カラフルなモノクロ
「それ、視力が悪いの?」
ジョン・レノンみたいな丸メガネをかけた男は、軽く頷いた。
「悪いよ。外したら見えない。」
男はメガネを取って、切れ長の目を細めて笑った。
「メガネかけてても男前だけど、外すともっとかっこいいのね。」
きっと、私は笑っていた。
男は顔を伏せて、すっとメガネをかけた。
「ありがとうございます。」
朝になっているのはわかっている。
ベッドが揺れて、正志が先に起きたのもわかっている。
だけど、眠くて眠くてしょうがない。
「おはよう。」
正志が私の髪の毛をわしゃわしゃと撫でて声をかけてくる。
それを振り払うように、うーん、と言って、寝返りを打った。
呆れたため息が聞こえる。
次の瞬間、身体中に正志の重みを感じ、無理矢理キスで唇を塞がれた。
「んっ、んー。」
目を開けると唇を合わせたまま笑っている正志。
ぷはっと息を吐いて、正志の腕に抱かれる。
「起きるしかないじゃん、意地悪。」
「朱里が起きないからでしょう。朝ごはん食べるよ。」
正志はキッチンから大きなトレーにサラダやスコーン、紅茶を乗せて運んでくる。
上半身を起こした私の膝にそれが置かれ、正志はベッドサイドに腰掛けた。
「夢、見たよ。」
「どんな?」
「正志と出会った時の夢。」
「ああ、桜が満開の日で、お花見の帰りにうちの店に来たんだっけ?」
「そう。メンズの洋服屋なんて、もちろん縁がなかったわけだけど、連れて行かれたら、正志がいて。」
「ずっと考えてたって言ってたね。この人は視力が悪いのか、伊達メガネなのか、って。」
「そう。伊達メガネじゃなかったけど。」
「けど?」
「裸眼の正志が好き。」
「どうして?」
「そっちの方が壁がないような気がするから。」
正志はレタスをフォークで突き刺すと、私の口に運んだ。
「朱里はメガネをしてなくても、壁があるみたいだよ。」
正志はいつもこうだ。
自分は近くにいるのに、離れているのは私だと。
あながち間違いでもないから、否定できない。
正志は甘いマスクに甘い声、モノトーンで統一されたファッションは綺麗で、肩まで無造作に伸びた髪の毛と、白くてつるつるの肌、英語も堪能ときたら、こんなできた男に愛されるなんて嘘だと思う。
これは一時のもので、いつか夢は覚めるんだって毎日自分に言い聞かせていないと、失った時に正気でいられなくなるかもしれないと不安に駆られる。
私を甘やかす正志とは反対に、私は正志に反発した。
「先に好きになったのは私。」
スコーンを口に入れながら不満そうに言うと、正志はいつの間にかメガネをかけていた。
「先に口説いたのは僕。」
だから、どっちだっていいじゃない、と言う口調だ。
どっちだってよくない。
好きになったら負け、の法則は、いつだってあるのだ。
本当は正志を失うのが怖いのに、今失うか、少し先に失うかなら、早く離れたいと思う。
心も体も、どっぷり正志に浸かって、忘れられなくなる前に。
食事が終わると、正志は英語の歌を口づさみながらキッチンに行き、また戻ってくる。
身長の高い正志がベッドに寝転がると、少し狭く感じる。
長い腕に巻き込まれるようにして、ずるずると体が沈んでいく。
「朱里、愛してるよ。」
正志の温かい息が唇に触れる、長い髪が頬に触れる。
全身で正志を感じる。温かくて、優しい。
「正志ぃ。」
名前を呼ぶと、笑顔でキスをしてくれる。
それが嬉しくて、何度も呼んだ。
「朱里は子供みたいだねぇ。いっこしか年違わないのに。」
正志は二十四歳、私は二十三歳。
でも、正志はいつもその年齢に見えなかった。
十六歳の少年のように壊れやすくも見えたし、四十歳の紳士のように凛としても見えた。
「私が子供なんじゃないよ。正志が私を子供にするんだよ。」
「それは、甘えてるって解釈でいいのかな?さ、出勤の準備しなくちゃね。」
正志は私をぎゅっと抱きしめると、耳元で英語を囁いた。なんとかベイビーみたいにしか聞こえないが、愛してるよとか大切な人とか、そういう言葉だという事は理解できた。
「それ、反則だよね。」
立ち上がった正志に言う。
「何が?」
追い駆けるようにして、正志の背中に抱きつくと、くるりと体を回して抱き上げられたので、正志の体に足を巻きつけた。
「英語。」
「だって、出ちゃうんだもん。仕方ない。それとも、日本語に訳して言ってほしい?」
「いい。大体わかるから。それに、反則だけど、嫌いじゃない。」
「朱里は素直じゃないなぁ。」
正志は私を抱き上げたまま、洗面所の前まで歩いた。
英語は嫌いじゃない。正志の口にする英語に限って、だが。
特に、エッチする時に英語を使われると、訳は分からないが、なんだかいい気分になる。あと、怒ってる時も、理解できない事の方が多いけど、ごめんねと言いやすい。
それは多分、日本語だと露骨で受け取り難い言葉でも、ワンクッションおいた表現に聞こえて、こちらが受け取りやすくなるのだろう。
正志がそんな事を考えて英語を使っているのかはわからない。
ただひとつ言えるのは、私にはとても効果的なものだという事だ。
「朱里、おりてくれないと歯が磨けない。」
手を離されても、私は正志にしがみついていた。
「私も磨かないからいいじゃん。」
「そんな事してると。」
「してると?」
強引に体を引きはがされ、よろけた足で立つと、とても楽しそうな顔をした正志。
「朱里のそういうとこが好きな僕も、だめだなぁ。」
そう言った正志は、私の服に手をかけた。
朝から鏡の前で裸にさせられた私は、正志の細い体を鏡越しに見て、笑っていた。
大体、正志といると、世界がそれだけになってしまう。
あったかくてふにゃふにゃした、異次元。
口説いたのは僕の方だと正志は言うが、あの日、メガネの下の素顔を見てくらくらした私が、SNSからちょっかいをかけたのが始まりだ。
何て事ない、今日はありがとうとか、かっこよくてファンになっちゃいましたとか、またお店にお邪魔しますとか、そういうような事だ。
そしたら、正志からメッセージが来た。
お店じゃなくて、食事でもどうですか、だっけ。
食事に行った帰り、別れ際に頬にキスをされ、バイリンガルな正志にとっては特に意味のない事だとは思ったが、後日、気になる人にしかしない、と言っていた。
私は正志のジャケットの裾を掴んで、俯いたのだ。
だけど、その日は優しく抱きしめられて、正志は紳士的に私を帰した。
増えていく連絡と、会いたい気持ちは、お互いだったようで、一緒に住み始めるまで時間はかからなかった。
正志のお店と、私の働くカフェは近かったし、ひとりでは広いと言っていた正志の部屋に私が転がり込む形だった。
正志は言葉が堪能なのに、どこか掴み所がない。
今、私を見ていたかと思うと、もう次の瞬間には他の何かを考えているように見える。
だからいつも遠く感じる。
その話を正志にしたら、
「朱里がそう思ってる時は僕もそう思ってるよ。」
と言われた。
そんなものだろうか。
カフェの裏口にある喫煙所から正志に連絡をする。
午後六時。正志の仕事が終わるまであと三時間。
<早く会いたい。>
意外にも、煙草を吸い終える前に返信があった。
<僕も早く会いたい。初めて会った時から、朱里が視界にいない時はいつもそう思ってた。>
正志はこっちが舞い上がるくらい、上手に甘い言葉を綴る。
どこで誰にそんな技を習ったんだろうと、勝手な嫉妬に駆られる事は多い。
<スーパーで買い物してから帰る。今日は私が晩御飯作るよ。>
<荷物重くなるでしょ?大丈夫?仕事引けたらすぐ電話する。>
<正志がいなくても大丈夫。>
それだけを打つと、仕事に戻った。
あなたがいなくても大丈夫なんて言われたら、誰だってショックだ。
でも、正志なら、許してくれると思ったし、大丈夫じゃないよって言いたい自分を押し殺すには、ああ言うしかなかった。
そう思っても、拭えない罪悪感で夕食の材料を余計に買い込んでしまう。
手に食い込む安っぽいビニール袋の重みは、私が正志を傷つけた重み。
正志が帰ってくるまでに、白和えや味噌汁を作り、和定食の支度をする。
ダイニングの椅子に座って、正志が座るはずの向かいを見つめた。
無意味に手を伸ばして、そこに正志を探す。
「嘘。ほんとは正志がいなきゃだめ。ごめんね。ごめんね。正志が大好き。」
相手がいないと独り言になるだけの言葉は、それでも伝わっていればいいと思った。
テーブルに突っ伏して、静まり返った部屋に耳を澄ます。
こうしていたら、正志の靴音がきっと聞こえるはずだ。そんなかすかな音さえ愛しく感じるほど、私は正志が好きだった。
きっと、正志が思うより、私は正志が好きで。
きっと、私が思うより、私は正志が好き。
ゴンッという音に近い正志の重い足音に反射的に椅子から駆け出す。
ガチャッと正志が鍵を回す時間さえもどかしい程。
玄関のドアをおぼつかない手で引っ張ると、鍵ごと引っ張られた正志が前のめりに入ってきた。
「びっ」
くりした、と言いたいのだろう正志にキスをして、メガネを外して、正志の両頬を思い切り手のひらで挟んで、真っ直ぐに瞳を見た。
温かくて優しい目。
「スーパーでお魚を買ったの。お豆腐と春菊を買ったの。玉子と玉ねぎを買ったの。牛蒡と人参を買ったの。デザートにりんごを買ったの。ジュースが飲みたくてミックスジュースを買ったの。」
正志は鍵を抜いて、玄関に立ったまま、少し身をかがめてうんうん聞いてくれる。
「帰り道、荷物が重くて、手が痛かったの。」
話しているうちに、涙が出てきた。正志は骨ばった指で、私の涙をすくっていく。
「でも、きっと今まで正志と付き合った女の子は私なんかよりもっともっと正志に優しくしたり、素敵な事をしてくれたんだろうなって思うと、どうしたらいいかわからなくなるの。」
正志は大きく首を横に振って、悲しそうな顔をした。
「過去は聞かない。聞いても嫌な気持ちになるだけだもの。だけど、知らないからどんどんこうだったんじゃないか、ああだったんじゃないか、って、追いつめられてくの。」
大丈夫だよって言ってるみたいに、強く抱きしめてくる。
「正志。愛してるよ。」
しゃくり上げる程、泣いて、正志に抱き上げられてベッドに寝転んだ。
「朱里。朱里。僕は朱里しか好きじゃないよ。大丈夫だよ。ここにいるよ。ずっといるよ。」
「でもずっといるって今までだって言ってきたでしょう。そんなの嘘じゃん。それが悲しい。」
責めているだけなのはわかっていた。だけど今は泣きたい。正志を困らせたい。
そうやって子供じみた行為で正志を独り占めしていたい。
「朱里、こっち向いて。」
涙でぼろぼろの顔を向けると、正志は微笑んでいた。
「朱里から連絡があって、今日は早く帰りたいなって、早く朱里の顔を見て、キスをして、同じベッドで眠りたいなって思ったんだよ。いい匂いがする。夕食作ってくれたんだね。ほら、おいで。」
正志は私を膝に乗せると、子供をあやすように前後に揺れながら背中をぽんぽんと叩いてくれた。
用意していた和定食は好評で、今度はふたりでスーパーに行こうね、と言われた。
ただそれだけの事なんだけど、全て伝わっているような気がした。
眠る前に、正志の胸に耳をつける。
トクトクトク、規則正しい心臓の音。
今、世界中で一番近くにいる音。
生きてる音。
正志のクローゼットは、ほぼモノトーンだった。アクセサリーは決まってシルバーだった。靴箱も、モノトーン。
正志が作ってくれた私用のパイプ式クローゼットには、カラフルな洋服が溢れていた。
「どうしていつも白と黒しか着ないの?」
デートに出かける用意をしている時だった。
正志は黒のパンツにベルトを通しながら、笑っていた。
「落ち着くからかなぁ。白黒つかない事が多い人生で、洋服くらいははっきりしたものでいたいのかもね。余計な色が入ると自分が汚れるような気がするんだ。」
ふぅん、と返事をしたが、理解できなかった。
まだ裸のままの正志の背中にキスをして、ぴたりとくっつく。
「朱里、せめて下着つけてからくっついてくれる?我慢できなくなるでしょ。」
「そう?白、これからデートに行く、黒、ベッドで愛を語る。正志はどっち?」
通されたばかりのベルトをするりと抜いていく。
大きな背中。この背中が私だけのもんなんて、現実味がない。
「そういう白黒じゃないんだけど。」
「じゃあ、青、公園を散歩してカフェでケーキを食べる、赤、床に寝そべっていちゃいちゃする。」
「黙れよ。」
正志は振り向くと、私の首を絞めるようにぐいと手を置いて、どんどん後ずさっていく私はベッドにぶつかり倒れた。
ぶつぶつとデートの予定が狂った事を愚痴るような正志の英語が聞こえてきたが、それさえ嬉しくて、正志の髪の毛を引っ張りめちゃくちゃにキスをした。
荒い息の合間に、正志は私の首に噛み付きながら、英語と日本語のちゃんぽんで愛を語る。もちろん、私に理解できるのは日本語だけだ。
「~朱里~?~本当は~。愛してる~だって世界は~。」
ベルトを失ったパンツを片足に残した正志に体を乗せて、英語を発していた唇を指でなぞった。
「何、言ってたの?」
「ん?」
「さっき、英語で。」
「ああ、世界は終わってるに等くて、モノクロにしか見えなかったけど、朱里と出会って色付いた。朱里は僕がどんな色に見える?」
「嘘。もっと何か言ってた。」
むくれて立ち上がり、お気に入りの赤いワンピースを着た。
正志は足に引っかかったパンツを履き直すと、白いシャツに袖を通す。
「興奮して口走った事なんて、全部覚えていられないよ。今日の朱里は、赤。一番似合う色だね。」
笑って誤魔化されたようで、気分が悪い。
「今日の正志もモノクロ。全部を塗り潰す黒。全部を見えなくしちゃう白。いつも本当の正志が見えない。いつもいつも」
「永遠なんてないんだよ。」
唐突な言葉に、息が詰まった。
いつか終わる事はわかっていても、それは今ではなく、明日のその先のずっと先の、今日からは見えない場所にあるものだと思っていたから。
「だから、なおさら一緒にいたいって、今日を積み重ねて、永遠には及ばなくてもずっといたいって思うんだよ。」
シャツがはだけたままの正志が私の手を取ろうとしたが、触れる寸前で手を引いた。
バッグを持って、何も言わずに玄関に向かう。
引き止める声も、追いかけてくる足音も、聞こえない。
背中を向けながらも、どうして引き止めてくれないのか、考えていた。
黙々と歩きながら、公園の近くのテラス席のあるカフェを目指す。
カフェで冷たいレモネードを飲みながら、タバコに火をつけた。
ルックスも何もかも完璧な正志に愛されるなんて嘘だ、と思いながら、目の前にいる正志の愛してるは信じられる。
だけど、いつもどこかちぐはぐで、冷たく感じる。
それは、追いかけてこないからなのか、モノトーンしか身に着けられない正志を遠く感じるからなのか。
「世界はモノクロじゃないわ。」
聞こえない事はわかっていても、声に出る。
真っ赤なワンピースを握りしめて、世界は息を飲むような感動するような色で溢れているのだと、強く思った。
それを拒絶するような正志が、自分と違うから。
「さみしかった。」
バッグからケイタイを取り出すと、連絡が入っていた。
<どこにいるの?どこに行きたい?僕は朱里がいる場所なら、どこにだって行くよ。朱里が行きたい場所なら、どこにだって行くよ。僕のモノクロの世界にたったひとり、色を灯した君を愛しています。>
正志は褒め殺しが上手い。そんな事はわかっている。だけど。
<大好きなレモネード飲んでる。さみしい。>
きっと私の居場所に見当がついていたのだろう。さっきのやり取りがなかったかのように、ゆったりと歩いて現れて、アイスコーヒーを注文して隣に座った。
正志の顔が見れない。見たら、泣いてしまいそうだから。
「朱里は知らないんだろうけどさ。」
少し笑いを含んだ声で正志が話し始めた。
「朱里の立ち去る姿って、美しいんだよね。ふっと離れたかと思うと、悲しそうな顔で、壊れそうな表情も美しくてさ。で、颯爽と歩いてく肩の上で髪の毛がサラサラ舞い上がっては落ちて。真っ赤なワンピースの裾もスローモーションみたいにゆらりゆらり、映画のワンシーンに紛れ込んだみたいなんだ。」
追いかけなかった言い訳なら、聞きたくなかった。
「朱里がいなくなってから考えたんだ。ああ、何人の男がこんな綺麗な人を引き止める言葉や腕を持っていない自分を卑下して、何人の男がこんな朱里を自分のものにしてきたんだろうって。」
正志はアイスコーヒーを飲みながら、声に出して笑った。
「自分でも嫌になるよ。朱里を追いかけたいのに、つまらない嫉妬に燃えて、一歩も動けなかった。朱里は僕を完璧みたいに言うけど、そうじゃないよ。本当の僕は臆病で、今だって朱里が口を聞いてくれない事にさえ、どうしたらいいかわからずにいる。」
ねぇ?と顔を覗き込んできた正志は、初めて出会った時のジョン・レノンのような丸メガネをしていた。
「怒ってるの?」
困ったような笑顔を向けられたが、困っているのは私の方だ。
すでに正志を残して立ち去った事や、わがままにここに来させてしまった事や、嫉妬を受け止め切れない事や、何もかもが言葉にならなかった。
「歩こう。」
レモネードのストローのささったプラカップを手に、立ち上がった。
正志は特に反対もせず、同じようにアイスコーヒーを片手に歩き出した。
手は、しっかりと正志の大きな手に包み込まれて、あてもなく歩く。
「ごめんね。私、きっと怖かったんだよ。自分と違う正志が、怖かった。それって、さみしいって事とよく似てる。正志の持つモノクロの世界と、私のカラフルな世界が、相容れないものだって感じて、それは人間性みたいなもので、きっとどちらも染まれないだろうから、離れていくだけなのかもって結論を出しちゃう事も、怖かった。」
「朱里の洋服は目が覚める程、カラフルなのに、思考は驚く程、ネガティブだね。人はカラフルなものを見た時、明るいとか楽しいとか、ポジティブなイメージを抱くけど、朱里は違う。僕だってそうだよ。モノトーンは冷たいとか暗いとかネガティブなイメージだけど、僕自身の思考は案外ポジティブで、嫉妬はしたけど、朱里と離れるなんて事は一度も思った事がない。」
どうして?と聞きたいのに、正志の眼差しがあまりに優しくて、涙が出る。
立ち止まり、私の頭に手を乗せた正志は笑っていた。
「ほら、すぐ泣く。朱里が泣くと、僕が欲情するの知ってて泣いてるの?」
耳元で囁かれて、思わず笑った。
「泣き顔に興奮するなんて、よくわからない。」
泣き笑いしながら、正志の胸に寄りかかる。
「そりゃ朱里は男じゃないから、わからないよ。泣き顔は似てるんだよ。」
「何に?」
正志の顎に指を置いて、その顔を見上げた。
正志は手で顔を覆って、とても恥ずかしそうに、唇を噛んだ。
「ねぇ、泣き顔は何なの?」
歩き出した正志の手を引っ張ると、まだ涙の残る頬に、キスが降ってきた。
「朱里が気持ちよくなってる顔に、似てるんだよ。」
「ひどい。真面目に話してたのに、そんな事考えてたの?」
本気で怒り出す私を抱きしめる正志はずるい。
「だって、男ですから。好きな人のそういう顔はたまらなくなるんです。」
そんな正志が大好きな私は、どうしようもない。
でも、いちいち深刻になる私には、ちょうどいい間の抜け具合なのかもしれない。
通りすがりの花屋で立ち止まって、正志はこれとこれと、なんて、何のつもりなのか、一本ずつ色が違う花を選んでいく。
種類も色もバラバラの花束を作って、
「はい。これが朱里と僕の世界。」
と言った。
馬鹿げた事を。でも、バラバラでも赤いリボンで結ばれるのだと思えるには充分な演出に、笑った。
休日、洋服を買いに出て、正志の店の近くまで来たので、久しぶりに顔を出す事にした。
正志は私がお店に行く事を好まない。なんだか照れる、らしい。
「いらっしゃいませ。」
連絡もせずに来たからだろうか、少し呆れた正志の笑顔。
他のスタッフに会釈をしながら、店内を回る。
シルバーアクセをしげしげと見つめていると、
「何か気になる?出そうか?」
私の視線を追うように、ショーケースの中を見ていた。
正志の手にはいつも、沢山の指輪とブレスレットがついていた。
「んー、羨ましいなぁ。両手、見せて。」
アクセサリーが見えるよう少し手を上げた正志は、自分の両手を見ていた。
「何が羨ましいの?」
「男が羨ましい。そんなに沢山つけても、ちっとも重そうに見えないんだもの。きっと、私が同じ事をしても、重そうで、不恰好よ。」
「それ、女性はスカートやヒールが履けるからいいよねって思う事と似てるね。」
「違うよ。」
正志は腑に落ちない顔で、私が指差した太くて大ぶりの指輪を見た。
「やっぱりかっこいいなぁ。ありがと。」
まだ何か言いたそうな正志を残して、店を出た。
自分の両手を見て、正志の手とは全然違うと思った。
正志の手は大きくて、指は長くて骨ばっていて、爪は細長く綺麗で、手のひらは分厚い。
私は自分が嫌になるくらい女だった。
その日の夜、眠りにつく前に、正志はいつものように私のあちこちにキスをした。
「今日、お店に来たでしょう。男が羨ましいって、女でいたくないって事?」
後ろから抱かれながら、その声を聞く。
「違うよ。指輪は、例えば、そういう事も、ってだけなんだけど。ほら、私は女だから男の正志を、正志が私を守るのと同じくらいは守れないと思うの。」
「それは力の差?」
「それもあるけど、乙女チックな自分の考えが正志を傷つけたりすると、自分でも本当に嫌になるし。男だったら、色んな事は嫌にならないと思うの。」
「そうかなぁ。」
正志が両腕を私の頭の横について、私の上に体重をかけないように乗ってきた。
今、この瞬間だって、正志が男で私をこんな風に自由にしてしまえる事が、どうして逆にはなれないのか少し癪だ。
「僕は朱里が朱里だから愛しいよ。きっと男でも女でも、朱里なら愛したと思う。男の僕は嫌?」
「正志は男がいいよ。というか、男だから正志なんじゃないかな。」
「朱里が羨ましがる男の僕だって、男って事がすごく嫌になる時もあるんだよ。」
「どういう時?」
「真面目に話さなきゃって思うのに、朱里にキスしたくてたまらない時。お化粧が上手くいって上機嫌の朱里を見た時。スカートやヒールを履いて、得意気に歩いてる朱里を見た時。朱里が泣いてるのに、何もしてあげられなかった時。痛いとか重いとかを、自分が代わってあげられなかった時。」
「もういいよ。」
正志は私をきつく抱きしめて、キスをした。
「女がいつでも綺麗なマネキンじゃないのと同じで、男もスーパーマンじゃないって事ね。」
頷きながら、正志は私の胸元に頬をすり寄せていく。
ここから見下ろす正志の顔は、綺麗だ。いつもは見上げるしかない正志の顔を、唯一見下ろす時間は、私には快感だった。
「おはよう。」
いつもの朝、正志が私の髪の毛を撫でる。やっぱりその手を振り払うように寝返りを打つ私に、やっぱりキスをしてくる正志。
いつもと違うのは、キスが唇だけでなく、耳や首、胸元まで降ってきた事。
「起きる。起きるから、待って。」
肩からキャミソールがずれた私は、正志の髪の毛を掴んで抵抗しようとする。
正志は意地悪い笑みで、キャミソールの胸元を口に咥えて、ぐいと下げた。
「出勤の準備しなきゃ。」
私のおへそにキスをする正志に、諭すように言うけれど。
「朱里を起こすの、今日はいつもより一時間早いんです。」
どうやら確信犯だったらしい。
乱れたベッドの上、正志の満足そうな顔に、笑ってしまう。
「幸せそう。」
「すごく幸せだよ。」
「あ、時間が止まればいいのにね。」
「ベタすぎない?」
「そう?私は正志の一番近くにいる今で、全部が止まれば幸せかなぁ。」
「僕は時間は動いててほしいな。」
「どうして?」
「朱里が怒ったり泣いたりするのも見たいし、一緒に年を取りたいから。」
正志は私の手を大切そうに包み込むと、キスをした。
「えー、私は若いままがいい。」
「そう?僕がロマンスグレーの渋い紳士になったところを見たくない?」
「見たいけど。」
正志の胸板にいくつもキスをして、その腕の中で体を丸くする。
「今の正志が好きすぎて、そんな遠い未来の事なんて考えられない。」
「考えなくても未来はやってくるよ。さ、出勤しなきゃいけないすぐ近くの未来のためにベッドから出なきゃ。」
口とは反対に、きつく抱きしめてくる。
じゃれ合いながら過ごす朝は、本当に幸せで、いってらっしゃいも、いってきますも、おかえりも、ただいまも、当たり前だと思ってた。
その夜、正志は一緒に作った大きなチキンカツをぺろりと平らげて、アロマキャンドルを灯したお風呂に一緒に浸かって、私の一挙一動をじっと見ているようだった。
「どうしたの?」
ドライヤーをかけながら問うと、優しい笑顔で首を横に振るだけ。
ベッドに入ってからも、じっと私を見つめる正志の視線に、耐え切れなくなってしまう。
「どうしたの?」
「ちょっと、仕事で色々あって。朱里を見て充電してるの。」
正志は私の視界を奪うように、抱きしめてきた。
その腕の中は、もうずっとよく知っている温かな私だけの場所だった。
一週間後、朝起きたら正志はいなかった。
いつもは正志が先に止めるはずのアラームがうるさく鳴り響き、苛立ってそのボタンを叩き付けた。
「正志?」
きっとキッチンで何かしているのだと思った。けど、返事がない。
体を起こしてみたが、正志の気配がない。
ベッドから飛び起きて、キッチン、ダイニング、リビング、洗面所、他の部屋も見て回ったけれど、どこにもいない。
ベッドサイドのケイタイを見ても、連絡はない。
早くに出勤しなければならない用事でもあったのかもしれないと、キッチンでコーンフレークに牛乳を注ぎ、ダイニングの椅子に座った。
どうして気付かなかったのだろう。
不自然な程、真っ直ぐに置かれた封筒。
嫌な予感しかしないのに、気がはやる。
厚みのあるそれをひっくり返すようにテーブルに広げた。ざっと数十万と思われるお金と、手紙だった。
<朱里へ 本当は目を見て話すべき事だとはわかっています。一ヶ月後、仕事でフランスへ行きます。滞在期間は、未定、と伝えるしかないほど、長くなると思います。朱里は新しい部屋を探して、できるだけ早く引っ越してください。僕の都合で朱里を振り回すのだから、お金は次への準備に使ってください。 正志>
これは、現実だろうか。頭がぐらぐらする。
事務的で何の感情も書かれていない手紙。冗談じゃなく、そうなるしかないと思わせるような分厚いお金。
信じたくなかった。昨夜も、愛してるよ、と正志は言った。変わらず抱き合って眠りについた。
コーンフレークの入ったボウルを腕で払い落とすと、割れて牛乳と一緒に飛び散った。
「嘘。こんなの嘘。」
正志のクローゼットを開けて、顔を埋める。よく知った香りがして、正志の大きな体がそこにあるように思える。
時計を見ると、出勤時間が迫っている。支度をしなくちゃ。
きっと仕事から帰ったら、いつも通りで。
一日をどうやって過ごしていたのかさえわからないまま、仕事に行き、家に帰ってきた。
「おかえり。」
ダイニングから正志の声がする。
恐る恐る覗き込むと、今朝の残骸を、きっと帰ってきたばかりらしい正志が片付けていた。
優しいけど、どこか悲しそうな正志の笑みを見て、体が凍りつく。
片付けの終わった正志はキッチンに立って、こちらを見た。
「朱里?晩御飯、何にしようか。」
「え?」
「美味しいものを食べよう。」
もうすぐ終わっちゃうから?
言葉より早く、正志に向かって駆け出していた。飛びついて、いつもみたいに正志の体に足を巻きつけて抱き上げられる。
「正志。フランスなんか行かないでよ。」
言葉にすると、重くて、苦しくて、涙が溢れてくる。
「ずっとここにいようよ。ふたりでいようよ。」
しゃくり上げる私の背中を、優しく撫でる正志は、何を考えているのだろう。
「朱里。僕は」
「あーあーあー!」
言葉をかき消すように耳を塞いで喚く私に、何度もキスをしてくれる。
どうしてキスするの?もう終わりなんでしょう?
「何にも聞きたくない。どこにも行きたくない。正志は私んだもん。」
いくら喚いたところで、現実が変わらない事は、わかっていた。
だけど、愛してる、をどこに持っていけばいいのかわからない。
こんなに、胸いっぱいの愛してるを、ひとりで抱えられない。
正志の唇に噛み付くようにキスをして、飛び降りてシャワーを浴び、ひとりでベッドに入る。
キッチンからいい匂いがする。だけど空腹感は全くなかった。
ベッドに染み付いた正志の香りを抱きしめて、今はただ暗い闇に身を沈めたかった。
翌朝、またアラームの音で目覚めた私は、正志を探さなかった。
重い体を引きずるようにして、真っ直ぐダイニングに向かう。
テーブルの上には、予測した通り、また、封筒。
何の言葉も添えられていない、物件情報だけが何枚も出てくる。
怒りさえ覚えて、それを壁に叩きつけると、火がついたように泣いた。
床に崩れ落ちて、髪の毛を振り乱し、どこにもいない正志に向かって泣き続けた。
何も口にしないまま、ひどい顔で出勤すると、まわりは示し合わせたようにその事には触れてこなかった。
喫煙所で、ケイタイを見ると、やっぱり連絡はない。
<いいよ。行っていいよ。フランス。ただ、せめて、ぎりぎりまで一緒にいて。新しい部屋は、探す。>
そうだ。出会った頃から知っていた。英語が堪能な正志は、世界で仕事をする事が目標なんだと。
だけど、こんなに早く、やってくるなんて。せめて他の女に心変わりしてくれたなら、責められようものを。せめて私を嫌ってくれたなら、諦められようものを。
まだ涙は出るけど、今夜は一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、同じベッドで眠ろうと思った。
仕事終わりにケイタイを見ると、返信がきていた。
もうすでに決定された、正志が日本を発つ日時が書かれていた。
空港には、何人も見送りにくるのだろう。きっと私はその中に入れないけれど、この日までは、ふたりでいようと思った。
残された時間が、ふたりにとって意味のあるものかなんてわからない。もしかしたら、別れなくてよくなるかも、という私の淡い期待を打ちのめし、より悲しくさせるだけかもしれない。
愛してる以外の正志の本心を聞く事を拒否した私は、正志には、どう映っているだろうか。
玄関には先に帰っていた正志のお気に入りのレザーブーツがきちんと揃えられていた。
キッチンから、包丁の音がする。
自分の居場所なのに、息を潜めて、足音を立てないようにキッチンに向かう。
そっと覗くと、正志が少し疲れた顔で野菜を鍋に入れていた。
しばらく、動けなかったけれど、こちらを見た正志が嘘のような笑顔だったので、足の力が抜けた。
「ああ、ほら、こっちおいで。」
ずるずると壁にしなだれかかる私を見て、正志が笑って駆け寄ってくる。
大きく広げた両手にすがりつくように、その腕の中に入った。
「ショートパスタを入れたミネストローネを作ろうと思ってたとこ。食べる?」
抱き上げられ、椅子に座らされる。
無言で頷くと、子供にするように、頭をよしよしと撫でてくれた。
キッチンに戻ろうとする正志の腕を離さずにいると、何?と言うように首を傾げて、しっかりと腕を握り返された。
真っ直ぐに正志の目を見た。
初めて会った時から、大好きな、正志の優しくて温かい目を見た。
「おめでとう。正志の夢が現実になるね。だけど、それを心から喜べない私は、正志を愛してないって事になるのかな?フランス、行ってもいいよ。私は大丈夫だから。」
「ありがとう。だけど、一緒に行こうって言えない僕は、朱里を愛してないって事になるのかな?」
「そんなはずないじゃない。そんなはず、ない。」
頭に抱きつくように体をくっつけると、微かに正志の体が震えていた。
泣いているのかもしれない、と、号泣しながら思ったけれど、この少しのやり取りで、愛してるのに離れ離れになるなんて残酷だと思った。
私が絶対に行かないでと、あらゆる手を尽くしたら、もしかしたら日本に留まり続けて、そばにいてくれるかもしれない。
でも、そんなずるい事はできない。してはいけない。
正志には、正志の人生があって、私とは別の人なのだから。
ふっと体を離すと、正志が困った顔をするから、
「抱いて。今すぐ抱いて。」
と言った。
決別を受け入れた今、一緒にいる事を確かめたい。今だけは自分だけのものだと、確かめたい。その日が来たら、二度と正志に触れられなくなるから。
嗚咽を漏らしながら、下を向くと、正志が私の顎にキスをして、唇にキスをして。
「朱里、愛してるよ。」
ダイニングの床に散らばった洋服の上で、私達は抱き合っていた。
いつまでもそうしていたかった。
「おはよう。」
眠っている私の頭を揺らす正志の大きな手を振り払う、キスされて苦しくなって起きる。すでに用意された朝ごはんをベッドで食べる。先に出勤する正志を見送る。
全ていつも通りの生活。だけど、新しい部屋を決め、引越しの日取りを決め、正志が空港へ行く日までこの部屋で朝を迎える事を決めたのは、いつも通りじゃない。
愛してると言っても、消えていくだけのような気がするのに、確かめたくていたくて、何度も言った。
もしかしたら、正志を愛している事は錯覚で、夢から覚めるみたいに、冷静な自分になれるのかもと想像した事もある。
あれから、冷静になれた事など一度もなく、食欲もなく、少しずつ痩せていく自分をわかっていても。
戻れない。
正志はこの部屋の荷物は全て、処分するか実家に送ると言っていた。みるみる減っていく正志の荷物は、早く離れろと言われているみたいで、悲しかった。
私も新しい部屋にほとんどの荷物を運び、キャリーケースに残りの荷物を詰めて、ふたりの部屋に置いた。
正志は付き合おうって言ってくれた時から変わらず、今も変わらず、ここにいる。
フランス行きなんて嘘で、日本のどこか違う県に行くだけだった、なんて冗談だったらいいのに、と何度も思った。
最後の夜、待ち合わせて、初めてふたりで行ったレストランで食事をした。
注文するものは決まっている。昔ながらの玉子の薄いオムライス。
「明日、朝早いけど、起こさない方がいいかな?」
遠慮がちに言った正志に微笑む。
「どっちでもいいよ。私は、大丈夫だから。」
こんな事を言いたいわけじゃない。だけど、これ以上何を言えばいいのかわからない。
喉に詰まる行き場のない感情のせいで、オムライスは半分も食べられなかった。
ベッドも運び出されて、床にブランケットを敷いただけの部屋で、抱き合った。
お互いの存在を確かめるように、手のひらや唇でその形を確かめる。
人が祈る時、両手の指を絡ませ、ぴたりとくっつけるように、私と正志はとても当たり前に、そうあるべきだというように、体を重ねた。
正志の甘い英語の囁きは、今日は悲しかった。
「正志。」
横たわった正志に覆いかぶさると、胸に耳をつけた。
トクトクトク、規則正しい心臓の音。
今、世界中で一番近くにいる音。
明日からはもう聴く事のない音。
「朱里、愛してるよ。」
正志はそう言って笑ってから、目を閉じた。私はちっとも眠くなくて、正志の手を握ったまま、ずっと闇を睨んでいた。
一睡もできなかった。
正志も眠りが浅いのか、何度か起きては、私を抱きしめた。
「おはよう。」
正志の小さな声が聞こえる。私のそばまで来て、髪の毛を撫で、そっと唇にキスが降ってくる。
息を殺して眠ったふりをする。
行かないで。行かないで。
ベッドから立ち上がった正志は、キャリーケースを持って、部屋を出る前に立ち止まった。眠っている私を見ているのだろう。
「朱里。」
途切れた言葉。最後の言葉を考えているのかもしれない。
寝返りを打ったふりで、耳を塞ぐ。
行かないで。行かないで。
「僕の世界に色を灯してくれて、ありがとう。朱里のおかげで、迷わずに歩けそうです。ちゃんと向き合って言えなかった・・・言いたくなかった・・・さようなら。私は大丈夫なんて、言わせて、ごめん。」
残酷にも、それはクリアに私の耳に届いた。
遠ざかる正志の足音と、玄関のドアが閉まった音。
行かないで。行かないで。
足音を立てないように、玄関まで急いだ。そこには、まだ、正志の香りがした。
今、追いかけたら間に合う?やっぱり一緒にいたいって言う?行かないで。
ドアに額をつけて、溢れる涙を零す。
「・・・かないでって。行かないでって、言ったじゃん。こんなに言ったじゃん。行かないで。正志ぃ。行かないで。」
声にしなければ伝わらない事は当たり前で、そんな事わかっている。だけど。
ふっと息を吐き、キャリーケースからお気に入りの赤いワンピースを出した。
見送りの輪の中には入れなくても、正志を遠くから見送ろうと思っていた。
誰に見られるわけでもないのに、丁寧に化粧をして、部屋を出た。
空港に着くと、馴染みのない場所で、少し心細い。
正志から聞いていた場所へ向かうと、長椅子に座って数人と談笑している正志がいた。
きっと、この長椅子の前にあるゲートをくぐる時が、さようならなのだ。
それは、呆気なかった。
歩き出した正志が振り返って長椅子から立ち上がった数人に笑って手を振った。
ゲートの中に、吸い込まれていった。
私は、ただ、立っていただけだ。
気づかれもせず、赤いワンピースを着て、立っていただけだ。
何の実感もないまま、正志の働いていたお店に行った。もしかしたら、さっきのは嘘で、いつもみたいにここにいるんじゃないかと、思いたかったから。
でも、モノクロの世界に、正志はもういなかった。
「これ、ください。」
正志の一番気に入っていた指輪。同じ指にはめると、急に虚しくなって、早く帰りたいと思った。
だけど、帰る場所がない。正志がいない。
正志の最後の言葉はどんなだった?最後に私に向けられた笑顔はどんなだった?
頭の奥がズキズキ痛む。アスファルトに倒れるわけにはいかなくて、目に付いた花壇の端に座った。
正志がいなくなっても、時間は進む。私は時間を止めてしまいたいと願ったのに、正志はそうじゃなかった。私と離れるとわかっていても、同じように正志は願ったのだろうか。
正志はフランスに行ってもまた、私にしたように誰かを愛するのだろうか。私もまた、正志じゃない誰かを、今と同じように愛するのだろうか。そんな事は、恐怖でしかなかったけれど、きっと、繰り返し人を愛する事で日々を消費するのが人なのだ。
最後の夜、痩せてしまった私の体を抱いた正志は、とても悲しそうだった。
新しい家にプレゼントが届いたのは、正志が日本を発った、二日後だった。
小さな箱に、ジョン・レノンみたいな丸メガネが入っていた。
<僕はいつか朱里に愛される気がしていた。>
走り書きのメモを見て、正志は全てをわかっていたのだと、気付いた。
「それ、視力が悪いの?」
ジョン・レノンみたいな丸メガネをかけた男は、軽く頷いた。
「悪いよ。外したら見えない。」
男はメガネを取って、切れ長の目を細めて笑った。
「メガネかけてても男前だけど、外すともっとかっこいいのね。」
きっと、私は笑っていた。
男は顔を伏せて、すっとメガネをかけた。
「ありがとうございます。」
私はこの男を愛せるような気がしていた。