われ、忘れれば死ぬ。あのお方。
満たされた気持ちだった。また、この世に生まれ直して、そして、またあなたに出会えた。エステルは幸福だった。だから、目の前のこの哀れな男も、花束に変えねばならなかった。
「や、やめろ……来るな……。お、お前は、お前は一体誰なんだ!」
「知っているでしょう? あなたが忌み子と呼んで、異端と蔑み、そして殺された。ワタシはいつだって、あのお方をまち続けていたわ」
「お、お前は、ミルイなのか……?」
「ええ。ミルイよ。でも、それだけじゃないわ。沢山の名前があった。あなたは『ナーヤ』の方をよく知っているんじゃないかしら?」
村長は、顔色を真っ青にして、ガタガタと哀れに震えていた。
「う、嘘だ……だって、ナーヤは、死んだだろう。殺させた。俺が殺させたんだぞ!」
「ええ。そうよ。でも、あなたがワタシをそう呼んだのよ。『魔女』って」
「嘘だ! 嘘だ! 魔女なんて居るわけがない!」
「でも現に、ここに居る」
哀れな男だ、とエステルは思った。彼はエステルにとってのベルナドットに会うこと無く、人生をただ、己の欲のために捧げ、そして破滅する。器があれば支配者にでもなれただろうが、圧倒的に足りなかった。
小さな男だ。
「助けて、助けてくれ……ああ! そうだ、あれをやる! 黒水晶! 黒水晶をやる!」
男は腰が抜けて動けない体を、上半身で無理やり動かして、ベッドの脇に置かれた鉄製の箱の鍵を開け、中から黒い宝石があしらわれた耳飾りを取り出した。
「こ、これだ! 魔王の側近なんだろう。だったらこれが居るはずだ! なあ、そうだろ? これをやるから、命だけは。命だけは見逃してくれ!」
エステルは眉をひそめる。黒水晶? 初めて聞いた名前だ。だが、その小さな宝石から匂い立つマナには覚えがある。それは間違いなく、ベルナドットのものだった。
「なぜ、あのお方のマナをあなたが?」
「百年前、聖女様が魔王を封印した時、十二人の仲間たちが、その力を削ぎ落とした! 削ぎ落とした影のマナを封印した、いわば魔王の分霊! それは十二の宝石と装身具になって、世界中に隠されたんだ。これはその一つ……。本物だ。信じてくれ!」
そんなものが? エステルは少し考える。だけど、納得もできる。それこそ、あのお方の力は絶対的だった。逆らうことすら馬鹿らしくなるほどの、絶対的な力があった。けれど、ミルイの前で見せたあの御方の力は、全盛期の足元にも及ばないほど、ちっぽけなものだった。
「へえ、そんなものがあるんすね」
後ろから声がする。フォマだ。どうやら向こうは終わったらしい。
「フォマ」
「おつかれさんっす。とりま全員出来るだけ苦しめて殺しといたっす。一人だけやたら小さい子いたんすけど……、あれもヤッちゃって良かったんすか?」
「……あなた、本当に元聖職者?」
「約束はちゃんと守るとことか、ちょー聖職者っしょ」
フォマは村長に近づき、その手にあった黒い宝石をひったくる。
「へえ、こりゃ見事な影のマナっすね。道理で魔王の力が記録より弱いわけっすよ。本人たちが気付いてないのは……。まあリリン先輩はちょい抜けてるトコあるし、仕方ないか」
「これは貰っていきましょ。きっとあのお方も喜ぶわ」
「まあ……、リリン先輩の力になるなら良っか」
二人の会話に、村長の表情が明るくなる。
「じゃ、じゃあ俺の命は……」
「それは別よ」
茨。またたく間に村長の体には根が張り、あっという間に花束に変えられた。命乞いをする暇すら無かった。
「へえ、なんすかそれ。エステルの魔法っすか? めっちゃ綺麗っすね」
「ありがと。これで用事は終わり。早くあのお方のところに行きましょ」
と、その時だった。
「そいつぁ、ちっと、ご勘弁願いてえ話でござんす」
声。ボロボロのローブを身にまとった、下駄の男が振ってきた。屋根を突き破り、派手な土煙を上げ、すでに鯉口は切られている。
フォマがその名前を呼ぶ。
「シモンち」
「いかにも。――第十一席。シモン・ジン。仕る」
◆
速い。
鞘走る刀は、キンと高鳴る音が耳に届くよりも早く、エステルの体に向かって伸びる。エステルは目で追えなかったが、代わりにフォマが読んでいた。投擲された釘が、刀の軌道を逸らす。結果的に、振り抜かれた刀はエステルの手前を掠めるに留まった。
「止まるな! まだ来るっす!」
フォマが声をあげる。咄嗟にエステルが半身をひねれば、二の太刀がそこを通過する。しかし熱い痛みがエステルの二の腕に走る。掠った。
次の攻撃に備え、エステルは茨を呼び出す。しかし追撃は来なかった。シモンは残心を崩さぬまま、こちらを睨みつけていた。
その姿は、あまりにも痛々しい。皮膚は殆ど無く、肉が見え、体液と血が服に張り付き、真赤に染みている。顔も再生しきっておらず、長い髪は残らず、もはや声を聞かなければ、フォマですら誰なのか判別できなかっただろう。
「シモンち、随分良いカッコになってるじゃないすか」
「聖女様に負けて、ちょっとばかし再生に手間取りござんして」
「へえ……。まだまだ痛みが残ってるってことっすよね」
「あっし、痛みなど感じのうござんすが」
「試してみるっすか?」
釘を構えるフォマの顔は、楽しげに歪んでいた。シモンは内心で冷や汗をかく。ああして笑えば、それはまるで、あの魔王の笑い方にそっくりだった。人の痛みをよく知っていて、知った上で、それを相手に与えることを喜ぶ、正真正銘の外道の顔だ。
そう。シモンとフォマは、致命的に相性が悪い。フォマとまともに戦える人間は列聖委員会でも少ないが、特にシモンはフォマを苦手にしていた。
何故なら。
フォマが釘を投擲する。シモンはそれを全て刀で打ち払う。あの釘を食らったら、シモンは負ける。間違いなく勝てない。その理由は単純だ。鉛の釘は、神の加護を完全に打ち消す。神とのつながりを断つ。
それは世界の改変に近い。フォマの聖釘は、アズヴァルが定めた世界の秩序を、原初世界に戻す力を持つ。早い話が、シモンがあの釘を受けた時、シモンの痛覚は元に戻る。
「いやあ、しっかり守るっすねえ。で? なんでシモンちはこんだけ不利な状況でうちらに喧嘩売ってんすか? うちと戦いたくなんかないっしょ」
「……その水晶を奪われてはならぬと、聞き及んでござんして」
ふうん、とフォマは口角を上げる。
「この黒水晶、どうやら本物ってことっすね?」
「フォマ殿、何故魔王に与するんでござんすか。分かるでござんしょ。かつての聖女様であれば、たとえ敵対したとてあっしをここまで傷つけることなどあり得なかった。今の聖女様は、見た目こそそのままでござんすが、中身は致命的に違う」
「シモンち、アホすか? 人間がいつまでも同じなんてこと、あるっすか? 生まれた赤子が、死ぬまで信条も行き方も変えないなんてこと、あり得るすか? ないっしょ。うちはリリン先輩の中身が好きなんじゃないっすよ。リリン先輩が大好きなんす。うちのこと尻軽だと思ってんなら、ちっと痛い目見てもらわんといけんすよ」
直後、素早く釘が投擲される。一体フォマはいくつの釘を持っているのだろうか。はじめ弾切れを誘うことを思いついたシモンは、すぐさまその考えを振り払った。彼女の死体の兵隊を思い出せ。彼女は死体を、よく分からない魔術空間に格納している。あのローブの中にそういった仕組みを作っていないと、何故断言できる。
魔術師の中でも、特にサイズの合わない大きなローブを羽織るものには気を付けなければならない。彼らは必ず、その中に「仕込んで」いる。それは、東国にいるシモンの師から教わった、数少ない対魔術師の戦い方の一つだ。
シモンがフォマに集中を向ければ、死角から気配を感じる。反射的に躱せば、そこを通過したのは黒い茨。あの魔女も、シモンにしてみれば厄介この上ない。村長の様子を見れば、おそらくあれは「捕まったら終わり」の魔法だろう。スピードは緩慢だが、一手間違えば負ける敵を、二人も相手にしなくてはならないということ。それがシモンを追い詰める。
つまり、シモンが勝つためには、短期決戦しか無い。
体はまだ復活しきっていない。皮膚はなく、風すら満足に感じられない。目は乾きがちで、世界を捉えきれない。コンディションはおおよそ完璧からは程遠い。けれど、血液は回っている。筋肉は動く。脳は晴れ渡っている。
「あっし、行かせてもらいます」
「切り札、うちらに使っていいんすか? リリン先輩、どうするんすか?」
「あっしが負けりゃあ、もう十二席に勝ち目はないでござんしょ」
「なるほど。予想はしてたっすけど、やっぱりリリン先輩はマティア姉さんが抑えてるんすね。で? 自殺にうちを巻き込まんで欲しいんすけど」
「死ぬつもりはありゃあせん。……たとえフォマ殿であろうと容赦をするつもりも無し」
そう言って、シモンは刀を下段に構え、体を低くして足を開く。特殊な構えだが、これがシモンにとって最も疾い構えだった。
結論から言えば、シモンは常に手加減をしている。
無痛症のシモンにとって、痛みがないことは弱点でもある。すなわち、体の酷使や可動域を直感的に理解できないという弱点だ。だからこそ、シモンは日頃、全力を出せない。無理な加速は体を痛め、たとえ再生能力があるとしても、継戦時間を大きく短くするからだ。
そのシモンの、最速の構え。その名を『無明』。
フォマは唾を飲む。元同僚だからこそ、フォマはその驚異を正確に認識していた。十二聖人の中で、一人だってシモンの最速を見切れる人間がいないことを、フォマはよく知っている。
「エステル」
フォマは警戒を促す。エステルの茨の速度では、絶対に間に合わない。来ると分かる一拍前には回避しなくてはならない。防御は考えるだけ無駄だ。こちらが守るよりも、シモンが刀の軌道をずらす方がずっと速い。
緊張が走る。シモンにとっては逆転の一手。そして逆転の一手というのは、優位の者に対して実際以上の圧力と精神的な負荷を与える。絶対に見逃すな。目を離すな。技の起こりを見逃すな。
風の音。夜の匂い。血や排泄物の異臭。遠くから臭う、火の焦げ臭さ。
瞬きすらできない、永遠。
エステルの首がずれた。
音がした。
斬れた。




