聖女と魔王
空を見上げるためには瞳が必要で、木立のざわめきを聞くためには耳が必要で、森を吹き抜ける青い香りを確かめるには鼻が必要で、風を感じるには肌が必要。当然、今口の中に溢れる血の鉄の味を感じるには口が必要で、けれどそれは全部、ボクのものではない。
コントラット大森林、王都のならず者たちが『魔女の森』と呼ぶ魔物たちの巣窟。この迷いの森にあって、ただ一人。大地に銀に輝く剣を突き立て、血と煤と土に汚れたボロボロの修道服に身を包んだ年若いシスター。
神の血を分けた真に聖なる血統。名前をリリン・アズ・クロイライト。
体を持たないボクが世界とつながる手段。それが彼女の体だった。
白雪のような銀の髪と、水面のように透き通った翡翠色の瞳。透き通る硝子細工ような美貌。風のようにしなやかな肢体。人は彼女を聖女と呼ぶ。今は魔物たちの返り血で赤黒く染まったその体は、けれど誇り高く、美しい。
ぜんぶ、ボクのもの。そして、ボクがこの世界とつながるための最後の窓。
昼下がりの木漏れ日の下、地面に突き立てた剣を支えにして、魔物たちの亡骸が放つ腐臭の中、聖女リリンはふらふらと立ち上がる。
魔物たちの群れ。淀み、汚れたマナを人は瘴気と呼ぶ。魔導工学の発達は自然のマナを汚し、それらは凶悪な魔物となって人類の生活圏を脅かす。
きっと、リリンを襲ったのもそんな魔物たちのうちの一団だろう。森のあたり一帯には百を超える魔物の亡骸がある。
「リリン、随分頑張るんだね」
ボクが彼女に話しかけるには、彼女の口を経由する必要がある。ボクのものだった言葉は、リリンの口を通して、転がる鈴のような音色で再生された。
そして、その声に答えるのもまた、リリンだ。
「皮肉のために一々私の口を使わないでください」
「だって、意思疎通にはこれしかないんだもの。しょうがないじゃん」
「元はと言えば、あなたが私を騙したんでしょう!」
「ボクは一回も嘘はついてないよ。その銀の剣は確かに、かつて史上最悪で最強で、そしてイチバン美しくてカッコいい魔王を封じた、正真正銘の伝説の剣だ」
「ええ、嘘ではないんでしょうね」
はたから見れば、ボクとリリンの応酬は独り言にしか見えないだろう。だが幸い、森に転がっているのは死体だけだ。ボクとリリンの一人芝居を不気味がるものは居ない。
「そう。嘘じゃないんだよ。約束は守ったんだ。だからさ、くれたっていいじゃん。リリンの体」
「誰がそんな提案に乗るものですか!」
「だってさあ、もったいなんだもの。リリンってば。こんなに美しくて、頑丈で、強くて、賢い体を持ってるのに……使い方がまるで下手っぴなんだもの。ね? 試しに貸してよ。リリンの体の主導権! 世界が変わると思うなあ」
「絶対に渡しません! だって、だってあなたは……」
リリンは少し沈黙して、自分の中に入った「ボク」を糾弾する。
「あなたは、かつての魔王、ベルナデット・ザス・カルトナージュ!」
そうなのだった。
わけあって、聖女リリン・アズ・クロイライトの肉体に同棲させてもらっているが、この精神体は世を忍ぶ仮の姿。
かつて、このロランド聖王国を混沌と淫蕩の渦に沈めた大悪魔。史上最悪で最強で、そしてイチバン美しくてカッコいい魔王ことベルナデット・ザス・カルトナージュ。それこそがボクなのだった。
「ベルって呼んでね。そっちのが可愛いから」
「ふざけないでください!」
叫んだ拍子に、リリンは足を滑らせて尻もちをつく。それも当然で、彼女の肉体の疲労はボクもつぶさに感じ取れる。彼女の体は人間としての限界に近かった。並の兵士が三人がかりで相手するような魔物たちを、百体も連続して倒している。人間としてみるならば、驚異的な継戦能力だ。
「ほら、可愛く尻もちなんかついちゃって。もう君一人の体じゃないんだから気を付けてよね。ボクの可愛いおしりでもあるんだから。傷物にしちゃった責任とって、ボクに体渡しちゃお?」
「絶対渡しませんから!」
「リリンったら強情なんだから。君が今感じてる痛みも、苦しみも、全部ボクだって感じ取れてるんだよ? ボク、どっちかというと傷つくより傷つけるほうが好きなんだ。ね? ちょっと任せてみてよ。人の悲鳴を聞くのって存外に気持ちいいものだよ?」
「あなたがそういうことを言うから渡したくないんです!」
やっぱり人間の考えはよくわからない。痛みを受け、苦しんでまで戦おうとする。かつてボクをこの銀の剣に封印した『彼女』もそうだった。
「わかんないなあ」
「あなたには未来永劫わかりません」
「それを言うなら、リリンだって人を傷付けて、搾取して、貪り尽くす楽しさを知らないんだよ。……ねえ、ちょっとだけ貸してよ。リリンの体があれば、ちょっと王国の人間たちを苦しめながら殺すなんて簡単なんだからさあ」
「それを聞いて、絶対この体を渡さないって決意しました」
そう言って口を真一文字に引き締めるリリン。そうされると、どうもうまく喋れなくなる。なんだかんだとリリンは強い。この体を乗っ取るのは骨が折れそうだ。
と、リリンの鋭い聴覚に音が入る。魔物の声だ。
おっ、新手だねえリリン。と言おうとしたが、リリンは口に力を入れているので上手く発音できない。もごもごと口を動かしていると、視界にそれが入ってくる。
それは、例えるなら異形の巨人だった。二足歩行に太い腕を持った巨体。身の丈はリリンを3人重ねたほど。肌は腐ったマナの色。まるで湯だった黒い油のよう。腕はやけに大きく、その手には岩を砕いて作られたような棍棒を握りしめている。その顔にはマナが形成する不気味な結晶が成長しているが、その赤い視線はしっかりとリリンを捉えている。
リリンも気づいたことだろう。道具を持ち、それを身につけている。そして何よりも、強い意志を秘めたその眼光。
この魔物は、知識を持っている。
リリンの口からは、いつの間にか力が抜けていた。そりゃそうだ。こんな大物を相手にするために、不必要な力を使っている余裕はない。リリンは地面から剣を抜き、片手で構える。
リリンの構えは、力の抜けた良い構えだった。体幹に集中した力はやや前傾していて、剣先と重心は一番いいバランスにある。
例えば、一本の棒を平たい場所で立てようと思ったとき、それが立つ場所はたった一点しかない。多くの人間は体の使い方が下手っぴなので、その一点で立つことができない。足とか、肩とか、腰とか、とかく余計なところに力が入りがちだ。
けれど、リリンは違う。完璧に立っている。もし今すぐにリリンの体から力が消えたとしても、リリンはこの姿のまま立っているだろう。完全な肉体掌握。人間なら、並大抵の訓練で手に入れられる技術ではない。そして、当然ながら正しく使われる肉体には正しい筋肉と正しいマナが備わっている。
ああ、ほしい。リリンの体がほしい。
「ねえリリン。もうたくさん魔物を倒して疲れちゃったでしょ? こんな大物を相手にするならもう限界だと思うんだ。ね? ボクに体を貸してよ。そしたらパパっとやっつけちゃうからさ」
リリンはしばし沈黙する。
呼吸。
吸う。肺に、最高効率で空気が充填される。全身にマナが満ちる。
吐く。その形は声になった。
「お断りします」
跳躍。
魔物に向かって宙を舞うリリンの肢体は、木漏れ日にきらめいていることだろう。ああ、やっぱり完璧だ。
ボクに、君の体を全部くれ。