第十二話「エンミュの選択」
「ええ。ここはカリオス湖よ。」
立ち上がったヘリオスは、乱れた髪を整えながら言葉を続けた。
「ここは【裏世界】。世界に異変が起きた時に参照される世界よ。」
「……裏世界?その言い方だと、崩壊してしまった世界の複製とでも言うのか?」
「理解が早いわね。でも少し違うわ。どちらかといえば【裏世界】は【表世界】の影のような存在なの。ただし、同一的な世界は存在できないから、あくまで反転したバックアップとして―――と言ってもわからないわよね。………少し遅れた『鏡の中世界』といったほうがいいかしら……?」
またも暗号のような単語を繰り返してきたヘリオスだったが、俺にもわかるように話を噛み砕いてくれた。
「……この世界を参照して、元の世界を再構築する……という感じか。」
「そうそう!相変わらず頭の回転が速いわね。」
昇り始めたばかりの太陽が湖に反射し、ヘリオスの整った横顔を照らす。
美しく透き通った肌を輝かせながら、俺を見つめるその表情は真剣で、思わず姿勢を正してしまうほどだった。
彼女の瞳からは何か重要な事を話すという雰囲気が伝わってくる。
「つまり、今はこの世界が【真世界】よ。」
言葉の意味がわからなかった。
「それはどういう…?」
「そうね…言い換えれば、『この世界で起きたことは、元の世界に反映される』ということ。」
「でもそれは、元の世界でも同じことだろう?この世界は元の世界の鏡なんだから、【表世界】で起きたことを再現して……っ!」
「気づいたみたいね。」
「………そうか。俺達がいない。それに、世界の崩壊だって起きるってことになるんじゃ……」
「その通りよ。だからまずは、この世界の管理者に会いに行きましょう。」
「管理者…。裏世界の神様か……。」
うむむ……。考えることが多くて頭が痛い。
ただでさえ世界を渡ってきたのだ。身体も頭もだいぶ疲弊しているようだった。
急がねばならないが、少し休憩が必要だと身体が訴えていた。
「すまない…少しだけ休ませてくれないか?」
「ええ、かまいませんよ。私も陽の光を浴びたいわ。」
そう言うと彼女は日の昇る湖に向かって、翼のように両手を広げた。
目を瞑って気持ちよさそうに深呼吸し始めた彼女の額には、一滴の汗が光っていた。
ヘリオスは俺達二人を抱えて時空を超えてきたのだ。あれほどの力を使えば、たとえ神であってもただでは済まないのだろう。
朝日を背景に髪をなびかせる姿はとても美しく、思わず目を奪われてしまった。
(……俺も休むか。)
あまりにも絵になる光景に、呆然とその姿に見入ってしまったが、黙って見つめていても不謹慎だろう。
俺は未だ意識を取り戻していないヘカーテの元に向かうことにした。
彼女は胸の前で両手を握りしめて、草原に一本だけ生えている大きな木の下で横になっていた。
近づくと、小さく寝息をたてながら肩を上下させているのがわかる。
音を立てないように移動し、頭の直ぐ傍に腰掛ける。
そっと顔にかかる髪を払うと、一緒に旅をしている時によく見た少女の寝顔がそこにあった。
朝日に照らされて輝く横顔は、例えようもなく愛おしかった。
(無事で…良かった…。)
覗き込むようにして可愛らしい寝顔を眺めながら、頭を撫でていると不思議なことに全身に入っていた力が抜け、体の芯が温かくなった気がした。
(君の過去についても聞かないとな…。)
心の中で、独り言のように呟きながら、彼女の横髪を右耳にかけた時、違和感を感じた。
「なっ…。」
考える間もなく、違和感の正体に気がつく。
―――ピアスが着いてない。
昨晩、この湖で彼女に渡したピアス。
世界の崩壊間際に、彼女を止めることを決意させてくれたあの輝きが、今のヘカーテの耳元には無かった。
「そんな…。」
こんな感情は初めてだ。
つい先程まで温かい何かに包まれたような気持ちだった心が、今度は得体の知れない影に飲み込まれたような冷たい感覚に襲われた。
何故かはわからないが、あのピアスは絶対に無くしてはならない、とても大切なものだった。
俺には小さな時の記憶がない。物心ついたときから、不思議とあのピアスだけは肌身離さず身に着けていたのだ。
(この気持ちはなんだ…?)
胸のあたりがズキズキと痛む。
……ポタッ
不意に彼女の頬に雫が落ちた。
視界がぼやけ、彼女の姿が曖昧になる。
(なんだ…これ…。)
知らず知らずのうちに、目から涙が零れていた。
瞬きをするたびに、熱が頬をつたい、彼女の頬を濡らす。
「ご、ごめっ…。」
彼女の顔を汚すまいと、慌てて振り返り、背を向けるようにして俯く。
自分の感情がわからない。
涙を流したことなんて一度もなかった。
俺は昔から冷たい人間だと言われ続けてきた。
感情の起伏が少ないせいで、近くに寄りたがる人はだれも居なかった。
でも、彼女は違った。
こんな俺に寄り添い、感情の温もりを教えてくれた。
彼女と共に旅をして、いろんな事を経験した。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、悔しいこと…。
どんな時でも気持ちを表に出して、感情を伝えてくれる少女が傍にいた。
いつも無邪気に笑う彼女に惹かれ、いつしか俺は特別な感情を抱いていった…。
そして昨晩、その気持ちをピアスに込めて彼女に送った。
俺の一番大切なピアスを、涙混じりに受け取り、嬉しそうに笑っていた顔が今でも鮮明に思い出せる。
…………胸が痛い。
鬼に胸をえぐられるような、耐え難い痛みが俺を襲う。
思わず胸元を掴むように、右手を強く握り締めて痛みに耐えようとうずくまる。
「……うっ。」
目から溢れる涙と共に、嗚咽が漏れる。
体の内側に、目に見えない負の感情が広がり始め、体の芯が冷たく凍りついていく感覚に襲われる。
「あぁっ……。」
身体が俺の意志とは関係なく震え始める。
感情という未知の概念に押しつぶされそうになった時。
「っ!」
トンッと背中から柔らかな温もりを感じた。
突然の感触に目を見開き、上体が少しだけ持ち上がる。
起きた上半身を包み込むように、後ろから誰かが抱きついてくる。
その優しくて温かい感触に、痛みが少し和らぐ。
「大丈夫だよ。私はちゃんと傍にいるよ。」
優しく、甘い声が耳元から聞こえる。この声は――――
―――間違いなくエンミュのものだった。
いつの間にか目を覚ましていた彼女は、俺を抱きしめ、まるで子供を諭すように声を掛けてきた。
「………エンミュ?」
「そうだよ。……ほら、見て。」
ここで彼女はゆっくりと抱きしめる力を弱めて、世界を渡る前から握り続けていた両手を俺の胸の前で開いた。
「こ、これ………。」
「うん…。昨日の私にくれた、君のピアスだよ。」
優しい声の中には、少しだけ寂しそうな色が漂っていた。
「昨日の…?」
「……うん。これを受け取ったのは、今の私じゃないから…。」
その言葉を聞いてハッとした。
(昨日ピアスを渡したのは人形であって、今後ろにいる彼女ではない…!?)
だとすれば俺は今、後ろから抱きついている彼女の心を傷つけている!
「ごめんっ!」
謝りながら後ろを振り向こうとすると、彼女はそれを止めるように俺を一層強く抱きしめてきた。
「ううん、大丈夫だよ。今はセレン君の方が辛いはずだから……。」
そう言って彼女は密着し、俺の首元に顔をうずめる。
「…今は、じっとしてて。」
その優しさを前に、言葉はおろか、動くことすらできなくなった。
目を閉じると、触れ合ってる部分から伝わる熱が、冷えきった心を溶かすように全身に広がっていくのを感じる。
彼女は黙って俺を抱きしめ続け、気持ちが落ち着くまで何も言わずに待ってくれた。
俺はその優しさに甘え、ただただ彼女の温もりに浸り続けた。
「夢を見たの。人形が私に会いに来る夢。」
しばらくして身体の震えは止まり、息苦しさも無くなった頃、彼女が静かに口を開いた。
「旅の中で、私が眠っている時の話をしてくれたの。もちろん、昨日の話も…。」
「そうか……。」
「彼女は私にこう言ったの。」
背後から俺の手をとり、そっとピアスを手のひらに乗せてくる。
「このピアスを貰ったのはエンミュだから、これは渡しておくね……って。」
「………。」
「エンミュは、私達二人で一人だった。だから、私は・・・・・。」
ピアスを置いて離れていく手を、今度は俺が掴んだ。
「人形は俺達の中で生き続けている。俺達が忘れない限り、彼女はここにいるんだ。」
「ここ…に?」
「ああ。彼女のためにも、この記憶と意志を受け継がないとな。エンミュ《・・・・》。」
言葉と同時にピアスを握らせる。
背後で息を呑む音が聞こえた。
「私、彼女の想いを引き継ぐっ。今日から私は、エンミュとして生きていくっ。ずっと一緒だから…っ!」
「…今日から『も』だろ。」
顔は見えないが、目に涙を浮かべているのだろう。少し掠れた声を隠すように俺の背中を抱きしめくる。
「うん……。これからもよろしくね!」
「こちらこそ、よろしく。」
湖から昇る日は、二人を明るく照らす。
長く伸びる彼らの影は、離れるほど薄くなり、曖昧に溶け合っていた。




