Episode1 #1 One day in the morning
Episode1: "A bargain is a bargain" (邦訳:契約は契約)
目を覚ますと、そこは真っ昼間の殺風景な眩しい世界ではなく、休日の朝の薄暗い自室だった。土と空だけが続く世界に突っ立っていたわけではない。いつものベッドで大の字に横たわっていたのだ。自分を小突くひどい兵士もいるはずがない。いるのは自分と簡素な家具達だけ。威嚇するような低い音を立てる軍用の四駆車もなく、あたりはしんとしていた。
あれは夢だったのだ。その事実をようやく実感し、彼は安堵で胸を撫で下ろした。
低い唸り声ひとつ。ゆっくりと身体を捻ってから上半身を起こすと、彼は洗面台へと向かった。
折角の休日にあんな夢を見たのだ。一日の始まりから最悪である。気持ちを切り替えるためにも顔を洗うことにした。
洗面台の蛇口を捻る。蛇口からちょろちょろと流れる水に手のひらを突っ込むと、鋭い冷たさを感じた。少しずつ冬が近づいているのが分かる。
派手に水を散らしながら、顔を洗う。直後、タオルを取ろうとした際に反射的に鏡を見て、自分の目がいつも以上に窪んでいるように見えた。
「……疲れてるな」
うんざりした声が思わず出る。心当たりはいくらでもある。だが、今はそのことを考えたくはなかった。
こういう時は腹を満たすに限る。顔を拭ったフェイスタオルを乱雑に洗濯機に放り投げ、彼は台所へと向かった。
食料がギッチリ詰まった冷蔵庫から、彼は慣れた手つきで卵とバターとパン、そしてベーコンを取り出す。大雑把に手近にあったナイフでバターの塊を切り取って、これまた適当に置いてあったフライパンにひょいと放り込み、火をつけた。
暗く青白い炎がフライパンの底を炙り、切り取ったバターを溶かしてゆく。バターは泡を吹きながらフライパンの表面を踊るように滑って溶けた。バターが焦げないうちにパンをフライパンに置き、あとは焼けるのを待つだけだ。
3分もない少しの猶予の中、パンが焼ける匂いと溶けたバターの香りを楽しみながら、ふと窓から空を眺めた。
見事なまでの立派な曇り空だ。10月にもなるとこの地域は雨が多くなる。今日も降らないと良いのだが。
そんなことを考えているともう頃合いだ。彼はパンをひっくり返し、もう片面を焼いた。さっきまで焼いていた面はこんがり綺麗にいい焼き色がついていた。ここまで来ると上機嫌になってくる。さっきより少し短めに焼いたところで、パンを皿にあげる。さっき冷蔵庫から出した時は柔らかかったパンもカリカリだ。
次はベーコンだ。パンを焼いたおかげでフライパンは十分温まっている。袋から出したベーコンは脂でテカテカとしている。指で摘んでフライパンに入れようとして、水分と一緒に垂れた脂がフライパンのヘリでいい音を立てた。
豪雨のような威勢のいい音と共にベーコンが焼けていく。溶けた脂と水分で跳ね上がり、少しずつ縮む。
いい頃合いだろう。出しておいた卵をコンロのそばにぶつけ、殻にヒビを入れる。今日はチャレンジをしたい気分だった。少しぎこちなさと好奇心に駆られた右手だけで、卵を割る。パッと白い花弁を開かせたかのように卵は脂たっぷりのフライパンに落ちた。黄身も無事である。思わずガッツポーズをしてしまった。
目玉焼きはひっくり返さないことにする。両面をしっかりと焼いたのも好きだが、ここでひっくり返すのに失敗しては元も子もない。
さっきの殺伐とした夢なんてどこへやら。傍にあった胡椒のミルを放り投げ、一回転させてからキャッチするまでの上機嫌っぷりだ。パンと同じ皿に卵とカリッカリに焼き上げたベーコンを乗せたのち、胡椒をカリカリと振りかけて、塩をひとつまみ振れば上出来だ。鼻歌の一つでも歌いたくなった。ドリンクは牛乳とお気に入りのオレンジジュースにした。
左手にコップを二つ、右手に上出来の料理が乗った皿を持ち、いつものテーブルに置く。椅子に座れば、窓から曇った空といつも眺めているビルが見えた。ビルに人の気配は全くなさそうだ。牛乳に口を付けた後、無作法ながらも焼けたベーコンを手で掴んでカリッと齧った。予想通りの出来である。
あれだけ楽しく時間をかけた料理はものの10分もせずに皿から消えた。最後にオレンジジュースをあおるように飲み、ふぅと一息つくと、席を立って皿をシンクへと運んだ。そして皿を水で洗い流してから、窓辺に立って下の方を見た。
ヨーロッパのとある場所に位置する小さな共和国、トークス。そのほぼ中央に位置する首都、ライバック。そこの古びたアパートの3階に、彼、バーソロミューは住んでいる。
休日の朝ということもあって、街の人通りはまばらで少ない。空いている店もそうないし、歩道でドリンクやサンドイッチを売っている人もいない。路面電車や車の往来もあまりなく、まだ皆家でのんびりしているのだろう。
「……平和だな」
思わずそんな言葉が口をつく。つい、今朝の殺伐とした夢を思い出し、そして最近災難続きだっただけに、こんな静かで平穏な空気が何よりも愛おしい。退屈は人を駄目にする上に苦手だが、波乱に満ちすぎているのも考え物だ。最近自分の身に降りかかる災難が多すぎるが為に、彼はつくづくそう思っていた。
そう。ここ最近は本当に、災難続きだった。
バーソロミューは、建物の塗装や清掃などを含む、ビルのメンテナンスの仕事についている。まだ車の運転免許は持っていないが、特に問題はない。大抵仕事仲間が運転する車に乗り、現場に行って作業を行う日々をこなしている。彼の仕事ぶりは誰よりも手早く綺麗にやるという領域までは達していないものの、しかし真面目な性格が幸いして仕事は極めて丁寧だった。
それに勤務態度も真面目で同僚達との付き合いも悪くない。ごく普通か平均以上の良心に満ちた好青年であり、それ故周りの評判も悪くなかった。
そんな彼の身に異変が起きたのは、ちょうど10日前のことだった。
珍しく、深い霧が立ち込めていた夜のことだ。仕事を終えた後、私用があって寄り道をしていたバーソロミューは、人通りの無い暗い裏道を歩いていた。
いくら自宅への近道とはいえ、こんな道歩くんじゃなかった。一人寂しくその道を歩いていたバーソロミューの心境は、だいたいそんなところだった。
夜の裏道だ。昼間でさえ人通りが少ない場所なのに、こんな暗闇だと尚更不気味である。最近何かと物騒な事件が多いと聞く。これはまずいことをしてしまったか。
早く自宅に着かないだろうか。そう思いながら彼が急ぎ足で歩いていた矢先。
「わあああああっ!」
いきなり、男の悲痛な叫びが近くから聞こえた。とっさに声の聞こえた方角を向く。何があったんだろう。そう思う間もなく反射的にそっちへと向かったのが、間違いだった。
しばらく走った先に見えたのは、一人の男が尻餅をつき、何かに怯えている光景。わずかな街灯でも、男の脚が真っ赤に染まっていることにバーソロミューは気づいた。かなり深い怪我だ。足元に血溜まりができている。あの様子ではもう歩くことさえままならないだろう。
バーソロミューは哀れな男のもとへと駆けつけようとした。何か事件が起こったに違いない。だが、それは直後の光景に阻まれることとなった。
「く、来るなっ……!」
何もない筈の宙を見て、叫ぶ男の視線の先。バーソロミューもつられてそちらを見ると、そこには、青白い“何か”があった。
もはや“何か”としか言いようがない、形容し難いものがそこにはいたのだ。煙の様にぼうっと宙に浮き、半透明なもの。全長2m程の大きさのそれは前後左右にその身をうねらせ、不規則に動きながら、時折その表面に“人の顔のような何か”を浮き上がらせていた。不気味なその物体は、宙を泳ぐように進みながら男へと近寄り、そして、その男の口から入っていったのである。
一体、目の前で何が起きている。バーソロミューは訳の分からぬその光景に凍りつき、声をあげることさえ出来なかった。まるで風邪のときに見ている悪夢のようだ。しかし愕然としながらもこれはまずいとだけは分かっていて、叫ぼうとしたその瞬間。
男の身体が、破裂した。
声が、出なかった。
まるで水を入れた風船を針でつついたかの様に裂けて飛び散り、水分を含んだ音が辺りに響く。それと同時に先程の青白い何かが“かつて男だった物体”から四散するかの如く出てきて、宙を舞った。
バーソロミューは己の目を疑った。いや、先ほどから目の前で信じられない光景が繰り広げられている。悪夢ではない、幻覚でもない。見まごうことなき現実、のはずだ。しかし、それを受け入れられぬ自分がいる。
どうすればいい。凍り付きながらも周囲を見回し、そして“青白い何か”を見たその瞬間。
その“何か”の表面に明らかに顔が現れ、こちらをじっと見ていた。
「!?」
目が、合った。それをはっきりと認識したバーソロミューは無意識のうちに震え、そして逃げ出した。このままでは命が危ない。それだけは本能的に理解していた。
闇に大きく響く、早足で石畳を蹴る音。風が吹くと共に、後ろから聞こえる不気味な音。
まるで何かが吠えているような、それとも人が唸り呻き苦しんでいるかのような声。後ろを振り向けば殺されてしまう気がして、とにかく猛ダッシュで逃げた。
だが、このまま逃げていても埒があかない。どうにかしなければ。そう思って彼が向かった先は、大通りに面した場所にある、警察署。人が一人死んでいるのだ。通報しないわけには行かないし、事情さえ話せば何とかなるかもしれない。
半ば激突するかの如き勢いで警察署のドアを開け、受付へと向かったバーソロミューは完全に息の上がった声で開口一番、大きく叫んだ。
「ひ、人が……殺されているのを目撃したんです!!」
それから。バーソロミューは担当の刑事から事情聴取を受けることになった。連れて行かれたのは、狭い部屋。四方灰色の壁に囲まれて、リノリウムの床で出来た部屋だった。簡素な机1つと椅子が2脚だけ置かれている。なんだかやたら殺風景で、機能しか求められていない部屋だと彼は思った。
椅子に座り、住所と氏名を指定の用紙に書いてしばらく待つと、一人の男が入ってきた。彼がおそらく担当の刑事なのだろう。40も半ばを過ぎた刑事はしかめっ面のままドーナツをかじりながらどかっと向かいの椅子に座り、さも苦痛だと言わんばかりにため息をついて。
「……で、人が死んだって?」
それだけを彼に聞き返した。
「そ、そうなんです!!」
バーソロミューの頭から爪先までをじっと何か品定めするかのようにじっと見て、刑事はふーんと返した。
「113は?」
「……え?」
謎の3桁の数字を聞いて固まるバーソロミュー。刑事の意図がわからない。刑事はその表情に呆れを深くさせた。
「警察への通報電話だよ」
「え、あ……」
刑事の発言に、一気に思考が固まった。たしかに普通事件を目撃したらまずは電話である。
「113番を知らない?」
「そ、その……」
「おたくブロアニアかセドリナからの出稼ぎか何か? あっちは92とかだっけか」
「いや、そういうのじゃなくて……一応市民権はあるんですけど……」
まさかここまでこんな初歩的な会話で詰まるとは。何度か「あの、その」としどろもどろになった後、口をついたのは。
「携帯電話、っていうんですかね」
「うん?」
「それ、使えなくて……」
「……うん?」
刑事の視線が「変なやつに当たったな」というものから「面倒臭いけどなんか可哀想だな」に変わったのが、バーソロミューにも理解できた。
「つまり、携帯電話を持っていない?」
「そ、そうです!!」
「そーかそーか。そりゃご苦労さんだったな」
なんかバカにされた感じが否めない対応をされた気がするが、信じてもらえたようだ。たぶん。
刑事はバーソロミューの目の前に地図を広げて見せた。
「とりあえず、その殺人を見たって場所を教えてもらえねかな」
「ここ、です」
事件現場を指す。レッドウッド地区のウエストパークアベニューだ。
刑事はそれを見て立ち上がると、一旦部屋を出てからすぐに戻ってきた。何かを指示したのだろうか、とすぐに理解できた。
「すまんな。とりあえず警官をウエストパークアベニューに派遣した。……で、詳細なんだが」
「詳細」
「そ。思い出すのも辛えと思うけどよ、詳しく話してくんねかな?」
ようやく切り出された本題。彼は待っていましたと言わんばかりに、危うく立ち上がる勢いで机から乗り出した。
「目の前で、死体が破裂して!」
思わず食い気味に刑事の質問に答えるバーソロミュー。刑事が面食らった顔をしていることに気づく余裕はなかったわけで。
「破裂?」
目の前の刑事は言葉を繰り返していた。破裂した死体など刑事のキャリア上携わったことなどないだろう。
「破裂って、パァンって、内側から?」
「そうです! 内側から幽霊みたいなものがブワーって!!」
直後、たたみかけるようなバーソロミューのセリフに刑事は突然押し黙ってしまった。そこでようやく彼は刑事が今までまごついていたことに気づいた。
そして刑事はため息を一つ吐き、部屋を出て行ったのである。
しかも、今度はすぐに戻ってこなかった。
何があったのだろう。嫌な予感がする。そんなことを考えていると、さっきの刑事が神妙な面持ちでやってきた。そして再び座るなり、一言。
「ちょっと両腕出してもらっていいか?」
バーソロミューは意図が理解できないものの、なんだか断りきれない雰囲気に押されて両腕を出した。刑事はすぐさま彼の袖をまくり、ヒジの反対側、腕の内側にある浅いくぼみをまじまじと見ている。
「それらしいのはない、か」
「それらしいの……?」
刑事の発言にいぶかしむように顔を見上げる。そこで目が合うと、なんだかこちらを実に可哀想な視線で見ていることに気づいた。
「ちょっと兄ちゃん、今から行ってもらいたいとこがあるんだ」
「え……」
「ああ安心してくれ! 別に捕まえる訳じゃあない。行き先まではこっちで車は出す。諸々含めても2時間ってとこさ」
「え……?」
一体何をされるのか。そんなことを聞ける雰囲気でもなく、あれよあれよという間に連れて行かれたのは、街の外れの大きな何かだった。
車の窓から少し見た感じでは、外観は公園だった。鬱蒼とした木々が生え、奥に見える建物が何か全く見当がつかない。
やたら厳重な敷地へのゲートを通る。どこへ行くというのだと思いながら車に揺られていると、真の目的地である白い建物が見えてきた。
「え。あれって……」
それは、病院の建物だった。
車から下ろされるとほぼ同時に迎えられた職員から、いきなり身体検査を受けた。
スニーカーは紐があるからダメだからこちらのスリッパを……服もパーカーだから紐があるのですみませんが……他にもメガネは自発的にレンズを割って切ってしまう恐れがあるんですが持ってなさそうですね云々……。
そんな話を受けて一部身ぐるみを剥がされ、彼は検査へと回されたのだ。
血液、毛髪、分からないトンネルのような装置にエトセトラ。なんだか身体中かき回された気分で最後に連れて行かれたのは、問診室だった。
「うーん。数値結果見る限りだとアルコールも薬物反応もナシ……と」
開口一番、その部屋にいた医者から聞いた言葉がそれである。バーソロミューは呆気に取られていた。とはいえカルテを淡々と見つめる医者にとって、これが当たり前の光景なのだろう。
「過去一年以上ドラッグとかやってないですよね?」
「……してない、はずです」
「……はず?」
「僕、他の病院で3ヶ月ぐらい前に保護されて……それ以前の記憶がなくて」
「あーはいはい。解離性健忘。じゃあ一旦クスリの線はナシにしようか」
彼にとって重い話であっても、医者にはやはりこれは日常なのだろうか。
けろっと作業的に言われ、なんだか肩透かしを食らったような、心底がっかりしたような、不思議な気分になってしまっていた。
「誰かに悪口を言われたりする声が聞こえることは?」
「……はい?」
唐突すぎる質問である。だが何か意図があるらしいと理解して彼は首を横に振った。
「な、ないですね……」
「何か、尾行されたりとか狙われてるなと思ったことは?」
「いや……そんなこと微塵も」
「じゃあ『あーもうどうしようもない!』とか『死にたい』とか思うほど辛くなったり落ち込んだことは?」
「……ないですけど」
「仕事ではちゃんと休めてる?」
「ええ」
「ハラスメント受けたりイヤだなーと思ったりすることは日常ない?」
「……ええ」
「ちゃんと眠れてる?」
「毎日ひどい夢は見ますが、まぁしっかりと」
「……うーん」
どうやら医者的には返ってくる答えが期待に応えないものだったらしい。
そしてぽつりと。
「陽性症状はなさそう。典型的な陰性症状も認知機能障害も原因となりそうなものもない……」
とだけ。一体全体自分はなんだと思われているのだろうか。
「……はい?」
「意思疎通にこれと言った問題も見られない。視線もこちらを向いているからその線もナシ……」
バーソロミューが聞き返すも医者は思考の海を漂っているようで、ぶつぶつと呟いている。そしてカルテ用のペンをくるりと回した後、医者はけろっとした顔でこう答えたのだ。
「イゾラさん、あなた典型的な精神疾患を持っている訳ではなさそうだ」
「典型的な、精神疾患ではない……?」
なんだか割と絶望的なワードを突きつけられた気がする。彼の問いに医者は手を横に振ってみせた。
「ああああ。気にすることはないんです。精神疾患は確かに現代では病や障害にカテゴライズされますが、一説によれば生存に有利だから残ったのだろうとか、有利な形質と遺伝的に関連しているとされてるし……」
「……はぁ」
「いくら典型的ではないとはいえ、ケアの方法はある」
……それってつまり、自分の精神に何らかの異常があると見ているってこと?
そんな疑問にはフタをして、説明を右から左へと流して行く。
「疾患や障害というのはあなた自身の問題じゃあない。現代の制度や社会があなた自身にマッチしていないことが問題なんですよ」
医者がフォローするように言ったその説明だけが、やたら印象に残っていた。
結局その後。
バーソロミューは医師から薬の処方を提案されたが、断った。
自分が他者とは決定的に違うのは理解できていたが、それは精神疾患と言われるものではなく、他の何かだと思ったからだ。
ただ、それが何かはわからなかった。そして心に原因があろうと他に要因があろうと、他人の目には異質なものは異質に映るのだとこの直後、彼は理解することになったのだ。
事件の翌日、いつものように仕事に出た時のことである。作業着に着替えるために自分用のロッカーを使った際に、事件は起きた。
いつもの上着を脱いだ際に、カタンと何かが床に落ちる音がした。あれ、何が落ちたのだろうと思うより先に、同僚の一人が音の正体を拾い上げ、バーソロミューに渡した。
「バート、これ」
バーソロミューは、周囲にはバートと呼ばれている。ゆえに容易くいつものように反射的に反応を示したが、今回ばかりは振り向かなきゃよかったと少し思った。
同僚が持っていたのは、病院の診察券である。
「あ、ありがとう……」
バーソロミュー改めバートは素直に診察券を受け取るが、妙な予感を胸に抱いた。その予感はすぐに的中した。
「診察券なんて……どこか、具合でも悪いのか?」
「あ、ああ……」
病院なんぞ、若くて健康ならば基本滅多にお世話にならないものである。そのため同僚もその点が気になったのだろう。
一方、バートは前日の件もあり、なんと説明していいかと言い淀んでいた。これは言い方を間違えれば距離を取られるものだと、何となく感覚的に思ったのだ。上司がバートのそばに寄ってきた。
「ん? どうした?」
とっさに首を横に振るバート。これで誤魔化せると思ったが、診察券を拾った同僚が食いついてきた。
「どうしたもこうしたも、こいつ病院通ってるみたいで! 俺心配で!」
浅はかだった。首を横に振っただけで誤魔化せるわけがなかった。心配という言葉は非常に残酷で、そして非常に強力である。『いらんことを』とも思ったが、同僚は心配した結果その言葉を言ったのだ。全く心配という言葉は恐ろしいものだ。
上司はバートをまじまじと見た後、心配そうな声を上げて一言。
「……何があったんだ? 休むか?」
「いやいや! そこまでの話じゃないんです!」
事実だ。事実しか言っていない。身体に問題はない。心もしかりだ。だが上司の顔は心配そうなまま。
「昨日ちょっと検査受ける機会があって、異常なしって言われたんで……」
「そう、か……」
上司の声のトーンが露骨に落ちた。そしてバートは悟った。これはまさしく『腫れ物に触るよう』だと。あからさまに『おそるおそる』と接しているのを肌で感じたからだ。
「まあ、なんだ」
上司はバートからわずかに目を逸らし、そしてぽつりと一言。
「体調管理には気をつけろよ」
「は、はぁ……」
「そこさえ気にかけてくれれば俺は文句は言わねぇよ」
なんだろう。避けられたような、妙に突き放されたような気分になった。
「あ、あの……」
焦りゆえにバートは上司に声を掛ける。上司はさっきの妙な怯えを持ったまま、バートを見た。
「何だ……?」
「大丈夫、なんで……」
あんまり大丈夫じゃないような発言になってしまったのは否定しない。だが、そうでも言わない限り自分を保証できないと思っていた。
しかし、それは上司には通じなかった。
「そうか」
上司のその返事はやはりどこかそっけなく、そしてもう関わりたくないと言いたげな雰囲気が露骨に漂っていた。
ただ、病気の疑いがあるという事実だけで、ここまで疎外感を覚えるとは思わなかった。気のせいではないと思う。仕事中も診察券を拾った同僚に、やたら心配された。
「ちゃんと休めよバート。検査受けるぐらいなんだからよ。また病院に行きたくないだろう?」
そんな言葉を午前中に何回も繰り返されたのだ。心配されたというか、その関わり方は妙にネタにされているような言い方に聞こえた……気がした。これは、僻みなのだろうか。それとも、気にしすぎなのだろうか。
それからひとまず午前中の仕事が終了し、昼の休憩を終えたあと。事態はさらにややこしい方向へと進むことになった。
器具を取り出したバートが改めて仕事に取り掛かろうとしたときのことである。
バートの耳に、人が啜り泣くような声が聞こえたのだ。
一瞬、気のせいかと思った。だが、あまりにも長い間泣く声が聞こえるのだ。これは聞き間違えではない。流石に不審に思い、バートは声のする方へと向かっていった。
真っ白でやたら殺風景な廊下が広がる中、小走りで向かうバートは、その廊下の奥に小さな女の子がうずくまっているのが見えた。どうやらあの子が声の主らしい。
「大丈夫?」
少女はバートの声に顔をあげ、こっちを見つめた。ずっと泣いていたせいだろう。その目は真っ赤に充血し、涙のためにまぶたがはれている。なんて痛々しいんだと思いながら、バートは優しく声をかけた。
「名前は? ご家族は?」
少女はヒックヒックと引きつりながらふるふると首を横に振るだけ。まいったな。これじゃあどうにもならない。そう思っていると、少女はすっくと立ち上がり、バートの手を掴んだ。
「おじちゃん」
「……へ?」
少女の顔を改めて見る。その顔は先ほどとは打って変わって晴れやかで、とても幸せそうだった。
「ありがと」
「??? あ、ああ。うん。どういたしまして……?」
少女はバートと握手をすると、たったかと勢いよく走っていき。
「ばいばーい」
元気に手を振って、廊下から去っていってしまったのだ。まるで狐に化かされた気分である。いっときではあるが憮然とした表情でそこに立ち尽くしていると、同僚が慌ててこちらにやってきた。
「おい! バート! 一体どうしたんだよ!?」
「どうしたもこうしたも……さっき、すすり泣く声がずっと聞こえるからこっちに来たら……迷子の女の子を見つけて」
「女の子?」
バートがいる廊下は、彼の目の前に突き当たりがある。つまり時間差はあれどどこかで同僚と少女が鉢合わせていないとおかしいのだ。
だが、同僚はそんな子供がいたとさえ認識できていない風である。
「……会わなかった、のか?」
おそるおそる、バートが問う。同僚は力強く頷きを返した。
「ああ、全くこれっぽっちも」
「…………」
背筋をまるで氷柱でツゥっと撫でるような奇妙な感覚が、走った。
自分が聞いたあの声は何だったのだ。握手だって交わしたのだ。この突き当たりで見たあの子は何だったのだ。
「まさかサボるための口実とかじゃあないよな?」
「そんなわけない!」
同僚はからかい口調だったが、そんな疑いをかけられてはたまったものじゃない、そう思い、思わず反論した。
「僕は確かに見たんだ! 名前を聞こうとして、家族がいるかを――」
思わず熱くなった。直後、バートは誤魔化しておけばよかったと後悔することになった。みるみるうちに同僚の目が深く沈んでいく。一気に頭が冷えた。
「え、あー……」
一気に語気が衰えていく。
「まあ、いいよ」
「……本当に、子供がいたんだ。ここに」
弁解は、する。だが同僚は聞いちゃいない。そう感じた。
「うん。わかった。そういうことにしよう」
――そういうことって、いったいどういうことなんだよ。
そんな言葉を言う暇もなく、同僚はバートの肩を叩いて無言のまま去っていったのだ。
おかげさまで、周囲の評価はだだ滑り。連日ストップ安を記録し、最終的には『何かが見えている変な奴』扱いされるようにまでなった。
そして、現在に至るわけである。今となっては、このままじゃあ仕事をクビになるんじゃないかという不安に怯える身だ。せっかく何もない所から仕事になんとかありついたというのに。
「あーあ……」
溜息一つ。何かいいことが無いだろうか。自分には手立ては思いつかない。だが、せめて今の状況を何とかしたい。そう思いながらぼうっと窓の外を見て、休日の街を眺めた。
まだ外は静かだ。先ほどと同様に人もいない。目の前に広がるのは、地面に美しいパターンを描く灰色の石畳と、少し汚れた建物たちだけだ。
できることなら休みがあと一週間ぐらい続いて、ぼうっとしていたい。数分ほど物思いに耽っていると、突如。
ジリリリリ、と、玄関の呼び出し鈴が鳴り響いた。誰なのだろうか。
特に警戒もせずドアを引き、開けた先にいたのは。暗い色のスーツに身を包んだ、一人の男だった。
身長180cm強ぐらいの、中肉の男。
いかにも西洋人らしい白い肌に映える、異様なまでに真っ黒なショートヘア。何だか髪の色が不自然に黒い気がするのだが、何なのだろう。この妙な違和感は。
フェルト地の中折れ帽からちらりと覗くその瞳は、摘みたての若いオリーブのような鮮やかな明るい緑だった。
「どうも。ベネー商会です。日用品の訪問販売で……」
男がニコニコと親しげな笑みを浮かべ、口を開いたと同時、バートは扉を閉めにかかる。セールスマンはお断りである。
だが。
「ちょ! ちょちょちょちょちょ!!」
男はドアの間に足を挟み、無理やりドアをこじ開けた。
「落ち着いて! 落ち着けって!!」
「落ち着けももちつけもへったくれもあるか!」
「僕は君の味方だって!」
何を勝手に人のドアをこじ開けようとして、味方などと抜かすのだ。バートも負けじとばかりに閉じにかかる。
「国営放送の受信料徴収と訪問セールスはお断りだ!」
それにしてもこのセールスマン、妙に強い。奇妙な力比べの状況になっているにもかかわらず、何だか涼しい顔をしている気がする。
セールスマンの男はドアをこじ開け、小さく笑った。
「バーソロミュー・アイソラ。話があるんだ」
「……!?」
なぜ、自分の名前を知っている。バートは自分の心臓がびくりと跳ね上がったような気分になった。思わずドアを押さえつける手が緩む。
「ちょうど10日前、君が見た“幽霊”の件で話がしたい」
そんなことまでなぜこいつは知っているのだ。ついさっきまでバートは彼を“単なるセールスマン”として警戒していたものの、それ以上の“得体のしれぬ人物”として彼を警戒せざるを得なかった。
「……あんた、何者だ」
得体のしれぬ何かに引き込まれそうな恐怖と、深い何かをのぞき込むような好奇心と、何か希望に満ちたもの。それらがバートの中でせめぎ合い、彼はドアから手を放してしまった。それを見た男は更に笑みを深くし、上着の懐から名刺を取り出し、それを彼に渡して見せた。
名刺には会社のドラゴンをあしらったロゴと、シンプルに2行だけ。
"Benet&Co. Sales Representative(ベネー商会 外交販売員)
James Faustus(ジェームズ・フォースタス)"
「ベネー商会のセールスマン?」
バートは思わずそう聞き返した。そういえば、さっきもこの男――ジェームズは自分がベネー商会の人間であると言っていた。確か、ベネー商会と言えば。
「ああ。知ってるかい? 『貴方のいつもの日々に、プラスアルファの価値をお手頃価格で』」
「その台詞、ラジオで聞いたことあるよ」
そう。ベネー商会はこの国じゃちょっと名の知れた企業で、主に日用品や生活用品の販売を手掛けている会社だ。テレビやラジオの通販CMでもその名を耳にすることがある。
自分が勤めている会社の名前を知っていると聞いて嬉しくなったのか、彼は今度は鞄の中から一冊のカタログを取り出し、バートに渡した。
「これ、うちの会社の今月の商品カタログ。よかったらあげるよ」
全ページカラー刷りのそれは、結構な分厚さと重さがある。ジェームズはそれをバートの前でペラペラとめくりながら、よどみなく喋り出した。
「オススメは117ページのこれ。ドイツ製の裁縫用バサミ。セラミックス製で布以外を切っても切れ味が落ちない。あと57ページの日本製高枝切りバサミもなかなかいい切れ味で操作性も素晴らしい。あと……そうだな。93ページに載ってるキッチンバサミはアルミ製で軽くて丈夫なのが売りだ」
怒涛の紹介である。だが、バートは呆れていた。
「……なんでハサミばっかりなんだ」
僅かにうんざりした口調で、バートは切り返す。
「何だ? アンタの会社はハサミが主力商品なのか?」
「いや、そういう訳じゃないけど。……ハサミはいらない?」
「ハサミなんてそう消耗するもんじゃないだろう」
「……まあ、確かに」
「そもそもここはアパートだ。高い木なんて植えられない。それに、僕は男で裁縫なんてできない」
「ああ、それはうっかりしていた。まあでも93ページのキッチンバサミはオススメ。本当にいい製品だから」
「……考えておく」
客がどういう人間か見定め、その上でオススメの物を売るのがセールスマンという仕事であるのならば、こんな容易く客に論破された挙句その判断ミスを『うっかりしていた』で一蹴して済むものだろうか。
バートは渡されたカタログを小脇に抱えて溜息を一つ吐いた。