リリンの恩返し
ミルイは、ロランド聖王国の南端にある、南アンザスの農村の、農夫の娘だった。
先のロランド聖王、オルデナンド大公が存命のおり、大規模な農地改革があり、小作人だった父と母は小さいながらも農地を得て、そのおかげで我が家の家族はご飯にありつけているのだという。
とは言え、五人兄弟のうち、農地を継げるのは長男だけだから、二人の兄は手に職を求めて王都へ行ったし、ミルイとひとつ下の妹は、きっとこの村の何処かの家に嫁に行くのだろう。
正直なところ、まだ十二のミルイにとって、結婚というのはどこか遠くの出来事だった。けれど、成人式はすぐ来年まで近づいていて、成人したら、きっと村の誰かと番にされる。
兄が少し、羨ましかった。次男と三男。二人は王都に言って、次男は騎士、三男は商人になる。そう言っていた。たまに手紙が来るけれど、家族は誰も文字が読めないから、二人がどう過ごしているのかわからない。村で文字を読めるのは少ししか居ない。我が家と仲が良かったナーヤ婆は亡くなってしまって、兄たちはきっと、それを知らないのだ。
私も、王都に行きたいな、と。ぼんやりミルイは考える。
こんな畑だらけの土地よりも、きっと綺麗で、楽しいところなんだろう。王都の人がどんな風に生活しているかはよくわからないけど、王都に行ったら、お花を売ったり、パンを売ったりして生きていきたい。きっとそれは楽しいことだ。
でも、ミルイはこの村に生まれて、だからこの村で死ぬ。
そう信じて、疑わなかったけれど、あの日、ミルイの人生が少しだけ変わった。あのとんでもなく綺麗な神官がやって来てから。
◆
朝の水くみを終えて、ミルイは山菜を採りに山に出た。大きなかごを背負って、腰には鎌を下げて。山道は歩き慣れていて、特段心配することもない。魔物が出るときもあるらしいけど、そうなったら、たとえ村の大人たちが何人居ても勝てないだろうから、結局一人で山に登ることになる。
本当は二人で登った方が良いんだけど、でも、少し我が家は事情が違った。先月に隣村のナーヤ婆が異端審問官に魔女だと告発された時、ミルイは彼女をかばおうとした。だって、ナーヤ婆がくれた薬がなければ、ミルイは生まれてすぐに死んでいた、という話を、何度も母から聞かされていたからだ。
ナーヤ婆は優しくて、薬草に詳しかった。でも、それが魔女だと思われる原因になったんだと思う。
最後までナーヤ婆をかばおうとしていた私に、彼女は「あなたまで疑われることになるから、私に助けられたことを、二度と人に話してはいけないよ」と教えてくれた。
結果、ナーヤ婆は磔にされて死んだ。
石を投げられて死んだ。
あの日から、ミルイはこの村の人たちが怖い。いつも笑顔で、優しいけど、怖い。あんなに優しい人達が、優しかったナーヤ婆に石を投げつける姿が、ミルイは怖かった。
だから、もう、この村の人たちと山には登れない。だからミルイは、一人で山を登る。
昼ころ。そろそろお昼にしようと、持ってきたお昼ごはんを食べることにする。ボソボソした黒パンに、干し肉と山菜を挟んだもの。日持ちがするので、よく食べる。
山には小さな泉があって、そのほとりでご飯を食べるのが好きだった。この時期には泉のほとりに綺麗な花が一面に咲いて、まるでおとぎ話のような景色になる。
ところが、この日は様子が違った。そのお花畑の真ん中の、小さなイチジクの木に人がもたれかかるように倒れていたのだ。
「……きれい」
ミルイは思わずつぶやいた。村で一番の美人より、ずっとずっときれいな人だった。まるで真っ白な雪のような銀色の髪。神様が作ったんじゃないかってくらい、整った顔。
だけど、血の滲んだ修道服を着ていて、それだけが不穏だった。首からかけているロザリオは鏡のように磨き上げられていて、異端審問官が付けていた鉛の十字架とか、街にやってくる神父さんがつける鉄の十字架とかとは、全然違うものだった。凄くきれいだから、偉い人なのかもしれない。
ひょっとして、本物の天使なのかも。だとしたら合点がいく。こんなにきれいな姿をしていることも。花園の真ん中で、まるで眠るように横になっていることも。血まみれの修道服も、ひょっとしたら悪魔や魔物から逃げてきたのかもしれない。
「ねえ、お姉さん。生きてる?」
ミルイは天使をゆさぶる。すると、天使の長いまつげが少し揺れて、目が開く。水面のような深い翠の瞳。それが少しだけさまよって、ミルイを見つけた。
「……あなたは?」
天使は、まるで鈴のような声だった。やっぱり、本当に天使なのかもしれない。狭い村では、こんな人見たことがない。ミルイは少しワクワクしていた。
「私、ミルイ! お姉さん、どうしてこんなところで寝ていたの?」
「……私は。私は、リリンと申します。少し、疲れていて」
リリン。そう名乗った天使様は、憂鬱な表情だった。それすらも綺麗で、絵になる。
「どうしたの? 逃げてるの?」
「逃げ……。どうしてそれを?」
「服が血まみれだったから。追われてるのかな、って」
「……ええ。そうですね。私は一度、国境を越えようと思っています」
「それって、ロランド聖王国の外に行くってこと?」
「いろいろな事情があるんです。……ごめんなさい。あまり喋れなくて」
そう言うリリンさんの目は、何処か遠くを見つめていて、少し闇があった。こんな姿になるくらいなんだから、きっと、深いわけがあるんだろう。
すると、どこからか音がなった。リリンさんが恥ずかしそうにする。お腹がなったんだ。
「リリンさん、お腹空いてるの?」
「……お恥ずかしながら。三日ほど何も食べていなくて」
「大変だ! 大丈夫なの?」
「ええ。空腹には慣れていますから」
ミルイは少し考えた。お昼ごはんを分けてあげようか。でも、今ご飯を分けてしまったら、ただでさえ少ないご飯が少なくなってしまう。ミルイの家は決して裕福ではない。満腹になるほどご飯を食べたことなんて殆どない。
考えて、ミルイは決意した。
「お姉さん、これ、あげる」
ミルイは、自分の昼ごはんをリリンさんに差し出した。
「……すごく嬉しいです。けど、これってミルイちゃんのお昼ごはんじゃ」
「いいの。普段から、人が困ったときに助けていれば、自分が困ったときに助けてくれるって、ナーヤ婆も言ってた」
「ナーヤ婆?」
「私の命の恩人! 死んじゃったんだけどね」
「……そうですか」
ほら、どうぞ。とミルイが差し出すパンを、リリンさんは申し訳無さそうに受け取った。
「いただきます」
と、リリンさんはパンを口にする。多分、しばらく食べていないからお腹がびっくりしているんだろう。リリンさんは少しずつパンを食べる。
すると、リリンさんの目からは涙が流れていた。
「あれ、美味しくなかった!?」
ミルイは自分の失敗に気づいた。リリンさんのような綺麗な人が、ミルイと同じものを食べるわけがない! 普段はきっと、ミルイなんかには想像もできなような美味しいものを食べているに違いないのだ。急にこんな、貧乏人のご飯を食べるなんて、できるわけがない。
「ごめんなさい、リリンさん! 美味しくなかったよね」
「いいえ。全然、そんなことは無いんです。……私、必死で。ごめんなさい。会ったばかりのミルイちゃんに、こんなことを言うのもおかしいんですけど。友達を思い出して。……ずっと昔、今みたいに、お腹がペコペコで、その時、私と一緒に居てくれた友達を……、思い出して」
友達。そっか、リリンさんの友達。どんな人なんだろう。泣くほどのことなんだろうか。もしかしたら、その友達もナーヤ婆みたいに、死んでしまったのかもしれない。私も、ナーヤ婆のことを思い出すと悲しくなる。もう一度会いたい。
「泣いてもいいんだよ。泣くのは、まだ心が生きてる証拠なんだって、ナーヤ婆が言ってた。泣きたいのに泣けないと、人間、おかしくなっちゃうんだって。だから、泣きたい時はたくさん泣くと良いんだって。私も、ナーヤ婆が死んだ時は、一晩中泣いたの」
「ありがとう、ミルイちゃん」
そう言って、涙で濡れた瞳をミルイに向けて、リリンさんは微笑んだ。思わず言葉が詰まる。綺麗すぎて、思わずドキドキした。心臓の高鳴りが止まらない。
「……リリンさんは、この後、どうするの?」
「この後? ……急いで、国境を抜けないと」
「国境は遠いよ。関所もすっごく対応が遅いって旅人さんがいっつも言ってる。はやくしたいなら、少し外回りに行かないと。私、道を知ってるから、リリンさんを案内できるよ!」
ミルイは、もっとリリンさんとお話したいと思った。そのための提案だった。
リリンさんは少しの間、ミルイを見つめていた。そして答える。
「助かります。お願いしてもいいでしょうか」
「……リリンさん、今誰かとお話してた?」
なんとなく、そんな感じがした。リリンさんは時々、どこか、ここじゃない所に意識を向けている。でも、本物の天使様だったらそういうこともあるかも知れない。そう思って聞いた。
「……ミルイちゃんは、勘が鋭いですね」
「やっぱり誰かとお話してたの!? やっぱり本物の天使様なんだね!」
ミルイの言葉に、リリンは驚いた様子だった。大丈夫。
「大丈夫だよ。秘密なんでしょ? 私、すごく口が堅いから」
ミルイがそう言うと、リリンさんは楽しそうに笑った。




