変わりすぎな家
『こんばんは〜』
幼少期の私の家には、平日、休日、関係なく、
ありとあらゆるお客が来ていた。お客の中身は、
政治家、市の行政の人、学校の先生、医者、外国の人、右翼、やくざの人など。読者の方はどんな家だ?と思われると思うが、私はあらゆる場面を目の当たりにしてきた。リアルだ。でも、私の人生の経験という《キーポイント》とすれば、この
1幕からもう始まっていた。普通には体験できない経験を幼少期にはしていた。読者の方なら、毎日人がきて、話す声、笑い声が大音量の狭い住宅での出来事に嫌気がささないだろうか。一軒家ならまだしも、横の部屋との壁が、ふすま一枚で会話や笑い声がダイレクトに聞こえ、ある意味、犯罪級のうるさい環境に毎日耐えられるだろうか。
私には2人の兄がいますが、15歳離れている兄、
10歳離れている兄、2人共、この家の環境を嫌い、
うるさかったな。本当にうるさいってどころの
話じゃねえよと私によく言っていた。
『おまえうるさくなかったか?あの環境』兄が私に尋ねた。兄は余程嫌気がさしていたのだろう。
しかし、私はそうは思わなかった。むしろ、今からすると、この経験も私には好都合と言える経験である事は他ならない。大人になって15歳離れている兄から、
兄『おまえの頃なんてまだ良いよ。俺が小さい時は、あのうるささ+カラオケだぞ!』
私『カラオケ?なんで?カラオケ機材なんて、家にはなかったじゃん』
兄『馬鹿。カセットを流すステレオデッキに、直接マイクをぶっさして、家でカラオケ大会じゃ』
半端ねえ。ある意味でも何でもなくクレイジー。
近所の人はどう思っていたのか、住宅からの文句や苦情はこなかったのか、何故か謎だ。
私の頃にはカラオケ大会はなかったからなのか、
それを聞いても、私は不思議とケロっとしていた。毎日どんちゃん騒ぎ、毎日パーティーの家で生まれてきた事にも、それでも私は幸せだったと今思えばそう思う。
その事とは対照的に、家に来るお客さんには、
とても優しく接してもらえる人達ばかりで、
私は何故か、この環境が好きだった。
私の家に来る人で一番多い人が、空手の弟子、
保護者の人だ。実は親父は、空手を教える
師範(先生)であり、その空手関係の人は毎日
誰かしら来ていた。お袋はいつもこう言っていた
『お父さんを褒める時は空手だけ。空手だけは
本当に褒めるわ』
亭主関白で家の事などは何一つしない親父は、
師範という立場があるからなのか、空手の練習は一切休む事なく行く。私の記憶でも、何か空手連盟の会合がない限りは、空手を休む所は見た事がない。お袋は、それをいつも見ていてか、親父の空手に対する情熱を感じてか、そう言っていた。
親父は、生まれた頃、3歳で両親が離婚し、私の
おばあちゃんが女で一つで親父を育ててくれたと
聞いていた。空手を始めたきっかけは、
『小学生の頃、いじめられたけえじゃ』と親父は言っていた。理由は定かではないが、そう私に言っていた。 おばあちゃんは親父を育てる為、昼夜問わず仕事に行っていたので、親父はとても寂しい思いをしたとも言っていた。
『俺は貧乏で何もなかったから、米に味噌をつけて食べるか、塩つけて食べるしかなかった。良い時は、一枚5円の天ぷらじゃ。ハングリー精神がない奴は何事も強くなれんぞ!!』
これも親父の口癖だった。又、こうも言った。
『人の痛みが分かる人間になれ。嘘はつくな』
カッコなんぞつけなくていいから、自然体の素直なままでいろと。