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ワタシとミルイ

 魔女は実在する。


 人の世にあって、人のかたちをとり、人の言葉を操り、人の心を奪うもの。


 影から(いで)て、影に去るもの。


 それはまるで、精霊や魔物に似ていた。マナの淀みに命が宿り、血を持ち、鼓動し、這うもの。生きるもの。定形を持たぬそれは、決して人の生活と交わることはない。なにせ、魔女は邪悪だ。天におわすアズヴァル神は邪悪を憎む。故に、アズヴァルは真に高潔なものを愛し、救う。


 それがアズヴァル聖教のあり方だった。


 ならば、魔女は殺されなければならないのか。違うはずだ。少なくともナーヤはそう考えていて、だからミルイも、魔女は死ななくてもいいと思っている。





 生前のナーヤが、ミルイにしてくれた話があった。それはとある山賊の話だ。


 もっとも残虐で、もっとも狡猾な山賊が居た。名前はない。彼は男とあれば殺し、女とあれば売り、金とあらば奪い、食料とあらば奪った。


 高潔とは程遠く、邪悪で、だからこそ彼はこう考えていた。「たとえ今更改心したところで、アズヴァルは私を救わない」。毒喰らわば皿まで。彼はより邪悪になっていく。


 ある日、彼は一人の女に救われた。美しい女だった。彼は女に一目惚れし、女を自分のものにしたいと考えた。彼はいつだってそうしてきた。けれど、女は彼のものにならなかった。


 なぜなら、女が強かったからだ。女は魔女だった。男はそれでも女に惚れていた。だから男は、女のためになんだってした。


 女が不潔なのが嫌だと言ったから、男はきれいな服を着るようになった。女が山賊は嫌だと言ったから、男は野に降りて仕事を探した。そして女が結婚しようと言ったから、男は女と結ばれた。


 男は更生した。けれど、アズヴァルが求める聖なるものではなかった。


 結果、男は女と子どもたちに看取られ、天に旅立った。けれどアズヴァルに拒まれたその魂は、永遠に世界をさまようことになる。


 だから、女はその魂を抱えた。神に拒まれた、邪悪だけれども心優しい魂は、そうして魔女の中で安寧を得る。魔女は、そのためにあるのだと。





「そんなに、力がほしい?」


 若い女の声が、ミルイの耳元で囁いている。怖い。それはとても邪悪なものだ。アズヴァルが忌み嫌う影の臭いだ。ミルイはそれを直感した。けれど、同時に分かる。


 それは、邪悪だけれど温かい。邪悪だけれど美しい。ナーヤが話してくれた山賊の話のように。今、目の前で血を浴びるリリンさんのように。それは、ミルイに牙を向くものではない。


 引き込まれるような声だった。


「……あなたは、誰」

「ミルイもよく知ってるでしょう?」

「知らない。あなたは誰?」

「薄情なんだから。何回もあなたの命を救ってあげたのに」


 命を救われた。そんなのは一人しかいない。


「……ナーヤ?」

「そう名乗っていたこともあったわね」

「嘘だよ。ナーヤは死んだもの。見たよ、石を投げられて、十字架に磔にされて、飢えて死んだナーヤを」

「そう。でも、そこで死んだのはナーヤだけよ。ワタシは死んでなんかいないわ」

「どういうこと……?」

ワタシたち(・・・・・)は不滅なの。名前はないわ。魔物。魔女。精霊。いろいろ呼ばれてきたけれど、一度だって自分たちが何なのか、正しく呼び止められたことはなかった」


 するすると、影が私を抱きとめる。真っ黒な腕。まるで目の前のリリンさんが伸ばしているのと同じ、邪悪な、この世にあってはならないもの。


 そのはずなのに、どうしてこんなに安心するんだろう。


「じゃあ、あなたは何なの? ナーヤ? ナーヤじゃないなら、誰なの?」

「同じよ。全て。ワタシはこの前までナーヤの体を借りていたけれど、今は何者でもない。いままでずっとそうだった。……いいえ。でも、一つだけ。名前があるの。エステル・レカンフルール」

「エステルさん……?」


 ミルイがその名前を呼ぶと、腕の力が強くなったような気がした。


「そう。エステル。その名前をワタシはあのお方から賜った」

「エステルさんは、その人が大好きなんだね」

「……ええ。大好きよ。ワタシはきっと、この世界が何度滅びて、アズヴァルがワタシたちを苦しめ続けても、きっとあのお方を支え続けなくてはならないの」


 でも。それなのに。そう言ってエステルさんは泣いた。


「ワタシたちは別たれたわ。百年。私たちにとっては長くないけれど、それでもずっと待っていたわ。信じていたの。きっとあのお方は戻ってくるって」

「あのお方?」

「眼の前に見えるでしょう? 最悪で最強で、最も美しくて、尊いお方の姿が」


 血。


 血で出来た真っ赤な絨毯。その上に、天を仰ぐように立つ美しい人。


「……リリンさん?」

「それは器の名前よ。前の器も美しかったけれど、今度の器も特別に綺麗。でもね、あのお方の美しさは、そんな所にはないのよ。アズヴァルの売女が拒んだ魂を、あのお方は救ってくださる。永遠をさまよう邪悪な私たちを、きっと救ってくださる」


 耳元で、そっと。囁くように。


 エステルさんは、その名前を告げた。


「ベルナドット・ザス・カルトナージュ」


 知っている。田舎娘でも、物を知らなくても、その名前であれば知っている。大人たちが子供をしつけるときの枕詞にも、吟遊詩人が語る物語にも、村に置かれた碑文にも、どこにだってその名前はある。


 魔王。かつてロランド聖王国を火の海に沈めた、史上最悪で、最強の魔王。


「だって、リリンさんは、リリンさんだよ。そんなはずないよ。だって、優しくて、強くて、綺麗で。そんなわけない!」

「そうよ。いつだってあのお方は慈悲深い。絶対的で、そして美しい。見なさい。あの景色を。ワタシはもう一度あのお方につかえるために、体がほしいのよ」

「……だって、どうして? どうして私なの?」


 エステルさんの指が、そっと私のお腹をなぞる。


「美しいから。でも、それだけではないわ。私はあのお方のように、無条件に体を取っ替え引っ替えなんて出来ないの。まだ育ちきっていない頃から丁寧に、丁寧に仕込みをしないといけないの」

「……だって、ナーヤは私の命を救ってくれたんでしょ?」

「そうよ。事実、あなたは死ぬはずだった。この世界には生まれないはずだった。だけど、それではあまりにも可愛そうだったから、助けてあげたのよ。その対価として、体をもらってもいいじゃない」


 そっか。ミルイは、最初からそのために生まれてきたんだ。


「お父さんとお母さんは、知っているの?」

「どうかしら。でも、魔女が邪悪な方法を使って生かしたことは知っているわ」

「もしもエステルさんが私に入ってきたら、『ミルイ』はどこに行っちゃうの?」

「さあ。どうなるかしら。今までの子は、皆ワタシになったわ。でも、どうかしら。今のあのお方は、宿主と共存してるみたいだし」


 そっか。どうなるかはわからないのか。でも、あまり重要なことではないな。と、考え直す。ミルイは昔から、兄弟たちより少しだけ賢かった。


「あのね、お母さん、最近ずっと家に帰ってこないんだ」

「そうなのね。それが心配?」

「ううん。それでね、タンタ兄さんも、妹のミナイも、ずっと帰ってこないの」

「それは不安ね」

「ううん。それもそんなに不安じゃないの。お父さんがちゃんと、皆のこと教えてくれるから」

「そう。素敵なお父さんね」


 いつの間にか、涙が溢れていた。


「……私、本当は知ってたの。お父さんがずっと嘘ついてること。知ってた。お母さんが私のこと嫌いで、タンタ兄さんも私のこと避けてて、ミナイはわからないけど、きっとまだ赤ちゃんだから、お母さんがきっと、私から引き離してるの」

「……ミルイ。安心して。大丈夫よ」

「お父さんは、多分、私に心配かけさせたくなくて、ずっと嘘をついてる。嫌だよ。お父さんだけが苦しんでる。私のせいで、お母さんとも、タンタ兄さんとも、ミナイとも会えないでいる!」

「大丈夫。泣かないで、ミルイ」


 本当は、たぶん、ずっと分かっていた。


 私はきっと、この田舎で、死んでいく。朽ち果てるように、死んでいく。


「ねえ、エステルさん」


 ミルイは、気付いてしまった。気付いたら、もう戻れない。もう帰れない。


「もしもエステルさんが、私の体に入ったらさ、私の夢は叶うのかな」

「夢? どんな夢があるの?」

「いっぱいあるよ。私の夢」

「全部言ってみて」


 ええとね。


「まず、王都に行きたい」

「ええ。きっといけるわ」

「あと、美味しいものが食べてみたい」

「素敵ね。きっと食べられるわ」

「お父さんに、幸せになってほしい」

「叶うわ。約束する」

「お父さんを苦しめたものが、全部なくなってほしい」

「大丈夫よ。きっとそうなるわ」

「それとね、外国にも行ってみたい」

「すぐにでも行けるわ」

「リリンさんと一緒に」

「大丈夫よ。私はいつでもあのお方と共にあるわ」

「あとね、それとね。それから、……」


 一つだけ。笑われるかも知れないけど、夢があったの。


 昔から、お花が好きだった。森のお花は全部覚えている。あの湖畔のお花畑も大好きで、本当は家の周りにもお花を植えたりしてみたかった。


「私ね」


 こんな田舎じゃ、駄目だと思った。嫌われ者の私じゃ、駄目だと思った。お腹が膨れないものは売れないって、わかっていた。だってミルイは賢いから。


 だけど、私。私は。


「――お花屋さんになれるかな?」


 エステルさんが、ニッコリ笑った気がした。


「ええ。大丈夫よ。必ずなれるわ」

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