第十話「ヘカーテの素顔」
俺は剣を離し、倒れる彼女を抱くように身体を支えた。
「………へ?」
腕の中から少女が不思議そうな声を出す。
閉じていた瞳をあけ、俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。
その瞳は真紅の宝石のように透き通っていて、エンミュの身体を乗っ取って居たときとは雰囲気が違って見えた。
彼女は目線を逸しながら、疑問を口にした。
「……な、何してるの?斬らないの?」
目を背ける横顔は僅かに赤く染まり、こっちを見るなとでも言いたげだ。
俺は彼女を正面に抱き寄せた。
そして右手の中指を親指の腹に引っ掛け、ゆっくりとを彼女の額に移動させていき―――
―――ペチン!
中指を弾いた。
少し湿った音が、彼女の額から鳴る。
「――痛っ!」
直ぐに両手で額を抑え、指の隙間からムッと俺を睨むように瞳を覗かせる。
(この反応……間違いない…。)
この少女の正体は……。
「どういうつもりなの?」
少し怒ったように声を出す少女。
「それはこっちの台詞だ。どういうことなんだ。エンミュ。」
途端、彼女の目が見開かれた。
驚きに満ちた顔には「どうしてわかったの?」とハッキリ書いてあった。
―――理由はいくつかある。
顔が似ていると言うのは今は置いておこう。
……彼女の刀捌きが、剣戟の心地よさが、細かな表情が。
何より、俺を映す瞳の感情が、彼女がエンミュであることを物語っていた。
―――なるほど。人形…か。
ヘリオスの言葉が蘇る。
かの守護神は俺の背後に倒れているエンミュの肉体を人形と呼んだ。
その意味がようやくわかった。アレ《・・》は文字通り≪人形≫で、今まで俺が旅をしていた時はこのヘカーテが乗り移っていたということか。
エンミュが倒れた時、生命力を送れなかったのは、既にヘカーテが外に出ていたから。
生きていない人形には生命力は受け取れない…………だが。
「どうして…?」
疑問を口にしたのは彼女ではなく俺だった。
「………え?」
「どうして、人形の彼女が呼吸してるんだっ………!!」
「っ!」
俺の台詞を聞いた途端、ヘカーテは表情を変え俺を突き飛ばし、人形の元へと駆けた。
大切な宝物を手にするように、彼女は人形の上半身を抱き上げた。
「姉様!!」
今まで聞いたことのない声だった。
彼女がエンミュを演じ、俺と旅をしていた長い時間の中でも、こんなに感情的に声を出したことはなかった。
「………姉様?」
俺は彼女の隣に移動し、説明を求めた。
「うん……人形は姉様の分身なの。」
―――分身?
「姉様が最期にくれた大切な身体…。」
―――最期?
「…全部。全部ヘリオスのせいだ…っ!」
―――ヘリオスのせい?
「ヘリオスさえ居なければ、姉様は死なずにすんだのに……!!」
徐々に感情を昂らせていくヘカーテ。
俯いた彼女の表情は読み取れない。だが、震わせる肩が彼女の心境を物語っていた。
その瞳にいつの間にか溜まっていた涙が雫となって零れ落ち、人形の頬を濡らす。
彼女の声に相槌すら打てずに居た俺が、右手を強く握りしめた時。
「…………泣かないで。」
幻聴かと一瞬考えてしまうほどに、小さな声が聞こえた。
「っ!?」
俺たちは同時に肩を叩かれたかのように驚いた。人形の口は動いていない。
それでも聞こえる声は、静かな広場でやっと耳に届くか届かないかという儚いものだった。
「…………楽しい旅だったよ。」
嘘……。と呟いたヘカーテは息を呑み、声が出せないようだ。
「…………ずっと二人のこと、近くで見てたよ。」
俺たちは静かに耳を澄ます。
「…………でも、見てるだけじゃ物足りなくて、勝手に動いちゃった時もあったなぁ。」
少し楽しそうな明るい声だった。
「…………最初は夜、ヘーちゃんが眠ってから、少しだけ、セレン君のこと見てた。」
へーちゃんというのは多分ヘカーテのあだ名だろう。
「…………だけど、ごめんなさい。いつの間にか、我慢できなくなって、貴方に、甘えてた。」
俺に甘えてた……?
「…………夜中、人の温もりが知りたくて、貴方に抱きついてたりしてたの………覚えて、ない?」
(……まさか。)
――――様々な村で寝泊まりした記憶が思い出される。
何故か隣の部屋で寝ているはずエンミュが朝になると俺の横で眠っていた事。
部屋が取れず、一つの部屋で朝を迎えることになった日の夜、手を握ってきたり、抱きついてきたりした事。
どれも翌日エンミュに確認すると「記憶にない。」というので、てっきり彼女には寝ぼけ癖があるものだと思っていたが………。
「そんな……ありえない……!人形が動いたり、話したりするなんてっ………!」
台詞にこそ棘があるが、ヘカーテは顔をぐちゃぐちゃに歪め、瞳から溢れる涙からは嬉しさが滲み出ていた。
「…………うん。勝手に、動いて、ごめんね。でも、それも今日で、おしまい。」
「……え?」
ヘカーテが腑抜けた声を上げると同時、人形の身体が光に包まれていく。
「…………私はここでお別れ。」
何か言葉をかけようと口を開いたが、俺の喉は凍りついたように声が出なかった。
「…………人形の私に、温もりを、教えてくれて、ありがとう。」
「いやああぁぁぁ!!やっと、やっとお話できたのに!!」
瞳に涙を浮かべたままのヘカーテは顔を上げ、何かに懇願するかのように声を荒げた。
「…………私は人形。元々生命なんてない。悲しまないで。二人には、幸せになって欲しいから……。」
ヘカーテの瞳から再び涙が零れ落ちる。
今度は人形の目の辺りに落ち、まるで人形が涙を流しているかのようだった。
「…………いつか。本当の私に会った時は、私がもらった温もりを教えてあげて。」
本当の私というのは、ヘカーテが最初に言った『分身』という言葉と関係があるのだろう。
嗚咽をもらし、声が出せていないヘカーテに代わり、俺が声を絞り出した。
「…ああ。必ず。」
「…………ありがとう……さよなら…。」
人形を包む光が強さを増していく。
ヘカーテは彼女を絶対に離さないというように強く抱きしめた。
しかし、光に包まれた人影は次第に形を崩していく。
まるで空気に溶け込むように、足先から形を失っていく彼女。
足から腰、手先から肩、そして身体から首へ――――
身体が消えた時、ヘカーテの腕は空気を抱き、光を舞い散らせた。
最期に顔が消える瞬間、人形は笑顔を浮かべているように見えた。
「あ……あぁ……。」
ヘカーテは、散っていく光を抱き寄せるように、胸の前に両手を集め、その場に崩れ落ちた。
彼女の手元から舞い散る光が空気に溶けていく様子を、俺は静かに見守った。
空を仰ぎ、煌々《こうこう》と輝く満月を少し憎らしく見えて――――!?
「月が………白い………?」
妙な違和感を感じた。
いつもならもう少し黄色みがあるはずだが、今宵の月は無彩色なのだ。
………月だけじゃない…。
気がつくと、薄暗い夜空も、広場の岩肌も、自身の身体さえ、視界に入るもの全てが彩度を失っていた。
―――世界の崩壊
不穏な単語が頭をよぎる。
様々なことが起こり、忘れてかけていた。
守護神なき今、この世界はいつ崩壊してもおかしくないのだ。
ヘリオスは「希望はある」と言っていたはずだ。しかし、肝心の神様は剣になったまま床に転がっている…………
(あれ?宝剣の姿がない!?)
仰け反るヘカーテを抱き支えるために、手放したはずの宝剣が姿を消していた。
周囲を見渡した時、視界の上部に違和感を感じる。
見上げるとそこには――――
美しく刀身を輝かせる宝剣が宙に浮いていた。
無彩色の世界で、その刀身だけは色を帯び続けている。
(………。)
そのあまりの神々しさに思わず見惚れてしまった。
よく見てみると、剣はゆっくりと向きを変えているように見えた。
宝剣が剣先をこちらに向いたと感じた時――――
「危ない!!」
突如、宝剣は弦で弾かれた矢のように飛んできた。
その矛先は俺の傍で座り込むヘカーテ。
彼女を守るべく、俺は剣とヘカーテの間に割り込む。
身を盾にして彼女を守ろうと手を広げた瞬間。
「くっ……。」
宝剣は驚くべき斬れ味で、俺の腹部を貫通し、柄が少し食い込んだくらいで動きを止めた。
動きが制限される事を嫌い、軽装に身を包んで居ることが今は悔やまれた。
しかし、彼女が無事なら………。
首だけを動かし、背後を確認する。
「そんなっ………。」
ヘカーテの額には宝剣の先が沈み込んでいた。
世界に色が無いことも相まって、時間が止まっているように感じられた。
彼女の紅い瞳は、剣の突き出ている俺の背中を静かに見つめていた。
――――結局、何も守れなかった。
何一つ、俺の手では救うことはできなかった。
―――この身には余るものだった。
世界も、人形も、最愛の人も、自分自身さえ守れず、全てを失った。
―――どうにかできると思っていた。
月の加護という特別な力を過信し、神話の主人公気取りだったのだ。
(……くそっ。)
何よりも、自分の無力さに失望した。
他人を助けるだの、守るだの言えるような人間ではなかったのだ。
俺は歯を食いしばりながら、前に向き直った。
せめて最期は、剣を抜いて彼女の顔を見ようと柄を握った時、あることに気がついた。
……………痛みが無い。
剣の刺さっている腹部から全く痛みを感じない。
死期が迫っているだけかとも考えたが、呼吸も苦しくないし、傷口から血も出ていない。
(どういうことだ…?)
思考を巡らせようと、頭を回転させ始めた時、まるで俺の疑問に答えるかのように声が響いた。
「よくやってくれました。これでもう大丈夫です。」