なくせない、忘れられない恋。
私には忘れられない恋がある。
「きみ、まいご?」
一人でどうすることもできずに泣いていた私を見つけてくれた男の子。
「うえええええ」
優しく声をかけてくれたのに、私は泣くばかりで。
「へいき? いま、たすけてあげる」
でも彼はそんな私に、そっと手を貸してくれた。くぼみに落ちていた私に、そっと手を差し出してくれた。
「おとうさんとおかあさんは?」
「はぐれちゃった……ぐす」
お礼を言うこともままならず、ただただぐすんぐすんと泣き続ける私の手をそっと握ってただ側にいてくれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
そう言ってお父さんが私を見つけるまでじっとそばにいて、そっと背中を撫でてくれた男の子。
記憶は今ではもうすっかり不透明ものになってしまった。あの男の子の顔すら確かじゃなくなっている。
けれど一つだけ。私が確かに思い出せることがある。
忘れたことのない事実が一つある。
あれは恋だった。あのとき私は恋に落ちたのだ。
だから私は未だにあの小さなメダルを捨てることができない。
それはさよならの直前にもらったおかしのおまけのメダル。
何の変哲もない、あの時流行っていた戦隊ものの小さなメダル。
彼と離れるのを嫌がった私にまた会えるようにって願いをこめて男の子との繋がりのメダル。
私はそれが嬉しくって、代わりに私は髪の毛にくっついてたリボンのゴムをあげた。繋がりが二重になればよりまた会えると思って。
そのゴムは買ってもらったばかりでお気に入りのゴムだったけれど、その男の子にあげた。
だけれども。あれから私は一度だって彼とは会えていない。
一度会ったあの場所にも、もう何度も足を運んだけれど会えなかった。
あの子はどこにいるんだろう。何をしているんだろうか。
もう二度と、どうやったってあの男の子と会えはしないのだろうか。
そう思うと色が剥げてしまって真っ白になってしまったこの彼との繫がりがすごく悲しく見えた。
私とあの子の関係は、自然消滅なんて言葉は使うのもおこがましいほどにわずかばかりの思い出だったけれど。それでもあえて私はこの言葉を持って現状の関係をあらわしたい。
あれは私にとっての初めての恋愛、初めての失恋だったから。
今でも私はメダルを肌身離さず持っている。筆箱にそっとしまって持ち歩いている。
もしかしたら、どこかで、また彼と。
そんな思いを捨てられなくて。
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「雪、今日の宿題見せて~」
「またなの? 妃ちゃん。たまには自分でやらないと」
教室に入るなり小学校の時からの大親友、妃ちゃんに突撃されている私、佐伯雪は中学一年生のごく普通の女子だ。
適度に校則を守り、適度に勉強をしてそれなりの中学生生活を満喫している。
ちなみに妃ちゃんが私に宿題をたかりに来るのはいつものこと。
だから私もいつものように少しだけ文句を言いつつ宿題をやってあるノートを鞄から取り出して妃ちゃんに渡した。
「わーい! 雪大好き」
「調子いいんだから」
私は意識してあきれた表情を作りながらノートを渡したのだけれど、妃ちゃんは少しも気にすることなく満面の笑みで私に抱き着いてくる。
妃ちゃん、決して頭は悪くないんだけどね。何といっても勉強が大っ嫌い。しかも英語に関してはどうしても見たくないらしい。
気持ちは分からなくもない。私だってやりたくないし。
でも怒られるのも嫌だからやってしまうし、妃ちゃんに頼られるのも分かっているからやってしまう。
これは一種の反面教師って奴だろうか。難しいことはよくわからない。
「でも妃ちゃん。すこしは自分でやってもいいんだよ?」
「えー。だって難しくてわかんないんだもん」
むーっと少しむくれた表情を作ってみせる妃ちゃんは可愛い。
私はいつもこの表情にほだされて「仕方ないなー」と言いながらもノートを貸してしまうのだ。
「今日も桂木と佐伯は仲いいね」
妃ちゃんと二人、定番のやり取りをしていると私の隣の席の穂積星矢君に声をかけられた。
桂木は妃ちゃんの苗字だ。妃ちゃんのフルネームは桂木妃という。
「おはよう、穂積君」
「おはよ、佐伯」
挨拶に返ってくる声は朝だというのに驚くほどに爽やかだった。
挨拶と共に軽くにこっとほほ笑んで見せる顔も嫌な感じは少しもせず、爽やかでかっこいい。
まあ、それもそうだろう。この穂積君、実は入学当初からあらゆる学年の女子からかなりの人気を得ている。
それもカッコいいし、頭もいいし、スポーツ万能! そんな完璧すぎる穂積君なのだから仕方ないとも言えるかな。
「そりゃね。私と雪は大! 親友なんだから。仲がいいのは当たり前じゃない」
どうだとばかりに胸を張って答える妃ちゃん。
まあ親友は否定しないけど、宿題写してる姿を見て言われている訳だからそんな自信満々に言うことでもないと思うよ。
「でも、桂木はもう少し自分でやる習慣も付けたほうがいいと思うよ?」
「うっ」
穂積君にそう返されれば妃ちゃんは言葉に詰まってしまった。
まあ、でもね。妃ちゃんもちゃんとわかってはいるみたいだから。穂積君、お手柔らかに。
「……いいの。私には雪がいるから」
「もうすぐ二年生だし、ちゃんとしないと後々困るよ?」
クスクスって感じに少し悪そうな顔で笑う穂積君。そんな顔していてもかっこよさは損なわれてはいないけど。
けれど、初めてみた。穂積君のこんな表情。こんな悪そうな顔もするんだ、と少し驚く。
「う。……雪~穂積がいじめる」
「人聞きの悪い」
「うーん。じゃあさ、今度は写すんじゃなくて一緒にやろうか、宿題」
「えー。まあでも了解……」
私が妃ちゃんじゃなくて穂積君の方に乗っかったのが不満なのか少し納得のいかない様子で、けれど肯定の返事を妃ちゃんはする。
と、沈んだ表情が一瞬キラリと光ったかと思うと妃ちゃんはこんなことを言った。
「あ! じゃあさ。穂積も一緒に勉強会、やろうよ」
名案思い付いた! とばかりに一つ手を打ってキラキラとした表情でそう言う妃ちゃん。
彼女の突拍子もない発言に私は一瞬思考が飛んでしまった。
「え、俺も?」
「そう! 穂積頭いいでしょ。勉強教えてよ」
「まあ、別に俺は構わないけど……」
私が頭を真っ白にしているうちに何故だか話はポンポン進んでいく。
そして気がついたときにはそう言いつつ、穂積君が視線でもって「佐伯さんはどう思う?」って私に問いかけていた。
「え、あ。穂積君は、いいの」
何も考えられなくてたくさんの良くわからない音とその言葉だけを私はなんとか絞り出す。
すると穂積君は満面の笑みで返してきた。
「もちろん。じゃあやろっか勉強会。三人で」
そしてその日から。教室に残って一緒に宿題をやることが私達の日課になるのだった。
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「佐伯、そこ計算間違ってるよ」
「え! あ、本当だ。かけ算間違ってるや」
「あー! もう疲れた~難しい~」
「どれどれ」
勉強会の時間は私が当初思っていたよりもずっと有意義で楽しいものだった。
黙々と一人問題に取り組む穂積君。その横で悩みながらも何とか問題を解く私。そして悩んで一番最初に音をあげる妃ちゃん。
何だかんだとこの三人でいるのはいろいろとバランスが良くて、楽しかった。
私は宿題がはかどったし、妃ちゃんも二人体制のお陰で集中力を切らしつつも何とか最後まで自力で問題に取り組むことができていた。
けれどこの勉強会、妃ちゃんはもちろんのこと私も時々穂積君に助けてもらうことがあった。
実は穂積君この勉強会を負担に感じていて迷惑に思っているのではないか。
そう考えてしまった私は一度穂積君に聞いたことがある。
「穂積君、いつもごめんね。勉強会が負担になってない?」
そうしたら。
「ううん。俺もすっごく楽しいよ。それに、教えるって言うのもかなり勉強になるから」
穂積君はそんな風に笑顔で答えてくれた。
やっぱり穂積君に申し訳ないなと思う気持ちはのこっていたのだけれど、その日私は「そっか、いつもありがとう」と答えてこの話をおしまいにした。
だって私にとって、この三人の勉強会はとっても楽しくてなくしたくないものだったから。
「ねえ、この単語の意味なに~」
「ちょっとは辞書なりなんなりで調べなよ……」
妃ちゃんとじゃれあいながら、穂積君に教えてもらって宿題をする。
ただのお隣さんじゃなくて、穂積君と友達として確かな繋がりがある。
それがその時の私にとっては大切で、なくしたくないものだった。
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それから季節は少しだけ進んで、二年生の春。
「穂積君!」
「佐伯。また一年よろしくね」
私と穂積君はまた、同じクラスになった。
残念ながら妃ちゃんは別のクラスになってしまったけれど。
「雪~どうしようクラス離れちゃった! 宿題写せない!」
「え、そこなの。妃ちゃん……」
「まあ、いい機会なんじゃないの。本来自力で解くものなんだし」
穂積君にそう言われて少し不満そうに頬を膨らませた妃ちゃん。
「はーい。でも、付き合ってもらうからね! 放課後、この教室集合で!」
「了解」
こうして私達の勉強会は二年生に上がっても続けられることが決定した。
だけど。中学二年生の九月、この勉強会は突然終わりを告げた。
そして終わらせたのは他でもない、私自身だった。
「--好きです」
渡り廊下を歩いていたときに聞こえた声。それは間違いなく妃ちゃんの声だった。
私は妃ちゃんに昼休みに用事があると言われて、久しぶりに図書室にでも行こうと思っていた。
だから私は教室のある棟から図書室のある棟へ一階の外にある渡り廊下を歩いていた。
そうしたらたまたま聞こえてしまったのだ。妃ちゃんのその声が。
私は声に驚いて思わずそっちの方を見た。見てしまった。
そこは廊下から外れた場所、木と校舎の影のあたり。そこに妃ちゃんはいた。
そして相手は、穂積君だった。
びっくりして、同時に怖くて結果までは聞けなかった。告白をのぞき見してしまった申し訳なさもあったのかもしれない。
とにかく私は穂積君の姿が目に入った見えた瞬間に逃げ出してしまった。
逃げて、私は必死で教室に飛び込んだ。
心臓が激しく鼓動していた。
これは走ったからだけではなかった。
私は酷く動揺していたのだ。
妃ちゃんの言葉に、穂積君のいつもとちょっとだけ違う声に、私は自分が見て見ぬふりをしていたことに気が付いてしまったから。
私は穂積君が好きだ。穂積君に、恋をしている。
私の気持ちは自分が気が付かないうちに大きく育っていたらしい。そんな事実に私はその日初めて気が付いてしまった。
気が付くと途端に告白している妃ちゃんのことが酷く羨ましく思った。知らず知らずのうちに見て見ぬふりをするほどの臆病者の私が自覚していたところですんなりと告白できるはずもないのに。
それなのになぜだか素直に思いを伝えた妃ちゃんに驚くぐらい嫉妬した。私よりも先にこの気持ちに気が付いた妃ちゃんに嫉妬した。そんな嫉妬何の意味もないとわかっているはずなのに。
それどころかさらには心地のいい現状を壊してしまったと妃ちゃんに対して怒りまでも抱いた。
私はすごくむかついていた。妃ちゃんが恨めしいとそう思ったのだ。
だって、妃ちゃんの告白がどんな結果だったとしても勉強会はなくなってしまう。そう思ったから。
せっかくこの気持ちに気が付けたというのに、穂積君との関わりがなくなってしまうと思ったから。
でも。
「今日は数学だね」
でもなぜだかその日、穂積君はそう言って普通に勉強会を始めようとした。
いつもと全く同じ声色で。全く同じ動作で。何一つ気負いせずに。
私はそんな穂積君の様子に一瞬ぽかんとしてしまった。穂積君は何を言っている? 勉強会をするって?
そして次の瞬間私は酷く腹が立った。
そうか、妃ちゃんを穂積君は付き合い始めたんだ。そうでなければ穂積君が、妃ちゃんがこんな普通の様子で顔を合わせられるわけがない。そして、それを私に隠そうとしている。私はそう考えた。
私は二人のことを少なくとも友達ではあると思っていた。それなのに、二人は私に何も言ってくれない。
二人は告白の事実を、二人の関係を隠して、その上で今までと同じことをしようとしている。
そのことに私は、二人に酷く裏切られた気がした。
二人が付き合い始めたくらいで私が怒ると思っているのだろうか。友達をやめると、勉強会をやめてしまうとそう思っているのだろうか。
「……ごめん今日は用事があるの」
そう思った私はそんな言葉で勉強会を断った。
悲しくて。悔しくて。ムカついて。
なんだかよくわからない感情が体の中をぐるぐる回る感じがした。
ちょっと気を抜けば目まで回ってしまいそうな気がして、私はしっかりと床を踏みしめる。
「今日は、帰るね」
そう言ってその日、私は勉強会を始めて以来初めて一人足早に家へと帰った。
そしてそれから。私は放課後のたびに用事があると言って勉強会を断るようになった。
教室で穂積君に話しかけられてもなるべく話を広げないようにしてすぐに会話を終わらせた。
妃ちゃんと登下校するのもやめた。
八つ当たりにも近い形で二人のことを避け始めたのだ。
初めは私を心配して話しかけていた穂積君も気が付けば私に話しかけなくなった。妃ちゃんも私の教室の方に来なくなった。下校も登校も毎日一人になった。
今まで仲良く三人で一緒にいたのに、そんな風になった私達に不思議に思ったのだろう。
「何かあったの」
って聞いてくる子もいたけれど、私はなんて答えていいのか分からなかった。
「なんでもないよ」
と、それしか答えられなかった。
聞いてきた子はその答えにあまり納得していない様子だったけれど、私は必死に笑ってごまかした。
そうしていれば自然とそうして聞いてくる子も少なくなっていって、いつしか私達三人は一緒が普通じゃなくなった。
少し寂しかった。他に友達がいないわけではないけれど、三人でいた時間は特別だったから。
特に妃ちゃんとは小学校からずっと一緒だった。だから妃ちゃんが隣にいないのは何か大切なものを忘れてきてしまったかのように落ち着かなかった。
けれど、仕方がない。私はどうしても二人が許せなかった。
ただ一言、付き合ったって言ってくれれば。すこし、ううんすごく悲しいけれど、おめでとうって言えた。これからも友達だよねって言えた。
もしかしたら初めてのまともな失恋に泣いてしまったかもしれない。親友がとられてしまったことが悲しくて泣いてしまったかもしれない。
けれどそれでも。二人の言葉で直接それが聞きたかった。
それは、初恋だってまともにできない私への当てつけなのだろうか。そんな被害妄想まで浮かんでしまった。
簡単に言えば私は、すねて意地を張っていたのだと思う。
今まで一番の友達だと思っていたから。いつも一番心が近いと思っていたから。
だから、妃ちゃんの小さな秘密にバカみたいにすねて、縁切りに近いことまでしてしまった。
正直に言えばもうとっくに妃ちゃんのことが恋しくなっている。
自分から手放したくせに、友達の彼氏でもいいから穂積君と話がしたくなっている。
けれど、今更。
私が私だけのために再び二人を傷つけることは絶対にしてはいけないことだ。
でも、もう一度。そう強く思った。
そうしたらなぜだかその願いは神様に聞き届けられたらしい。
「雪、話があるんだけど」
三年に上がって一か月ほど。ぽかぽかと温かい日差しの降り注ぐ五月のある日の昼休み、私は廊下で妃ちゃんに呼び止められたのだ。
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「……なにそれ」
「ごめん、本当にごめんなさい」
私はあらいざらいすべてのことを妃ちゃんに話すことになった。
今まで私が妃ちゃんや穂積君のことを避けていた訳、その理由を。
そんな私の言葉をだまって聞いていた妃ちゃんは最後にそれだけ言った。
それに対して私はごめん、と返すのが精一杯だった。
妃ちゃんの声は普段――と言ってももう半年以上あまり話してはいなかったけれど――よりだいぶ低くて、冷たかった。妃ちゃんは明らかに怒っている。
「私、今まで雪がこんなバカだなんて思ってなかった」
「ごめんなさい」
「そもそも思った時に言ってくれればよかったのに」
「ごめん」
私は機械みたいにただただ謝ることしかできなかった。
そんな私に妃ちゃんはあきれたみたいに息を吐き出して、すこしだけ肩の力を抜く。
「別に怒ってな……いや、まあ怒ってはいるけど。謝ってほしいわけじゃないんだよ」
「うん」
「まあ、私もさ。何か理由あるんだろうなあと思いつつも時間が解決してくれるかなって軽く思ってて。だから雪に話聞けなかったわけだし」
「ごめん」
「…………」
「あーもう!」謝ってほしいわけじゃないと言っているのにいつまでも謝り続ける私に妃ちゃんは大きな声を出した。
少しだけ私の肩がはねる。
「わかった。この件に関しては雪が全面的に悪い」
「……うん」
「だから、私には雪に対して見返りを要求できる」
「うん」
「今日の放課後、付き合って」
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「んーおいし」
「それはよかった」
放課後、私は妃ちゃんに言われた通り一緒に近くのフードコートへとやってきていた。
私達の目の前には一つのドーナッツと二つの飲み物。お金を払ったのは私。
ここに来るなり「とりあえずおごって」と妃ちゃんに言われて、流されるがままにお金を払った。
「で、よ。雪」
席に着くなりもぐもぐとひたすらにドーナツを頬張っていた妃ちゃんはドーナツを食べ終わると飲み物を一口飲んで、私に声をかけた。
「何でしょうか」
「私と穂積だっけ。付き合ってないよ」
「え」
「あの時ね、振られたんだよ私」
妃ちゃんは遠くを見るようにして思い出しながらその時のことを話してくれた。
「穂積ね、好きな人がいるらしい。だから無理って言って振られちゃった」
「その好きな人って?」
「昔、一度だけあったことがある子だって。一回しかあってないけど今も忘れられない子って言ってた」
「そっか……」
私が半年以上の間いろいろと悩んで迷走した問題は全くの妄想だった。
その事実に呆然として私はそんな生返事しか返せなかった。
「思い出の女の子、かあ」
思い出の女の子。穂積君のその子がどんな子なのかは私には分からない。
けれど、それがどれほどのものなのかそれはなんとなく私にも分かる気がした。
だって私にも思い出の男の子がいるんのだから。
「でも、意外だな」
「何が?」
「てっきり私、雪もまだメダルの彼が好きなんだと思ってた」
「あー」
あらいざらい話した中、話の流れで私は穂積君が好きなことまで話していた。
だからだろう。妃ちゃんからそう言われた。
「確かにね、好きだよ。あのメダルの男の子のこと。あの日の私にとって間違いなくあの男の子はヒーローだったわけだし」
「うん」
「忘れたわけじゃないよ、あの男の子のこと。でもね、穂積君のことも好きなの」
「そっか」
「どっちの方が好きかって言われても困る、かな。どっちも好き。でもだからって穂積君に対する好きが軽いってわけでもないんだよ」
「わかってる。さっきの大告白聞いてそうは思わない」
恥ずかしくって私はへへへって情けない笑いを浮かべた。
話の流れとはいえ、きっと告白するにしても本人にも言わないようなことを妃ちゃんには話してしまった。
「あーあ、でもさ。私ってば雪が早とちりしたせいで、振られたあげくに親友からも距離置かれたんだよねぇ」
「う」
「私すっごく可哀そ!」
「申し訳ないデス」
ストローに齧り付きながら妃ちゃんが言った。
全く本当に申し訳ないことです……。
「許さない」
「…………」
「ふふ。これからは何かあっても一人で考えないでちゃんと確認すること。約束しないと許さないから」
「妃ちゃん」
ぴしっと指を突き付けながらそう言った妃ちゃんは実に八か月ぶりにみるいたずらっ子のようで、けれどとてもきれいな笑顔をしていた。
「ごめんなさい。でもありがとう」
「もういいよ」
そう言えば妃ちゃんはいつもみたいに笑ってくれた。
もともと妃ちゃんは半年ほどのうちに穂積君に対する未練なんてものはすっぱりなくなっていて、今は別の好きな人がいるらしい。
だからもういいんだって。
「ところでさ、メダルの男の子ってどんな子だったの? 私、メダル貰ったってことしか聞いたことがないけど」
「えっと……可愛い子、だったかな。なんか女の子と間違うって感じではないんだけど、綺麗で可愛い子。太陽の光を全身に受けてて、髪の毛とかキラッキラしててさ。神様の使いって言われてもあのときだったら疑わなかったかも」
「さすがに言い過ぎじゃない」
記憶の中で美化している気はしている。けれど、あの時の私にはそれくらいに思えた。
「かもね。でも、その時私落っこちてて絶望的な気持ちだったから。助けてくれる人は神様みたいに思えたんだと思う。それに小さいころの思い出だし。そういうものじゃないかな」
「そういうものかな」
妃ちゃんはあんまり納得していないみたいだった。でも、構わない。
「なんか話したら、また行きたくなってきたな」
「その男の子とあった場所?」
「そ。ちょうど明日暇だし、久々に行ってみようかな」
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「ここ?」
そして次の日。私は妃ちゃんと一緒に思い出のくぼみへと来ていた。
「なーんか思ってたより普通のへこみだね」
「まあね。でも、小さいときはそれはそれは怖かったんだよ」
大きくなってから見るそこはどう見てもあのときみたいな障害にもなるようなものではなくて。
私が大きくなっているんだという事実をひしひしと感じた。
「ここでその男の子と会ったんだよね」
「うん」
「雪はなんでこんな場所来ちゃったの」
ぱしゃり。なぜだか写真を撮りながら妃ちゃんが言った。
「お父さんお母さんとはぐれちゃって。じっとしていればいいのに、うろうろしちゃってさ。いつの間にかたどり着いたの」
あの日、お父さんとお母さんとここに来ていた私。明確な理由は忘れてしまったけれど、ぬいぐるみか何かに興味を引かれた私はいつの間にか二人とはぐれてしまっていた。
そのあと私は必死に両親を探した。記憶を頼りに今まで通ってきた道をたどるうちにいつの間にかショッピングセンターから出て駐車場の隅まで来ていた。
そしてうっかり足を踏み外し、くぼみに落ちてしまったのだった。
あの時の私の何とも言えない絶望感はあれ以来一度も感じたことはない。それくらいの出来事だった。
なつかしいな。いい思い出、とは何周回っても言えないものだけれど。
そう思いながら妃ちゃんに向かってぽつぽつと断片的に幼い頃の話をしていると、妃ちゃんが急に声をあげた。
「あ!」
何事かと驚き妃ちゃんの様子を伺うと、彼女は携帯をいじっていた。
「なに、どうしたの?」
「えっとー。なんか、友達もここに来てるみたい。用事があるからちょっと来てほしいって言われてさ」
「そうなの? 行ってきていいよ。私本屋さんででも時間つぶしてるし」
「あ、いや。すぐそこだし! すぐだから! ここで待ってて!」
そして言うが早いかなんだか焦った様子の妃ちゃんはそう言い残すとどこかへ走り去ってしまった。
別に寒くも暑くもないし、日陰も日向もあるからここで待つのは構わないけれど。なんだか様子がおかしかった、と思う。
何だったんだろうと考えつつも、当の妃ちゃんがいないのではそれを聞くこともできない。手持ち無沙汰になってしまった私は携帯を取り出して適当にいじり始めた。
「佐伯」
「え?」
急に名前を呼ばれて振り返る。
「穂積君?」
そこには何故か穂積君が立っていた。
五月のゆったりとした風になびく穂積君の髪の毛は陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
二年の九月に話さなくなり、四月からはクラスすら違う穂積君。久しぶりに見た彼は少しばかり身長が伸びていた。
ちょうど、ほんの少しだけ首を傾けて見上げる位置に穂積君の顔がある。
「久しぶり」
そう言って穂積君は私の方へ一歩、二歩と足を進めた。
「えっと……」
何がなんだかわからない私は携帯を片手におろおろと穂積君の顔を眺める。
陽の光に透かされた髪がブロンドに輝く。
「俺、昔ここに来たことがあるんだ」
唐突に穂積君が何かを話し始めた。
「その時さ、俺迷子になっちゃって。じっとしてればいいのにうろうろ歩き回ってさ、いつの間にかこんな駐車場の隅に来てたんだよね」
それはどこかで聞いた、というか昨日私が妃ちゃんに話したのとそっくりな話だった。
穂積君も似た経験をしたことがあるのだろうか。
ちょっとした共通点に少しだけ嬉しくなった。
「で、そうしたら声が聞こえるんだ。女の子の泣き声。それで、声のする方にはくぼみがあった。雨の時駐車場に溜まる雨を流すくぼみ。当時の自分にしては大きなくぼみ。正直近寄るのは怖かった。勇気を振り絞ってのぞき込んだんだよ」
そこまで言うと穂積君はまっすぐに私の目を見た。
「一目惚れだったんだよ。一瞬でその子が好きになった。本当に恋に理由なんてないんだって思うよ」
「そっか」
「あれ、興味なかった?」
どうしていいのかわからず、そして穂積君がどうしてそんな話をするのかもわからず、呆然とただ返事をする私に苦笑する穂積君。
いったい彼はどうしてしまったんだ。私に、何が言いたいの。
「その子にこれ、もらったんだ。宝物って言ってた」
「……っこれ!」
私のすぐ目の前まで近づいてきた穂積君がポケットから何かを取り出す。その何かを認識した時、私は疑問の答えを得た。そして驚きのあまり一瞬思考が止まってしまった。
「リボンの、ゴム」
小さい頃に私のお気に入りだったリボンのモチーフのついたヘアゴムだった。あの時、あの男の子に上げたはずのお気に入りのゴムだった。
「お父さんとお母さん見つかってよかったね」
びっくりして、わけがわからなくなって、なぜだか視界がうるんでいく。
滲んでゆらゆら揺らめく視界の中で穂積君の姿がカゲロウみたいに輪郭をあやふやにしていく。
陽の光を背中に背負って穂積君の髪の毛がキラキラと光る。輪郭があやふやで、でも綺麗な顔が笑顔を形作った。
『おとうさんとおかあさん、みつかってよかったね』
あの日の男の子のセリフが重なった。
「あのっ」
私は必死で鞄を探る。そして何とか目的の筆箱を探り出すことに成功する。
少しばかり乱暴な手つきでファスナーを開いて、メダルを取り出した。
「これ、くれた、の?」
手のひらに乗せたメダルを見せて、何か言わなければと言葉をひねり出す。
結局、言葉の明確な着地点は見つからなくて飛び石のように途切れ途切れのものになってしまったのだが。
「まだ、持っててくれたんだ」
嬉しそうに笑った穂積君に私の涙腺はさらにバカになってしまった。
もうぽろぽろなんてかわいい涙の出方ではなく、ぼろぼろとそれこそ滝みたいに涙が流れていく。
ひっくひっくとひゃっくりまで出始めて肩が上下し、息が苦しい。
「穂積、君。メダルの、男の子だった、の?」
「うん」
「でも、だって、それじゃあ」
私の中で二人分の好きが、失恋が、四つが複雑にまじりあってわけが分からなくなった。
私は穂積君が好きだった。けれど、失恋してしまった。彼には思い出の女の子がいる。
私はメダルの男の子が好きだった。けれど、自然消滅してしまった。たった一度きりの出会い。向こうが覚えているはずもない。
でも、穂積君の思い出の女の子は私だった。
でも、男の子は私のことを覚えていた。
でも。でも。でも。
訳が分からなくなって、頭が混乱する。
ひっくひっくと止まらないひゃっくりが脳の酸素を奪っていく。
頭が、回らない。
「落ち着いて」
その言葉は私の目の前、一メートルに満たない距離から聞こえてきた。
次の瞬間ふわりと、かいだことのない柔軟剤の香りがした。
「深呼吸、深呼吸」
言いながら、穂積君は私の背中を撫でた。
距離が近い。彼は私の目の前にいる。彼の腕は私の背中に回っていた。
抱きしめられている。
「あ、え、穂積君!」
「大丈夫大丈夫。とりあえず落ち着いて?」
とんとんと一定のリズムで背中をたたかれて何とか私の呼吸は安定する。
最後に大きく二回ほど深呼吸をして、やんわりと穂積君の肩を押した。
「ごめん、もう大丈夫」
「よかった」
改めて見た穂積君の表情はやっぱり笑顔だった。
「あの」
「ねえ」
私と穂積君の言葉はほとんど同時だった。
声を出したはいいものの内容なんて何一つ思いついていなかった私は穂積君に会話を譲る。
「初恋はかなわないってよく言うけどさ。俺の初恋はどう? 叶わない?」
「え?」
穂積君の頬は少し赤くなっていた。よく見れば耳も赤い。
「佐伯さん」
「はい」
「俺は君が好きです。俺の恋人になってくれませんか」
「――はい」
穂積君の初恋は、私の初めての恋は、どうやら叶ったみたいです。
=========
「まったくさあ! 私は何、当て馬なの!」
これはその後の妃ちゃんの言葉。申し訳ないとも思うので、後日再びドーナッツをおごることにする。
けれど私は申し訳ないと思う以上に妃ちゃんには感謝をしていた。
今日、穂積君とであったこと。こうなるように調整をしてくれたのは妃ちゃんだったと穂積君から聞いた。
なんでもドーナッツを食べながら仲直りをしたあの日、私からメダルの男の子の話を詳しく聞いた妃ちゃんは穂積君に告白した時に聞きだした話とすごく似ていると思ったらしい。
それで穂積君に連絡。詳しく話を聞き出したとか。
そうしたら見事に一致。穂積君がなんとなく私があの時の女の子だったんじゃないかと思っていたこともあって今日の出来事につながったとのこと。
さらに妃ちゃんは穂積君と連絡を取りながら私と一緒に駐車場までいき、排水口の写真を穂積君に送ることで私と穂積君の思い出がおんなじものであるかどうかの最終確認の手伝いまでしてくれていたというから感謝してもしたりない。
本当によくできた友達だ。妃ちゃんがいなければ今日のことはなかった。
それどころか三人での勉強会は開かれなかっただろうし、穂積君も私も互いがあの時の子だと気が付けなかったと思う。
「ごめん。でも、本当にありがとう」
「……ふんっ」
お礼を言ったら妃ちゃんは勢いよく顔を背けてしまったけれど、それは照れ隠しだと思う。
だって、頬が赤くなっていたから。
「穂積、雪のこと泣かせたら許さないから」
「当たり前だよ」
ほら、こんなことまで言ってくれる。妃ちゃんは本当に最高の友達だと思う。
「妃ちゃん~! 大好きだよ!」
「雪~!」
きっと妃ちゃんには思うところもたくさんあるだろうけど、それを表に出さないでくれる。
だから私と妃ちゃんはずっと友達でいられるってそう思った。
「なんだかな……」
いつも通りの私と妃ちゃんのやり取りに釈然としない様子の穂積君。初めて見る少しすねた表情はとってもかわいかった。
「でもね、穂積君」
すねた穂積君の隣にそっとよって耳元で囁く。
「私が一番好きなのは穂積君だよ」
なくせなかった私の恋。忘れられなかった初めての恋。
そのどちらもが最高の形で結末を迎えられた。
私は穂積君が好きです。
これから二人で同じ場所を見て、同じ時間を共有していきたいな。