Episode1 #4 Who am I?
自分の名前がの本当に自分のものかどうか怪しいとはどういうことだ。
その問いにバートは無言で身に着けていたチェーンネックレスを外すと、それをジェームズへと渡した。
ペンダント代わりにチェーンにぶら下がっていたのは、丸みを帯びた長方形の1枚の金属板だ。
ステンレス製だろう。縁の周りには劣化したゴムがくっついている。どうやらこれが今話題に上っていたドッグタグそのものらしい。
「これが? その?」
「ああ。それさ」
ジェームズはそのドッグタグをひっくり返し、文字の書いてある方を表にして読んだ。
「バルトロメオ イゾラ 男 RH+B 8月26日1963年……!?」
素っ頓狂な声をあげるジェームズに、バートは「な?」とだけ返した。
「今は2015年だぞ? これが本当なら君は今52歳じゃないか!?」
「……そうらしいな」
どこか釈然としない、不満げな面持ちをしてバートはそうぼそりと返した。
「……僕、いくつぐらいに見える?」
「20半ばぐらいだな」
「……だよな」
「誤差を考えても君の見た目で50は明らかに無理がある」
「血液型は検査したんだ。同じRH+のBだった」
アジアとは違い、ヨーロッパでは血液型がB型である人間は極めて少ない。アジアでの平均は2割を超えるのに対し、欧州のB型の割合は1割前後だ。とはいえ、1割はそこまで小さな割合ではない。それこそ左利きの人間がいる割合程度の話だ。
「だから、そのドッグタグは僕の父親か親戚の誰かのものじゃないか、って」
父親か親戚の誰かの物。確かにそれが一番納得が行く話かもしれない。だが、バートはその判断に釈然としていなかった。
「……君はそう思っていないのか」
ジェームズが、心を読むようにそう呟いた。
「えっ?」
「このドッグタグは自分のものだ、自分こそバルトロメオ・イゾラだって思っている。……違う?」
ジェームズの問いに、バートは何度も瞬きを繰り返してジェームズの顔をじっと見た後、うつむく。
そして、低い声で、ぼそりと。
「……分からない」
迷いをにじませ、かろうじてそう返した。
「……毎晩、同じ夢を見るんだ。僕はそこで確かにバルトロメオ・イゾラとして生きていて。……それで死んでいるんだ」
「死ぬ?」
「ああ。軍の施設みたいな場所から逃げ出して……兵士に追いかけられて、捕まるんだ。それで抵抗を試みるんだけど、いつもライフルで撃たれそうになった瞬間に目が覚める」
「そこで死んでるなら君とバルトロメオは別人かも。そう思ってる訳か」
「でも、かなりリアルな夢だ。だからその夢が自分の記憶だってどこかで思ってる」
「精神科に行った方がいいんじゃないか?」
「……勘弁してくれ」
ジェームズが比較的真面目な口調で返す。だがバートにしてみればそれだけは嫌だった。
「10日前に警察に連れて行かれたばっかりだよ」
「一応参考までに聞くけど、結果は?」
「医者なりに誠実に対応してたけど、悪夢のことには触れてさえくれなかったよ」
「……そりゃそうか」
二人で同時にため息をつく。バートがこんな心霊事件に出くわすあたりからして、医者が役に立つとも思えない。
ジェームズはしばらく黙った後、バートの方を向いて、ぽつりと。
「あのさ、アイソラ君?」
「……一応、元の読みを使ってイゾラって名乗ってるんだけど」
「じゃあイゾラ君か?」
「……もうこの際バートでいい」
「OK.じゃあバート」
ジェームズは咳払いを一つすると、なぜかネクタイをキュッと締め直してからバートの方を向いた。
「……僕はジークムント・フロイトじゃないから、夢から精神分析なんて高等な真似は出来ない」
先ほど自分の会社の社長をおっさんなどと軽率に言った人間とは思えぬほどに、ジェームズは言葉を選びながら一つ一つ語っていた。
「でもな、これだけは言える。……人の直感っていうのは、恐ろしくよくできている。だから君は、もっと自分の直感を信じてもいい」
「…………」
「君が感じたことが真実だ。いくら他のことと辻褄が合わないって感じられても、現実は驚くほど奇妙で、その“他のこと”を容易く覆すもんだ」
あまりに真剣な表情で語られたせいで、バートはぽかんとジェームズを見るだけしかできなかった。だが、少しずつ彼の言いたいことが分かってきて、どこかとても安心できる何かを受け取った気がした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ジェームズが渡されたドッグタグをバートに返そうとした、その時だった。
ふっ、と。辺りが暗くなる。何事かと思い、二人は辺りを見回して、衝撃を受けた。
二人の視線の先。車の横の窓ガラスには、またもや緑色の怪物の姿が。今度はバラバラではなく、五体満足なそれが、車の屋根に上り、窓からこちらを覗いていたのだ。
「のわあああああああああああっ!!」
二人は同時に悲鳴を上げた。ジェームズは一気にアクセルを踏むと、勢いよくハンドルを切り、右、左と車体を揺らして怪物を落としにかかる。カーレースも真っ青なドリフト走行だ。
慣性が思いっきりかかったせいで、車内にいるバートもグワングワンと左右にとてつもなく揺らされる。まるでいきなり洗濯機の中に放り込まれたてかき回されたかのような勢いだ。
シートベルトがなかったら、窓を突き破って外に飛び出しそうだと思った。
「舌噛むなよっ!?」
ジェームズにそう忠告されたが、あと10ほど早かったらもう少し余裕を持って注意できたとバートは思う。
悲鳴を上げて道路に振り落された緑色の怪物を、バックミラー越しに確認して、ジェームズはようやく安堵の溜息を吐く。
「大丈夫か? バート、生きてるか?」
「……ああ。心臓なら動いてるよ」
ジェームズがバートを心配してそう聞いてきた。冷や汗はすごいが、なんとか生きている。
怪物は、落ちた際にしこたま身体を打ったのだろうか。どうやらもう追ってこない様子だった。
「落ち着かない?」
「……当たり前だ」
ジェームズなりに気を遣ってくれているのだろうか。だが、あまりの突然のことに心臓がまだどきどきとしている。
「なら2の“べき数”を数えるといい」
「べきすう?」
「2、4、8、16、32、64……って、前の数にどんどん2を掛けていくんだ。騙されたと思ってやってみな」
「……分かった」
先程の出没は突然だっただけに、ショックが大きかった。
「2、4、8……」
ジェームズのリラックス方法にどれだけ効果があるのか、バートには分からなかったが、素直に数字を数えていく。……しかし。
「8192、16384、32768……駄目だ」
だめだ。その言葉を待っていたかのように、ジェームズは静かに、低い声でぼそりと呟いた。
「……やっぱり駄目だったか」
「へっ?」
「……実際に試す人がいるとは思わなかった」
彼の低いその声に、バートはあっけに取られた。騙された。確かに『騙されたと思って』とジェームズは言ったが、まさか本当に嘘だったなどと誰が思うだろうか。
「嘘だったのか!?」
「いや違う。僕もマインドフルネス的に前に試してみたけど、全く落ち着かなくてさ」
「そんなものを他人に勧めるなよ……」
「……もう落ち着いてる、だろ?」
指摘され、バートはハッとしていた。確かにもう酷い心臓の鼓動はない。……2の累乗に少し腹が立ったのは事実であるが。
何なんだこいつ。さっきの真剣な発言と今回の言動の温度差で風邪をひいてしまいそうだ。バートは少しの恨みを込めて鋭い視線を向けたつもりだったが、ジェームズは気にしていないような涼しい顔をしていた。