前夜<後編> -side S-
やっと、物語が動き始めます。
しばらく乗っていた青とクリーム色の帯の電車を隣の県のターミナル駅で降りた。さっきより風が強くなってきたみたいだ。木枯らしが落ち葉を回転させながら、音を立てて脇を通り過ぎた。そんな中、僕のチェスターコートのポケットの中で、携帯電話が短く震えた。誰からだろう。さっき、今の彼女とは「おやすみ」と挨拶をしたばかりだ。
ロック画面を見ると、Mからの通知が届いていた。「なんの話だろう」と思いつつも、携帯を開こうとは思わなかった。とにかく、今は手が冷えていて、手を木枯らしの中にさらしたくはなかったのだ。
しばらく歩いた後、高架下のショッピングモールの入り口の前で立ち止まった。
「ここなら、しばらく風をしのげそうだ。」
そうつぶやくと、僕は時間外で閉まったショッピングモールの入り口で携帯のロックを外した。緑色のチャットアプリを立ち上げ、さっきの通知を確認する。
「今年もありがとう。来年、ついに受験です。頑張らないと。」
と、Mからの通知があった。そして、僕はかじかむ手を暖めつつ返信をする。
「こちらこそありがとう。もうすぐで年を越すな。寒いから暖かくして寝ろよ。」
そして、また次のチャットに
「受験勉強、頑張れよ。無理して風邪ひくなよ。」
こう続けて送信をした。
ふと思い出した。今立っているところは、彼女とよく話をした場所だ。目の前の交差点を挟んだ場所にある薬局の隣が通っていた塾のビルのエントランスだ。そんなノスタルジーに浸りつつ、チャットアプリを眺める。既読がつき、しばらくした後、返信が送られてきた。
「ありがとう。そっちこそ風邪ひかないようにね。」
それに対してスタンプを送った後、携帯をコートのポケットにしまい、交差点を渡る。そして僕の足は、駅へと向かっていた。
駅のエスカレーターを上り、改札の前に立つ。掲示板を見て電車をチェックする。
「もう、次が終電か。」
そうつぶやきつつ、五番線と六番線のホームに行こうとする。だが、ふとやり取りを思い出した僕の足は、一番線と二番線へと向かっていた。エスカレーターを降りると、そこには見慣れた銀に黄色いラインのボディの電車が止まっている。これに乗ったら、家と反対方向で帰れなくなるだろう。だが、迷わず乗り込み青い座席に腰かけた。
電車が動きだす。目的地は次の駅だ。動く電車の中で、ふと何をしているのだろうと我に返るが、もうドアは閉まっていて次の駅で降りるしかない。電車は緩やかに高架を登っていき、やがて駅のホームへと滑り込んだ。
ドアが開き、僕は席を立ちホームへと降り立った。懐かしい匂いと空気だ。自分が中学生時代を過ごした場所の駅の階段を降り、改札を出る。閑散としていて、人があまりいない。年末だが、もうこんな時間なのだ。大学などの教育施設と住宅地しかないこの街の夜は静かなものだった。その静けさは、余計寒さを引き立たせるように思わせる。僕はすぐさま、ポケットの中へと手をしまい、駅の出口の階段を上がった
夜中でタクシーが少ないからなのか、ロータリーの真ん中の松の木が異様に目につく。それにしても、奇妙に見える。ただ、その奇妙さに違和感を少し感じつつも、僕は懐かしくも慣れた道を進んだ。
大学の正門の前を通る。さらに慣れた道を足が勝手に進む。だが、なぜか今日は頭がふわふわとして、慣れた道のはずなのに初めての場所に思える。きっと足はしっかりと進んでいるから正しいはずなのだが、脳だけが拒否をする。そこで次第に自分の状況に違和感を感じ始めた。街灯はこんなにも少なかっただろうか。もうすぐ、公園の灯りが見えるはずだ。しかし、その白い光が今日は漏れていない。マンションがあるはずなのに、灯りが消えている。だが、足元の道は慣れた道のままだ。小学校が右側にあるはずだ。きっと右脇の木は銀杏の木だろう。
足が落ち葉を踏みつける。
フカっとした感覚が足から脳へと伝わる。
落ち葉の下は、コンクリートのはずだ。なら、今の自分の感覚はなんだろうか。明らかに土の上を踏んだ感覚だ。もう公園の中まで来てしまったのかと考えてみるが、そんなはずはない。
「これはおかしい。」
声に出して呟いてみる。あたりに声が吸い込まれる。携帯をポケットから出した。
「良かった。圏外じゃない。誰でもいい。電話をかけてみよう。それからだ。」
そう一人でつぶやくと、チャットアプリの一番上の名前を選択して、電話をかける。
聴き慣れた音が耳を貫く。
しばらくして、落ち着いた声が出てきた。
「もしもし、どうしたの?」と彼女は言った。
「ごめん、今どこにいr…
そう言いかけた瞬間だった。通話が切れ、音が鳴らなくなった。目の前はまだかろうじて見えていたはずの街路樹さえも見えなくなり、僕の感覚もそこで終わった。